星が落っこちた日
1462days
過去を回顧したところで何かが変えられることはなく、ただ過ぎ去りし日々に思い馳せることしかできない。回り始めた歯車を止める術を人が持たないように、遠い過去に成り下がったかつての記憶に干渉することはできず、ただ呆然と意味のない明日を迎えることだけが生きとし生ける生命に課せられた運命なのだろう。
「ほら、口を開けて」
降り注ぐ柔らかな声にわたしは緩慢な動きで顔を上げた。太陽の光を十分に浴びた向日葵のように鮮やかな金色の髪を持つその人は、スプーンを片手にわたしに優しく微笑んでいる。彼は黙り込んでじっと見上げるだけのわたしを慈しむようにそのきりりとした眦を緩めて見つめると、椀によそわれたシチューを掬って、わたしの閉じた唇をつんつんとスプーンの先でつついた。わたしはほとんど反射的に唇を開き、中へと差し入れられるスプーンを受け入れる。どろりとしたシチューを舌の上に落とされると、そっとスプーンを引くので、わたしはもぐもぐとゆっくり咀嚼をした。
どうしてわたしは彼に食事を食べさせられているのか? これにはわたしが病人であるとか、腕を骨折しているだとか、そういった事実はない。わたしは肉体的には至って健康で、この両腕には未だ自由がある。ただ、これは|い《・》|つ《・》|も《・》の行為であるのだ。わたしは与えられたものを拒絶してはならないし、求められるがままを振る舞わなければならない。命令には従順に、要望には忠実に。今はそう、こうして大人しく与えられる食事を口にすることを求められているから、わたしは望まれるがまま彼から与えられることを受け入れているのだ。どんなにわたしが苦しく、そしてどんなにその行為を心の底では忌避していたとしても、その感情に蓋をして受け入れなければならない。そうあることを|求《・》|め《・》|ら《・》|れ《・》|て《・》|い《・》|る《・》から。
「美味しい?」
「お……おい、おいし、い」
「そうか、よかった。今日はね、君の好きなものを作ったんだよ」
彼はそう言うと、慈愛に満ちた優しい眼差しをわたしに向けた。彼の猩猩緋の瞳の奥、そこから覗く色はどこまでも暖かく、わたしの事だけを想っている。掬われたスプーン一杯が再びわたしの口元に運ばれて、わたしは促されるままに口を開ける……そうして舌に落とされたそれをわたしは飲み込み――食べやすいようにとどろどろに煮込まれたシチューは、泣きたくなるくらいに懐かしい味がした。
「夕食を食べ終わったらお風呂にしようか。いくら君がそこから動かないとはいえ、一日中そのままでいるのは気持ち悪いだろう?」
口端から垂れたシチューをつつ、とスプーンの先で拭って、彼はわたしの頬を指の甲で撫でる。行動の一つ一つにわたしへの気遣いと思いやりが込められているのを感じて、わたしは彼のその眼差しから逃げるように目を逸らした。
きっと傍から見れば、彼は甲斐甲斐しく世話を焼く心優しい人に映るのだろう。事実、彼はそうだった。自身の損失も厭わず、誰にだってその優しさを配り、手を貸してくれる絵に書いたようなお人好し≠セった。誰かの影に隠れていることしかできないわたしにさえも手を伸ばし、彼はわたしを彼が立つ暖かな日向へと誘ってくれるのだ。その寄り添うような優しさに、わたしは何度救われたことだろう。わたしにとって、彼は太陽みたいな人だった。その向日葵のような髪と同じように、太陽の光を内包している暖かな人だった。彼の明るさを知る人ならば、彼がどんなに素晴らしい人間であるのかはよく分かるはずだ。……しかし、そんな素晴らしい偶像の彼とは相反して、現実は想像よりも醜く、残酷で、優しいものではなかった。
太陽も翳る日があるように、どんな優しい人にも影はあるし、どんな人にも他人には言えない秘密がある。見えるものすべてがこの世の真実という訳ではないことを、わたしはこの身をもって痛感している。
「ちゃんと全部食べれたな、いい子だ……さあ、ほら、お風呂に入れてあげよう。大丈夫、僕が全部やってあげるからね」
汚れたわたしの口元を優しく拭ってら彼は備え付けのサイドテーブルに空の食器を置くと、子供を抱き上げるように正面からわたしを抱えた。脇の下をもちあげられてそのまま抱き上げられると、小さくなったわたしの身体はすっぽりと彼の腕に包まってしまう。ぽん、ぽん、と彼の大きくて、一見華奢なように見えてその実男性のそれらしくごつこつと角張っている手のひらがわたしを宥めるように後頭部を叩くので、わたしは何も言えなくなって、彼の肩に何もかもから隠れるように顔を埋めた。
この時、そう、このとき――わたしはどうしようもなく消えたくなる。入浴の介助をされるということにも、そして、普段は毛布に隠された現実を突きつけられてしまうのも。一度に抱えられた時、わたしは嫌でも痛感させられるのだ。子供のように抱えられているくせに、本来彼の背中側にぶらんと投げ出され宙を漂うはずのものがないことに。
抱き抱えられている。子供のように。けれども、ぶらんと揺れる両足はどこにもなく――わたしの足は、丸くなった付け根から先がどこにも存在していないのだ。
