euphoria


軋んだ心の隙間に


...怖かった。自分の気持ちがどこにあるのかを知るのが怖い。押し殺そうとしても、会う度に私の中で大きくなる。
目が合えば優しく微笑む少し幼くも見える笑顔も、気遣いの出来る優しさも、あの人には無いものを彼はたくさん持っているから。



隣に座る夫が突然ナイフとフォークを置いて、慌てて取り出した震える携帯。その通話ボタンを押しながら立ち上がり、私と向かいの席に座る彼に、片手を顔の前に持ってきてごめんのジェスチャーをして席を外す。

モヤモヤした気持ちは渦巻くけれど、同時に急にふたりきりになってしまったことで少し緊張してしまう。
玄関へ続く廊下へのドアが閉まるのを見ていた彼から目を逸らして、目の前の肉が乗った皿に目を移した。

『仕事、...っすかね』

顔を上げて彼を見れば、にっこりと笑みを作って私を見ていた。
家なのだから、仕事の電話ならここですればいい。彼は夫と同じ職場の後輩なのだし、今はこの家に私達3人しかいないのだから。

「...どうかな」

含ませた言い方をしてしまったのは、私に下心がある証拠だろうか。
...わからない。わかりたくもない。
最低な夫と同じようにはなりたくないのに。心配して欲しいとか私を気にして欲しいとか、そんな気持ちが自分自身にあるなんて認めたくない。

もう一度ちらりと目を向ければ、私をじっと見ていたからドキリとした。口元に笑みは浮かんでいるものの、何でも見透かしてしまいそうな、優しくも真っ直ぐな目が怖い。

『...気になる事あんねや、』

少し驚いた。独り言のように彼が呟いたのは、何があったのか心配したりするような言葉ではなく、夫の不倫を知っていたようにも取れる言葉だったから。

「...そうじゃないけど、」

困惑が顔に出てしまったんだろうか。私の言葉に安田くんがふっと息を零して笑った。何か言いたげにも見える表情に緊張が高まる。

すると彼がフォークを置いて私の方へ少し身を乗り出し、控えめな声で言った。

『奥さん、俺の事好きでしょ』

思いも寄らない言葉が私を追い詰めた。さっと血の気が引いて、次第にバクバクと心臓が早鐘を打つ。
そんな私を余所に、安田くんはいつもよりも幼い顔で無邪気に笑っている。

「...え...?」

上擦った自分の声にますます動揺する。
彼はどうしてそんな事を。自分自身でさえ認めて来なかったこの気持ちを、何故彼が。

『...あは、嘘ですよ。んなわけないすよね』

言葉が出てこない代わりに咄嗟に作った笑顔は、きっと不自然過ぎる。こんな余裕のない私は、彼の目にどう写っているんだろう。

『びっくりしました?』
「...ん、ちょっと...」

笑いながら『すんません』と言った安田くんは、またフォークとナイフを手にして私から視線を外した。相変わらず崩れない笑顔の裏で、今どんな事を考えているんだろう。

『先輩居れへん時こんなん言うたら怒られますね』

ふふ、と笑って私を見た彼と目が合ったから、さっきよりも幾分かマシになったはずの笑顔を向けた。

『...居れへんから、言うてみてんけどな』

先に目を逸らして俯いた安田くんの言葉にドキリとした。口元に浮かぶ笑みは私をからかっている証拠だろうか。
彼を見ていてもその心は読めない。もっと冷静でいられたら、彼が何を思っているかわかっただろうか。

『ええなぁって、思ってたんすよ。ずっと』
「え?」

ワイングラスを軽く傾け中身を口に含み、また口角を上げた彼と目は合わない。それが余計に緊張を煽る。

「...何、」
『...先輩、奥さんにこんっな想われてて、ええなぁって』

思わず言葉を失った。今のこの気持ちでは、とてもじゃないけど“想ってる”なんて言えないのだから。

『幸せもんやなーって』

逃げるように彼から目を逸らして俯いた。
安田くんに初めて会った頃は、まだそんな気持ちがあったんだろう。...けれど今は。

「...そんな事ないよ」
『ありますよ』
「...あの人は思ってないよ」

自虐的に聞こえてしまっただろうか。
自分の気持ちがよくわからない。
諦めてはいてもあの人の行動に胸が痛むのは、まだ愛があるからなのか。
あの人の不倫を知って私の心は安田くんに逃げようとしたのか。それとも、もう既に最初から、どこかで彼に惹かれていたのか。わからない。

『...俺は思てたよ』

呟くように小さな声が私の心臓を刺激した。ドクリと脈打った心臓は、暴れるように激しく煩くなる。
視線を上げると私を射抜くように見つめた瞳。その目が少し怖かった。

『...先輩のその場所...俺、譲って欲しいもん』

視線を外してからまた笑った彼を見て慌てて俯いた。目の奥がじわりと熱くなったから。

今を壊すのは怖いのに、彼が私を理解してくれているようで、まるで想いが通じたようで胸が苦しくなった。

言葉を返せずに唇を噛み締める私を見ているであろう彼に、この気持ちを知られるわけにはいかないのに。射抜くような瞳はやっぱり怖いけれど、知って欲しいと思う弱い心も僅かに、確かに、共存していた。

リビングのドアの磨りガラスの向こうにあの人の姿が映ったから、小さく息を吐いて自分自身を落ち着かせるようにワイングラスに口を付けた。
その扉が開くと同時に、私を見た安田くんが口元に笑みを浮かべ小さく呟いた。

『今の言葉、無しにはせぇへんよ』



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