euphoria


苦い恋と似ていた


玄関まで見送ると、振り返った安田くんはあの人に『お邪魔しました』と言った後、私に笑顔を向けて家を出て行った。

『ちょっと俺も出掛けてくるわ』

安田くんが家を出て早々にそう言った隣に立つ男に、うん、とだけ返事を返す。
私が気付いていないとでも思っているんだろうか。気付いていても何も言わない私を、都合が良いと思っているんだろうか。
...どちらにしたって、私からしたら同じことだけれど。


一人になった部屋でソファーに座り目を閉じる。
さっきの安田くんの言葉や表情はまだ鮮明に浮かぶけれど、冷静になって思い返してみれば、私が思うような都合の良い意味ではなかったのかもしれない。安田くんの言う“その場所”というのは、私の隣を意味するのではなく、ただ誰かと幸せな家庭を持ちたいとか、そんな意味だったのかもしれない。
それでも私を見つめた真っ直ぐなあの目に、少なからず期待してしまったのが恥ずかしい。

本当に自分がどうしたいのかわからない。今の生活から脱したいのか、変わりたくないのかすらわからない。
何も考えたくない。
あの人が今どこで誰と何をしているのか、これからどうなるのか。知りたくもない。

インターホンが鳴ってパチリと目を開けた。モニターに目を遣るとそこに俯いた安田くんの姿が映っていたから胸が高鳴る。応答することもなく、足はすぐに玄関へ向かっていた。
ドアを開けると顔を上げた安田くんが申し訳なさそうに苦笑いする。

『すんません...携帯、忘れたかも...』
「...うん」
『先輩は...?』
「...いないよ」

黙って私を見上げた安田くんと視線を絡ませることなく、玄関に彼を招き入れてリビングへ向かう。けれどすぐに足を止めた。

「...上がる?」

背を向けたまま問うけれど、彼からの返答がないから唇を噛み締めてリビングのドアを開いた。

『...いいんすか?』

その言葉にドキリとしてしまった。
いつもあの人と話す時のようなトーンが高めの声ではなかったから。

「...いいよ。キッチンはまだ片付いてないけど」
『...じゃあ、お邪魔します』

少し声のトーンを上げた安田くんをちらりと見て、自分で誘ったくせに動揺していた。何でもないみたいに振り返って笑顔を貼り付け、さっきまで彼が履いていたスリッパを前に差し出せば、彼が部屋に上がる。
すぐに背を向けて先にリビングに入ると、後ろから安田くんが私に声を掛けた。

『あの』
「...ん?」
『すぐ、帰りますから』
「...うん」

リビングに入ると部屋を見回す安田くんを盗み見て、ダイニングテーブルの周りで携帯を探す。するとテーブル脇の雑誌のラックに、滑り落ちたであろう彼の携帯を見つけた。
あまりの呆気なさに少し躊躇いながらも、携帯を拾い上げて振り返る。

「あったよ、ここ」
『あ、よかったぁ』

こちらに向かってきた安田くんが笑顔で私に手を伸ばした。差し出された手に携帯を置けば、ありがとうございます、と言って俯きながらポケットに携帯を押し込む。

『...わざと忘れたわけじゃないっすよ』

俯いたままふっと息を漏らして笑った安田くんを見て鼓動がますます早くなるのを感じた。

「...別に疑ってないよ」
『あは、絶対疑われてる思たのに。さっきあんなん言うたから』

その言葉を聞いたら、自分の期待が勘違いではなかったことを確信させられたようで動揺が走った。
視線を合わせられない私を、どうかおかしく思わないで。私の抱えるこの気持ちに、気付いたりしないで。
ぎこちない笑顔を、お願いだから見逃して。

『...先輩、どこ行ったんですか...?』

笑みを浮かべて首を傾けて見せ、逃げるように彼の横をすり抜けた。彼が帰る前にあの人がリビングのテーブルに広げた雑誌をラックに戻すと、後ろから安田くんが言った。

『...大丈夫ですか?』

...彼は何を知っているんだろう。
私の知らないことまで、彼は知っているんだろうか。

「何が?」
『...や、なんとなく』
「...安田くんは、やっぱり知ってたんだ...?」

振り返って笑みを浮かべ安田くんを見れば、彼は誤魔化すように曖昧に笑って首を傾けた。

「大丈夫だよ」

目は合わせずに黙って頷いた安田くんが、暫しの沈黙の後、私に軽く頭を下げた。

『...じゃあ...お邪魔しました』

彼に会釈を返すと、玄関へ向かう彼の後へ続いた。近くで見る小柄な彼の背中は思いの外大きくて、その背中を見つめながら胸がぐっと苦しくなる。

『...また来てもいいですか?』
「...勿論。家も近いんだし」
『じゃあ、先輩に言うときますね』

私が頷くと柔らかい笑みを浮かべて安田くんが玄関を出て行った。
閉まったドアを見つめて、自分の感情に戸惑っていた。今日で一気に加速してしまった気持ちは、もう認めざるを得ないところまで来ている。
久し振りに思い出したこの胸の苦しさは、記憶の中の苦い恋と似ていた。



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