もちろん、生まれた時からわたしに足がなかったわけではない。今は遠い昔のこと、わたしはこうして彼に世話をされることもなく、自らの足で外を歩き、自らの手で入浴をして、そして、自らの足でどこにだって行っていた。
「君は何も気にしなくていいよ。これはすべて僕が望んでやっていることだから」
彼は優しい。身体障害者の世話はとても大変で、面倒だということは自分が一番分かっている。一人ではどこにもいけない、排泄の処理もままならない、入浴だって難しい。足の付け根から先がないせいで一人で座ることもできず、誰かの世話を借りないと生きていけない寄生虫だ。偉大な建築デザイナーである彼にとってはお荷物にしかならないはずなのに、自らわたしの世話を買って出て、今もこうして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれている。こんなに最低なことはなかった。足のないわたしはどこにもいけないから日常生活も困難で、碌に運動もできないから日に日に筋力が衰え徐々に何をするのも難しくなっていく中、彼は愚痴の一つも零すことなくわたしの介護を行ってくれること。わたしは最低のお荷物なのだから、彼の優しさに溢れるほどの感謝を覚えなくてはならない。
だからこそ、この生活においてわたしは与えられるものを拒絶してはならないし、求められるがままを振る舞わなければならない。それがどんなに苦しくて、心の底では忌避している行為であっても、その感情に蓋をして、すべてを受け入れなければならない。――こうなったのはすべて、彼のせいであったとしても。
「……」
いつかわたしが外を自由に出歩くことができる足があった日のことを思い出す。あの時のわたしは、 今よりずっと自由で、そして、ずっと希望と期待に溢れた日々を送っていた。そして、同時に――あの時のわたしたちは、今のような歪で、狂った関係ではなく、ただ純粋に友人として日々を送ることができていた。
――もうずっと昔のことだ。わたしと彼――カーヴェくんは、かつて教令院の同級生だった。
0days
どうしてこんなところに入学してしまったのだろう。
このところ考えるのはずっとこんなことばかりだった。講義が終わり、わたしはそそくさと逃げるように講堂を出ると、誰にも見つからないように俯いて足早で教令院を駆けていく。周りの声に怯えながら生活し、肩身の狭い思いをしながら、落第生の烙印を押されないようにと必死になって授業に齧り付いて過ごしていること。これが、わたしの毎日だった。
わたしは教令院の学生であるというテイワット一の知識を授かる栄誉を授かっておきながら、どうにも頭がわるく、要領もわるい教令院きっての落ちこぼれだった。育ってきた村では神童なんて持て囃されていたけれど、地図にも載らないような小さな村での称号なんて所詮は稲妻で言うところの井の中の蛙でしかない。極平凡な頭脳でしかないくせに、自分は優れた人物であると勘違いして天狗になり、親元を離れて意気揚々と教令院に入学してみれば、突き付けられたのは厳しい現実だった。わたしが今まで過ごしていた世界は狭く、そして教令院の中に広がる知識の世界はとても大きかった。世界各地の優秀な頭脳を持った人々が集まるハイレベルな世界に、馬鹿なわたしはついていけなかった。
まったく何をしても笑われてばかりだ。皆が当然のように理解している日々の講義は、わたしにとってはどうしてそんなにも簡単に理解できるのかと問い質したいくらいに難しく、指導教員の言葉も右から左で理解が追いつかない。授業の一環で取り組むプロジェクトには、一つの議題を生徒同士で討論する会も少なくはないのだが、きっと彼らとわたしでは脳の構造さえも違うのだろう、専門用語の飛び交う彼らの会話についていけないのだ。あなたはどう思うと意見を求められたところで会話の内容さえもまともに理解できていないようでは優れた案など出せるはずもなく、あっという間にわたしの知能の低さが露呈した。
これは人間に限らず生物全般に言えることだが、集団の中で目立つ生き物は孤立する。例えば動物でいうなら突然変異のアルビノなどがいい例だろう。彼らは先天的な異常により色素が欠乏しているため、白化個体となる。白い身体に、眼底の血流が透けて見えるために赤くなる瞳。自然界において、このように襲ってくれと言わんばかりの体色は致命的だ。故に孤立する。生物は自身とは異なる個体を除け者にする傾向があるものだ。
ならば教令院においてはどうであるのか? 教令院において、アルビノの立ち位置にいるのがわたしだ。頭もわるければ要領もわるい、どうして知識の方向たる教令院に在籍しているのかも分からない劣等生。こんなにも脳のない馬鹿と交流を持ちたがる奇っ怪な生徒はおらず、いつだって陰口を叩かれてばかりいた。嘲笑の声はわたしの心を容赦なく突き刺して、傷口から血が溢れる度にわたしの劣等感は強くなった。針の|筵《むしろ》とはこのことだ。何もかもわたしの頭がわるいのがいけないのだけれども、それでも心無い言葉には胸を傷める。いたたまれなさに俯き、限りなく存在感を消して、透明人間になったかのような心地で小さくなりながら必死に聞こえないふりをしていた。
どうしてこんなところに入学してしまったのだろう。こんなところに入学するべきではなかった。
