背徳者のジレンマ
章大の声が聞こえた気がして目が覚めた。カーテン越しの外は僅かに明るく、静かな雨の音が聞こえていた。
ベッドの隣のスペースにはまだ章大の体温が残っているけれど、声が聞こえるのは恐らくリビングから。耳を澄ましてみれば、私を起こさないように気遣っているのか控え目な声で電話をしているであろう章大の声。
『ごめんなぁ?...おん、また今度』
電話を切った章大の足音がこちらに近付いてきたから、布団に包まったまま章大を見上げる。携帯を弄っていた章大がベッドサイドに腰掛けて携帯を置き、私を振り返ると視線が絡んで驚いたように目を丸くした。
『...びっくりしたぁ...起きてたんや?』
「...なんか約束あった...?」
さっきの電話は、断りの電話だったから。私が急にここに来たことで断ることにしたのなら申し訳ない。
章大はすぐに笑みを作って私の髪を撫でながらキスを落とした。
『うん。でも断った』
「...行けばいいのに」
『んーん、俺が一緒に居りたいから』
今度は髪を払って額にキスを落とし、柔らかい笑顔で私を見つめる。
この優しさに甘え過ぎてしまうと、本当にもう章大から離れられなくなってしまう。
座る章大の腰に腕を回してお腹に顔をくっつけると、子供のように頭を撫でられ目を閉じる。
本当に、この人が私のものになればいいのに。
私の腕をやんわりと解き章大がベッドに入ってくると、啄むように何度もキスを落とした。
『...おはよ』
昨日堪えた涙のせいで少しだけ腫れぼったく感じる瞼を、章大の親指が撫でる。
『雨やし、もう少し寝る?』
首を横に振ると腰に回された腕に引き寄せられて体が密着する。私の唇を食む章大の口角が上がって、唇が触れる距離で笑った。
『えー、もう起きる?』
甘えるように何度も唇を触れさせ、やんわりと食んで、章大の手が内腿を這う。ひくりと腰が揺れると、私の体を跨いで上に乗り首筋に柔らかく歯を立てる。
『もうちょっと寝よ』
誘うように首筋に舌を這わせ、厭らしく体を指でなぞり、耳元で囁く。
「寝る気ある?」
思わず笑みを浮かべれば、章大も笑って唇が触れた。内腿から滑る指がもう既に少し潤った中心部をなぞり微かに水音を立てる。
『あるよ。けど、このまま寝れるん?』
顔を近付けて笑った章大の唇がゆっくりと重ねられ、甘く舌が絡んだ。
『あっという間やな。1日』
私が作った夕食を摂り終え、ソファーに寝転がって言った章大の言葉に笑顔を向けて頷く。
笑ってはいるけれど、不安でしかなかった。明日は月曜だし、ずっとここにいるわけにはいかないのだ。
けれど、...帰れない。まだあの人に会うための心の余裕はない。
『せんでええよ、洗いもん』
「うん。少しだから」
体を起こした章大がゆっくりとキッチンに歩いて来て私の後ろに立った。後ろからお腹に腕を回して背中にぴったりと貼り付き、肩に顎を乗せる。
それが結婚したての頃のあの人と重なって、その光景を振り払うように笑顔を作って章大に言った。
「お皿、割っちゃうよ」
『だったらもう置いてさ、あっち行こ』
食器を流しに置いて手を洗うと、章大の腕が解けてソファーへと戻って行った。その後を追って隣に腰を下ろすと、覗き込むように首を傾けて私を見た章大が柔らかい笑みを浮かべた。
私の言葉を待っているようにも見えるその表情に戸惑う。
すると首の後ろに回された手に引き寄せられて唇を重ねる。目の前で見つめて、笑みを浮かべたまま柔らかい口調で章大が言った。
『...帰らんでええの?』
思わず目を逸らして口を噤んだ。
...帰りたくない。けれど迷惑も掛けたくはないのだ。
言葉に詰まり黙っていると、葛藤を察しているかのように髪を撫でまた私を覗き込む。
『...どうしたい?』
帰りたくない。一緒に居たい。
だけど、帰らなければいけないのは、よくわかってる。
困ったような顔をして笑った章大が、もう一度柔らかく唇を食んだ。髪を撫で、私の心を落ち着けるように背中を叩くと、体を離して笑顔を作る。
『じゃあさ、俺、シャワー行ってくる。一人になってさ、ゆっくり考えたらええよ』
もう一度キスを落としてわしゃわしゃと髪を乱すように撫で、章大が立ち上がった。ドアの前でこちらを振り返った章大が、ひらひらと手を振って扉を閉める。
...帰るなら、今帰れということなのだと理解した。
帰りたくない。帰らなきゃ。一緒に居たい。このままでいい筈がない。
迷い揺れ動く心が胸を締め付ける。
きっと私は、章大に帰れと言われたら帰ったし、居ていいと言われたらこのままここに居るんだろう。
章大は止めなかったし、背中も押さなかった。帰れとも、居て欲しいとも言わなかった。
章大の想いが知りたかった。いつも笑顔の裏に隠す読むことの出来ない気持ちを知ったら、すぐに決められたのに。章大のして欲しいようにしたのに。
けれどこれは私自身が決めなければならない問題だとわかっている。
時計に目を遣り、僅かしかない決断までの時間に焦りながら、掌で顔を覆った。
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