幼い時から本を読むのが好きだった。それから、物事を観察するのも。本で見た動物をじっと観察してその生態を眺めたり、図鑑の中にある植物を探し回ったり、本の中にしかない知識を自分のものにする瞬間が好きだった。それに、わたしがあれはああだった、これはこうだったと両親に報告すると、にっこりと笑ってお前はすごいと褒めてくれるから、尚更わたしは張り切って、本の中の一文に記された真実を求めて駆け回った。周囲の子供が子供らしい遊びに興じる中で、わたし一人だけが本の世界にのめり込んでいたものだから、村の人たちはわたしの頭がとても優れているものだと思って、持て囃したのだ。そうして、誰かが言った。あの子はこんなところで燻るのはもったいない、教令院に行くべきだ=\―。
教令院で支給される新品の学生服に初めて身を包んだ時、わたしの瞳は未来への期待に溢れていた。本の世界。世界の知識が集まる世界にある本は一体どんなものがあるのだろう? 世界の神秘に触れ、その真実を知ること。自分の未来は尊く、そして輝かしいものになるのだと信じて疑わなかった。いつか幼い頃に本の中の真実をこの目で目にした時の高揚感が、あの日のわたしの胸の中には溢れていた。
……でも、今は。
今は、この深緑の学生服が何よりきらいだ。自分には不相応の代物だと知っているから。叡智に触れることを許された証である学生服は、頭がわるく能力の劣っているわたしが身に纏うには重たく、相応しくない。わたしがしていたことはただ誰かが既に見つけた真実をなぞっているだけであり、わたし自身が新たな真実を見つけていた訳ではなかった。わたしに考える力はない。ただ受動的に誰かの構築した理論を眺めていただけ。この教令院において必要なのは、知識を得ることそれ以上に得た知識に基づいた思考をするということであり、本の知識をなぞるだけの思考を停止した人間ではないのだ。
所詮凡人でしかない。理論的に物事を提唱する能力など、最初からわたしにはなかった。
親元を離れ、単身スメールシティに越してきて生活している。村の皆はわたしに期待をして、決して安くはない学費を出し合ってわたしを教令院に通わせてくれたというのに、わたしときたらまともな成果一つ成し遂げられていない。それどころか、小さく縮こまって、周りの目から隠れるようにこそこそ逃げ回って、愚かな醜態を晒している。村の人々はわたしが何かを成せる人物だと思って応援してくれているのに、わたしはずっと出来損ないだった。こんな自分が恥ずかしくて堪らない。彼らに胸を張れるような人間になりたいのに、膨れ上がるのは劣等感だけだ。
毎日が憂鬱だった。朝なんて来なければいいのにといつも思った。朝が来なければ、わたしが鬱屈した学生生活を送ることも、村の皆や両親への罪悪感で苦しむこともないのだから。ずっと夜のままであればいい。眠っている時だけが、わたしを辛い現実から逃がしてくれる。
けれども、そう願う心と相反して、現実はわたしを待ってはくれない。雨が止んだら晴れるように、時計の針が六十数えて一周を巡るように、夜が明ければ朝が来るように、花が咲いたら枯れるように。変わることのない必然が世界を構成し、わたしたちはそれを当然のように享受している。自然の摂理はただこの広い世界に生を受けているだけの生物でしかない|人間《わたしたち》に干渉できるものではなく、ただ分不相応の期待と出来損ないの現実に板挟みになる生活の中で、苦悩する毎日を送るしかないのだ。
だからその日もわたしはこそこそと悪いことをした罪人のように人の目を忍んで知恵の殿堂にやって来て、聳える本棚のちょうど背中側、壁際の暗い一席に腰掛けた。広い知恵の殿堂内でも、そこは人気が少ない場所であるからだ。というのも、その席がある周辺の本はあまり人の読まれることのない本が揃えられている……具体的に言えば、どの学派にも属さないファンタジーな娯楽本だ。知識の宝庫たる図書館においてはどんな内容の本も保管するということなのかどうかは分からないが、研究には一切意味のない無価値な本もこの知恵の殿堂には収納されている。最も、人気ない本はそれだけ奥に押し込められて、誰の手にも渡ることがなくなるのだが。しかし人に求められないという点ではこの娯楽本もわたしもおなじだった。人に見つからないという点においては好意的な立地と歪んだ親近感によって、わたしはいつもこの場所で講義を復習していたのだった。……もちろん、授業に追いつくためにである。
わたしは頭がよくない。少なくとも、教令院で求められる頭脳には到底及ばない。本来であれば復習などではなく、学んだことを実践すべく研究に勤しむべきなのだろうが、わたしは大前提からしてスタート地点に立ててはいないので、こうして反復して理解するところから始めなければならないのだ。
まるで難解な数式を目の前にしている時のような感覚。理論を理解しているつもりでも、どうしてそのように解くのかが分からない。しかし、分からないところを教えてくれる友人などわたしにはいないので、ペンを片手にうんうんと唸りながら、一人では解けない問題に頭を悩ませるのがわたしの常だった。
「こんな暗いところで何を?」
「ヒッ……!!」
そんな時、突然声を掛けられて身体が数センチ飛び上がる。ぎぎぎ、とまるで壊れたおもちゃのような機動で上を見上げれば、ぱちくりと驚いたように瞳を瞬く金色の髪の少年がわたしを見下ろしていた。
瞬間、わたしの心臓はばくりと大きな音を立てる。嫌な感覚にぶわりと汗が吹き出すのを感じた。
「あ……驚かせてしまったか? すまない。ただ、論文を書くにはここには照明がないから目を悪くしないかと思って……」
「す、みません、すみませんすみませんすみませんっ! ど、どき、ます。すぐ、い、いなくなります、から」
「えっ、いや、待ってくれ! 別に怒ってるわけじゃないんだ」
「あ、あう、あう……」
がたりと立ち上がり、机上に開いていた教本やノートをまとめて慌てて立ち去ろうとするわたしの腕をその人はがしりと掴んだ。わたしはもう泣きそうになって(実際泣いていたかもしれない)嫌々と首を振りながら俯いた。相手がどんな顔をしているのか見ることができなかった。きっと出来損ないで落ちこぼれのわたしが、身の程知らずにも知識の宝庫である知恵の殿堂に立ち入り、今だ退学の意思を見せないことに腹を立てているのだ。わたしはぶるぶると震えながら、ひたすらに謝罪を重ねる。下手に下手に出るのは最早染みついた癖だった。
「や、やめます、め、めいわく、迷惑、もうかけませんから……」
「……? なあ、さっきから何を言って……」
「う、うう、や、やめます! きょ、教令院やめます! やめます、うう、ううう〜……」
別に彼にやめろと言われていたわけでもない。ただ、わたしを見る不思議そうな眼差しがまるでわたしを責めているように感じたのだ。目尻に溜まった涙がぼろぼろと零れ落ちて、ぎょっと彼が目を丸くするのが見えた。
――今思えば、わたしは精神的に追い詰められていたのだと思う。期待と現実で板挟みになる中、ままならない自分と向けられる冷淡な瞳に心が打ちのめされていた。誰もがわたしを厭い、嫌って、嗤っているものだと思い込んで、自分に優しい世界に逃げたくて仕方がなかった。
あの頃のわたしは、他人に認識されることそのものが「死」だった。こんな自分が未だに教令院という場所に縋りついて在籍をしていることが申し訳なくなり、せめて誰の目にも触れられないように息を殺していたのに、彼に見つかってしまったことでわたしはすべてが終わった≠ニ感じたのだ。
ああ、もうここにもいられないのだ、と。もう行く場所などなくなってしまったと、そして思って。
「……な、泣かないでくれ」
すると、彼の手が恐る恐るわたしの涙をそっと拭った。涙目で見上げれば、彼は困ったように眉を下げてわたしを見つめていた。彼からすれば、ただ心配に思って声を掛けた相手が泣き出すのだから大層驚いたことだろう。
「教令院を辞める必要なんてないし、迷惑だってかけられてない。むしろ、僕があなたの邪魔をして迷惑をかけてしまって……」
「ち、ちが! ちがう……ちがうんです……ぜ、ぜんぶわたしがだめだからいけなくて……」
勘違いをしている様子の彼に、わたしはわっと声を上げた。
「わたし、わたし馬鹿だから。う、うう、……ばか、だから、ここには、いられなくて」
「……!」
「お、おとうさんと、おかあさんに、村のみんなに顔向けできない……わ、わたしに、期待して、こ、こに通わせてくれたのに、わ、わたし、ばかで、ばかで、な、なにも、なにもわからなくてぇ……」
「……」
支離滅裂の言葉だ。主語のない言葉は脈絡がなく、どうして教令院を辞めると突然宣言したのかの理由にしてはあまりに突然な自分語りだ。
きっとわたし自身もよく分かっていなかった。ただすべては自分のせいであって、彼は何も悪くないのだと、そう説明したいだけだったのだろうが。
彼はしばらく黙り込んでわたしを見つめていた。そうしてわたしの言葉の意味をじっと咀嚼して、ふとおもむろにわたしがかけていた対面の席に腰掛けた。呆気にとられるわたしを彼は見上げて、人差し指で自身の対面を指差す。そして。
「あなたも座って。どこが分からないんだ?」
「えっ……」
「分からないところを一人で考えていたって答えは出てこない。だが二人なら導き出せるものはある。僕でよかったら、力になるから」
ひょっとしたら、わたしの中にある劣等感を感じたのかもしれない。もしくは、わたしの中にある両親や村の人々への罪悪感を理解したのかもしれない。この時のわたしは気が付いていなかったけれども、今もそうであるように、当時の彼も教令院では優秀な成績を収めていると有名な人だった。当然、わたしの凡庸な頭とは比べ物にならないくらいに優れた頭の回転も速いので、彼はわたしの突拍子もない言葉からわたしがおどおどと自信なく、そして強い劣等感を抱いている理由を察したのだと思う。
彼は今も昔も優しい人だった。困っている人がいれば、その身を削ることも厭わないほどに、暖かな心を持つ人だった。わたしを悩ませている問題がわたし自身のものであると知った時、そしてわたしの苦しみを見つけた時、彼はわたしを助けることを決めたのだろう。
「で、でも、でも、あ、あなたに、迷惑……」
「僕がやりたくてやってるんだ、迷惑なんかじゃない」
「で、で、で、でも、でも、でも……」
狼狽える声に、彼はわたしの手を優しく引いた。それにはっとするわたしに、彼は言い聞かせるように告げる。はっきりとした声で。わたしを、しっかりと、その猩猩緋の瞳で見つめながら。
「あなたに学ぶ意思があるなら知識は平等に授けられるべきだ。人間が生まれ持つ才には優劣があり、誰しもがその才を得られる訳ではないが、しかし唯一知識だけは誰もが平等に得ることができる」
「……っ!」
「退学の判断をするのは早計と言える。知らないのならば知ればいい、分からないのなら分かるまでやればいいんだ。ここは知恵の国スメール、そしてあなたは教令院の学生だ。あなたには、このテイワット最大の学術機関で知識を得る権利がある。その権利を阻むことは誰にも許されない」
それはわたしを肯定して、わたしの鬱屈した心に光を齎す。知恵の殿堂、その証明が照らす彼はまるで太陽みたいだった。少なくとも、あの日暗い方へ沈んでいくばかりだったわたしの手を引き、明るい方へと導いてくれたのは彼だった。
――太陽の光を十分に浴びたような鮮やかな金色の髪が揺れる。わたしを落ち着かせるように優しく微笑み、わたしに手を差し伸べてくれた彼は、そうして下で燻り透明人間になっていたわたしを見つけてくれた。
「僕はカーヴェ。……あなたは?」
これが、わたしとカーヴェくんの出会いだ。
28days
ラザンガーデンは教令院にある、聖樹を登る道沿いに作られた落ち着いた庭園のことだ。多くのガゼボやパティサラで飾られた美しい庭園で、教令院の学生たちの憩いの場として使われている。教令院は聖樹の上に建てられている建物であるから、聖樹を登る道沿いに作られたこのラザンガーデンから見下ろす街並みは壮観だ。今までは人目があるからと近寄りもしなかったが、カーヴェくんと過ごすようになって、わたしはこのラザンガーデンから見つめる世界の広さと夕日の美しさを知った。紺碧の青に橙が落ちると、やがて青と橙が混ざりあって、紺色の夜を運んでくる。ずっと下から空を見上げていたわたしが、空を見下ろしたあの変わりゆく色の変質を知ることができたのはカーヴェくんのおかげだ。
カーヴェくんと出会ってから、わたしの教令院での生活はがらりと変わった。まず第一に、指導教員である講師の講義が理解できるようになったこと。カーヴェくんという優秀な先生が付きっきりでわたしに教えてくれるので、わたしはやっと先生の言葉を理解できるようになったのだ。今までわたしが講師の先生の講義に追いつけていなかったのは、理解していること前提で次に次にと話が進むからだった。それが教令院の学生に求められている普通のレベルと言われてしまえば返す言葉もないけれど、先生の言葉や引用している本の内容が分かるようになると、少しずつだが着いていけるようになって、学ぶことが楽しく感じてきた。そして次に、カーヴェくんがわたしとペアになってくれること! 教令院の講義において、当然研究課題が与えられるのだけれども、ものによっては誰かと共同で研究に望む必要があったりした。そういう時、落ちこぼれで出来損ないそこないのわたしと組んでくれる稀有な人がいるわけもなく、わたしは一人で研究を提出して講師の先生に怒られながら最低評価をもらうことが常だったのだけれども、今はカーヴェくんがわたしと共に共同研究課題に取り組んでくれるようになった。カーヴェくんはわたしよりもずっと優秀で、博識で、頭の回転も早いので、わたしが考えつかないような理論で研究を始める。もちろん、わたしを置いていったりはしない。わたしが理解できるようにわたしに丁寧に説明をしながら、わたしに意見を求めてくれる。わたしが吃って、上手く言葉が話せなくても怒ったりしない。ちゃんとわたしの言葉を待ってくれるし、わたしの瞳を見つめて、わたしと向き合ってくれる。こんな人、今まで誰もいなかった! もちろん研究結果は最高評価だ、カーヴェくんにおんぶに抱っこをさせているようで申し訳ない気持ちはあるけれど、カーヴェくんと一緒に過ごすようになって、少しずつわたしも物事が理解できるようになった。
カーヴェくんと過ごす時間がだいすきだ。暖かくて、穏やかで、教令院で過ごす中でただ唯一カーヴェくんといる時だけが心安らげる時間だった。周りの声も、誰かの目も、評価も、気にする必要はない。ありのままの自分でいられるのだ――そうしているといつか幼かった頃抱いていたような学ぶことへの楽しい気持ちを思い出す。教令院に入学してからというもの、忘れていたあの未来への希望が、彼と出会って再び芽生え始めた。
「ごめん、お待たせ。遅れてすまない」
「カーヴェくん! ううん、全然待ってないよ。えへへ、会えてうれしい!」
「僕も君に会えて嬉しいよ」
彼のその猩猩緋の瞳が優しく細められるこの瞬間がだいすきだ。
今日もカーヴェくんとの勉強会が始まる。これはカーヴェくんと出会ってから、毎日このラザンガーデンで行われているかけがけのない時間だった。
72days
「……そしてここは、有名なプシュパの歌という本の一説を指している。……そう、ここだな。矢に耐えられず、しかし破滅に耐えられる。鎧を貫くことはできず、城を攻め落とせる。高天の使者に屈せず、地上の万国にも屈しない。神々であれ、妖魔であれ、力を振り絞っても、勝つことができないものは?=v
「え、ええと……それは終わりのない知恵であり、……の文明を守ったのはそのものである=c…あれっ、ここ、省略されてるよ……?」
「プシュパの歌は原典である巻物が欠落していて、王女がプシュパの女主人に答えた解答は実のところ不明な点が多いんだ。だから、この省略文が埋められているものの多くは翻訳者の推測なんだが……」
「なんだが、なに?」
「講師がどうして生徒にわざわざ答えが欠落した問いを問い掛けたのか、分かるかい? 要は、これ≠ェ課題なんだ。自分が思う女主人の問に対する答えを述べよ、と、つまりはそういう意味なんだろうな」
カーヴェくんの説明はとても分かりやすく、ものを理解することが苦手なわたしでもすぐに理解ができる。もし仮に彼の説明で躓いても、彼はそこですぐにわたしに手を差し伸べて助けてくれるので、急がずゆっくり自分のペースで課題に励むことができた。
彼は本当に頭がいい。こうして彼に教導されている時、彼とわたしとの知能レベルは天と地の差だとつくづく思う。今だって、指導教員が「分かった者から提出するように」と最後に残した言葉の、その真意が理解できずに困り果てていたところを、彼に聞いたらすぐにその真意が判明してしまった。机上に目線を落とせば、彼がこの課題の真意を理解してすぐにわたしに持ってきてくれたプシュパの歌≠ニいう本がある。この教令院の学生になってから随分経つけれど、正直なところこの有名であるという本を一度も読んだことがなかった。他の書籍に目を向ける余裕もなかったのは確かだが、そもそも眼中になかったこともある。知識とは財産だ、という言葉があるが、今以上にそれを実感したことはない。講師の与えた課題はこの本を読んだことがなければ、課題が出されたことにさえ決して辿り着けないものだった。自分自身の学派とはあまり関係がない本といえども、様々な知識を得ることは自身を助けるということがよく分かる。カーヴェくんの頭がいいのは、彼自身の元々の才能もあるのだろうが、その最たる理由は彼が誰より勤勉であることが理由なのだろう。あんなにも普段から誰からも求められ頼られているためにただでさえ自身の時間がない中、こうして貴重な時間をわたしに使ってくれているというのに、彼はこんなにも博識だ。
「……カーヴェくんはすごい」
「なんだ、藪から棒に」
「だってわたし、本当なら自分で気が付かなくちゃいけなかったのに……」
「ああ、そんなこと? 別にすごくなんてないよ、たまたま僕がその本を読んだことがあったと言うだけだ。君だってその本を読んだことがあったならすぐに気が付けたと思うよ」
はたしてそうだろうか? もし仮にわたしがプシュパの歌の本を読んでいたことがあったとしても、ぱっと言葉の真意には気が付くことはできなかったに違いない。自分のことは自分が一番よく分かっている。きっと机の前で首を傾げて、うんうんと唸っているのがオチだ。
「カーヴェくんはすごいなあ。本当にすごい」
「君はいつもそうやって僕を褒めるな……普通だよ」
「普通じゃない。わたしにとっては普通じゃないの。カーヴェくんがいるから、わたし今もここに通えているんだよ」
「大袈裟だなあ」
「ほんとうなのに! カーヴェくんがいてくれてよかった。カーヴェくんがいてくれるから、ちゃんと先生の話にもついていけるんだよ」
わたしは本当にカーヴェくんに感謝しているのだ。カーヴェくんがいなかったら、わたしは本当に退学の道を選んでいたかもしれない。期待と現実に押し潰されて、駄目になって、何も成せないまま終わっていたことだろう。それを救ってくれたのは、間違いなくカーヴェくんだ。毎日お互いの講義が終わった後にこうしてラザンガーデンに集まり、カーヴェくんがわたしに勉強を教えてくれる。講義で分からなかったところ、研究で躓いているところ、課題を出されたが何をすればいいのか分からない時など、彼に相談すると彼はいつだってわたしに寄り添って答えてくれる。彼の長い指先が文字をなぞって、わたしのちいさな頭でも分かるように噛み砕いて説明してくれるところがだいすきだ。彼の優しさを感じられて、わたしはその度に感謝の心で胸がいっぱいになる。
カーヴェくんがいるから今のわたしがいる。それに寂しくない。周囲からは変わらず陰口を叩かれているけれど、そんな冷たくて厳しい言葉がまったく気にならなくなったのはカーヴェくんの傍にいられるからだ。信頼できる人が友人だという事実は、いつだってわたしのこころを助けてくれる。わたしは一人ではない、頼れる人がいる……カーヴェくんがすごいのは、わたしが講義についていけるようにしただけではなく、わたしの心も救ってくれたことだ。カーヴェくんがいなかったなら、わたしはどうなっていただろう? あの日、カーヴェくんと出会わなかったらと思うと、寒気がする。きっと、いや、間違いなく碌な終わり方はしなかった。
「カーヴェくん、本当にありがとう!」
「……君の力になれているなら、よかった」
穏やかに微笑むカーヴェくんは優しい。いつだって、わたしに優しくしてくれる。
ふわりとそよ風が彼の髪をなでて、その向日葵のような金色の髪を揺らした。わたしはそれを見て、ああ、やはりカーヴェくんはわたしの太陽なのだなあ、と思うのだ。
142days
「わたし、カーヴェくんがいないと生きていけないかも」
「ええ? なんだ、急に……」
ここはラザンガーデン、今日も二人で勉強会をしていた。そよそよとそよぐ風が心地よく、雄大な聖樹の青々とした枝葉の隙間から差し込むこもれびがラザンガーデンに優しい光を落としている。そして今、わたしはいつものようにカーヴェくんからアドバイスを受けていたのだが、彼の丁寧な説明を聞きながらふと思ったのだ。カーヴェくんとこうして共に過ごすようになって、もう何ヶ月になるだろう。毎日毎日顔を合わせて、今ではこうしてラザンガーデンで過ごす以外にも二人で一緒に過ごすようになった。カーヴェくんがわたしの手を握って、籠りがちなわたしを外に連れ出してくれるのだ。最近はほとんど昼食の時間を一緒に過ごすし、夕食だって一緒に食べることがある。残念ながらカーヴェくんとわたしとでは学派が違うので講義の間だけは一緒ではないけれど、それ以外ではずっと一緒だ。わたしの講義が終わればカーヴェくんが迎えに来てくれて、わたしの手を引いてくれる……むしろ、一日の中でカーヴェくんがいない時間の方が珍しいのかもしれない。
おかげで、わたしが寂しさや孤独に悩まされることはない。誰かの声が気になることもまったくなくなった。どちらかというと、どうしてカーヴェくんのような優秀な人が落ちこぼれのわたしに関わっているのだろうと疑問視する声が多いようだ。時々、わたしに質問をしてくる人もいる。どうしてあのカーヴェと一緒にいるんだ?=\―そんな言葉を聞くと、わたしは少しだけ優越感を覚える。カーヴェくんとわたしが一緒にいる理由なんて一つだけだ、わたしとカーヴェくんが友人だから! とはいえ、これはあくまでカーヴェくんがわたしに優しくしてくれるから成り立つ関係であって、本当はわたしなんかが一緒にいていいような人ではないことは分かっている。けれども、カーヴェくんと過ごす時間は本当に楽しくて、優しい気持ちになれて、そしてカーヴェくんと過ごせば過ごすほど、教令院でのわたしの毎日はいいものになっていくから――日に日に、あることを思い始めるようになったのだ。――わたしは、カーヴェくんがいないと生きていけないのだと。
「だって、今日初めて先生に褒められたの」
「よかったじゃないか」
「そこはね、カーヴェくんがこうだよって教えてくれたところだった……もちろん、カーヴェくんのアドバイスを参考にわたしが書き上げたレポートだったけど、でも、カーヴェくんがいたからこそ、わたしは先生に褒められたんだって思って」
「そんなことはない。僕はただ君を少し手助けしているだけで、君が先生に褒められたのも全部君が頑張ったからだ」
全部君自身の力だよ、とわたしを肯定してくれるカーヴェくんは、いっそ不思議なくらいわたしに優しい。誰にでもこんな言葉を吐いているのだろうか? カーヴェくんは誰からも好かれているし、人気者だから、カーヴェくんにとってわたしは一番ではないのだと思うと少し寂しくなった。わたしにとってはカーヴェくんは唯一の友人で、カーヴェくんだけが何の悪意もなくわたしと普通に接してくれるけれど、他の人はそうではない。わたしにとってはカーヴェくんだけが唯一だから、カーヴェくんが向けるこの優しさが誰もに向けられる優しさと同じものなら嫌だなあと思った。
わたしは両手の指先を絡めて遊ばせながら、下を向いた。机上には、先程までカーヴェくんに教えてもらっていた本が開かれたまま放置されている。カーヴェくんがいなかったら、わたしは今頃どうしていただろう? カーヴェくんがいなければ、わたしはずっと一人だったし、ずっと思い悩んで、苦しんでいたに違いない。
「でもわたしなんかと一緒にいてくれるの、カーヴェくんだけ」
「えっ……」
「ほんとうだよ。カーヴェくんだけが、いつもわたしを助けてくれる」
「……そんなことはないだろう。皆君のことを知らないだけで、君のことを知ったら、誰もが君を助けたいって思うさ」
「思わなかったよ。わたし、落ちこぼれだから、わたしのことを皆嫌ってた。感謝してるの。いつも。カーヴェくんがいなかったら、わたし、今頃ここにはいなかった」
「君は、落ちこぼれなんかじゃないよ。君の奇抜な発想力には目を見張るものがあるし、僕はものに対する君の優れた観察眼には一目を置いているんだ。確かに、君は他の人より少し理解は遅いかもしれない……だが、それだけで君という人間を評価することはできない」
カーヴェくんの声に、わたしは顔を上げる。真剣な眼差しを湛えた猩猩緋の双眸が、じっとわたしを見据えていた。
彼の黄金色の髪に柔らかな光を内包したこもれびが落ちている。美しいラザンガーデン、ふわりと風が彼の髪を揺らすその様は、まるで一枚の絵画のように心打たれる光景だった。
カーヴェくんが一人分開けて座っていた空間を詰めて、わたしのすぐ傍へとやってくる。そうして、遊ばせていたわたしの手に自身の手を重ねて、彼はまっすぐにわたしを見つめるのだった。
「本当だ、僕は嘘なんて言ったりしないぞ。君は宝石の原石なんだ。周りはそれを知らないだけで、君が数々の原石が転がるこの教令院で最も美しい宝石だって知ったら、皆君を放っておいたりしないだろうな」
その時、わたしは胸がぽかぽかと暖かくなるのを感じた。心が満たされていく。こんなに嬉しい気持ちは初めてだった!
「……へへ。そんなことを言ってくれるのも、カーヴェくんだけだよ。もしもわたしが本当に宝石の原石なら、ただの石ころでしかなかったわたしを磨いてくれたのはカーヴェくんなんだから、やっぱりわたしはカーヴェくんがいないとだめなんだ」
「! 君って子は、本当に……」
カーヴェくんはわたしの言葉に目を見開くと、嬉しいような、怒っているような、そんな表情を浮かべて、それから困ったように眉を下げて優しく微笑んだ。彼の猩猩緋の眼が柔く緩んで、その瞳の中に暖かな慈愛が灯る。
そしてカーヴェくんが重ねた手に力を込めて、柔くわたしの手を握った。その人肌の熱が、穏やかな温もりが、わたしの心を優しさで満たしてくれる。
幸せな時間だった。きっとこの世の何より、美しく、満ち足りた時間だった。
212days
「これから一週間、スメールシティの外へ行くんだ。だから、しばらく君と一緒にいることはできない」
それは青天の霹靂だった! からん、と手にしていたペンが落ちて机に転がる。あんぐりと口を開けたわたしに、カーヴェくんがぱちぱちと瞳を瞬いた。
――ここはラザンガーデン、そしていつものようにカーヴェくんと勉強会をしている最中の出来事だった。途中までは穏やかな時間であったのに、あ、と思い出したようにカーヴェくんが突然爆弾発言を告げるものだから、わたしは驚いて思わず飛び上がってしまった。
カーヴェくんがいなくなる。どこから? この教令院から。そうなるとどうなる? カーヴェくんがいなくなる。そして、わたしはひとりぼっちになってしまう! 未だかつてないほどに頭が回転して、わたしにとっては最悪の結果を導き出す。わたしは慌ててカーヴェくんの手をとって、縋るように見つめた。
「か、カーヴェくん、どこか行っちゃうの?」
「そうだよ。でも、一週間後には帰ってくるから……」
「わ、わたしどうすればいいのっ? か、カーヴェくんがいなかったら、わたし……」
嫌な想像にじん、と目の奥が熱くなる。今までずっとカーヴェくんが傍にいてくれたのに、カーヴェくんがいない生活なんてわたしに耐えられるだろうか? カーヴェくんがいなかったらわたしは教令院で話す人もいないし、昼食だって一人で食べなくてはならないし、勉強だって一人で何とかしなくてはならないし、それ以外のことだって、すべて一人でやらなくてはならない。
ひとりぼっちだ。わたしはずっと一人だったけれど、カーヴェくんという優しい人とであってしまったおかげで、わたしの世界は変わってしまった。もうあんなに冷たくて恐ろしい、孤独の世界には帰りたくはない。偉大な建築物の見学やらスケッチやら細かなことはよく分からないが、とにかく妙論派における建築学において重要なことを学ぶためには実物を見て感じるべきだということに関してはわたしめも理解できる。理解できるけれども、受け入れられない。うるうると両の眼が涙で滲むのを感じながら、わたしは震えた弱々しい声でカーヴェくんの腕にしがみついた。
「か、カーヴェくんがいないとやだあ……」
「……君、僕に頼りきってばかりじゃ駄目だぞ。僕だっていつまでも一緒にいられるわけじゃ……」
「やっ、やだよお〜! 一緒にいてよお!」
「ぐっ……そ、そうは言っても、こればかりは変えられないし……」
「うううう〜〜!」
カーヴェくんの声音から、彼をとても困らせてしまっていることが分かる。カーヴェくんはへにょりと眉を下げて、困ったようにしがみつくわたしを見つめた。こんなことを言ってもどうにもならないことは分かっていたが、わたしは小動物のように唸りながら嫌々と駄々を捏ねた。
それから五分? 十分? どれくらい経ったのかは分からないけれど、カーヴェくんが深い溜め息を履いた。そして、彼の腕にぴたりとくっついて顔を埋めるわたしの頬に手を添えて、くい、と顔を持ち上げる。促されるまま見上げた時、彼の猩猩緋の瞳が私を見据えていた。その水晶体に、わたしだけが映りこんでいる。
「……分かった、分かったよ。すぐ終わらせて帰ってくる。約束する」
「ほ、ほんとう? どれくらい? 明日?」
「明日……は無理だけど。出来るだけ早く、としか言えない。でも約束するよ、帰ったら一番最初に君に会いに来る」
カーヴェくんの手がそのままわたしの頬に添えられて、それから彼の親指がすり、とわたしの目元をなぞるように撫でた。暖かい手のひら、穏やかな温もり。わたしを慈しむような柔らかな眼差しが、やたしだけを瞳に映して、見つめている。
「だからいい子に僕のことを待っていて」
わたしは頷いた。カーヴェくんは嘘を言わない。いつだってわたしに優しくて、わたしのために何だってしてくれる。
だから、カーヴェくんがすぐに帰ってくると言うなら、きっとすぐに帰ってくるのだ。
わたしはカーヴェくんがいないと生きてはいけない。だってカーヴェくんがいないと、教令院ではひとりぼっちだ。教令院に友人も、頼れる人も、誰もいないわたしにとって、カーヴェくんだけが世界のすべてだった。だから本当はカーヴェくんがいなくなることは嫌だけれど、カーヴェくんが帰ってくるまでの辛抱だ。
何も彼の言葉を疑うことはない。すべてが真実で、すべてが正しい。ずっとそうだった。
217days
カーヴェくんがいない教令院での生活は、いつかわたしが俯いてばかりだった鬱屈の日々を想起させる。講義が終わっても扉からわたしを呼ぶ声は聞こえず、そしてわたしの手を引いてくれる暖かくて大きな手のひらもなく、わたしに微笑みかける穏やかな微笑みもない。春の陽だまりのように穏やかだった心にびゅうびゅうと氷雪が吹き荒び、わたしは途端に自分が孤独の淵に追いやられていることを自覚する。いつも隣にいるはずの存在がそこにいないだけで、心にぽっかりと穴が空いたような虚しさと寂しさを覚えた。カーヴェくんが傍にいてくれたころは何も怖くなかったのに、わたしは再び彼に出会う前の自分へと戻ってしまって、教令院にいるということが怖くなった。カーヴェくんがいなければ、まともに教令院内にいることさえできない。誰もが認める天才であるカーヴェくんがわたしの存在を認めてくれていたからこそ、こんな落ちこぼれのわたしでも教令院にいることができたのだ。カーヴェくんがいないわたしは、ただの馬鹿で愚図なのろまの落ちこぼれだ。
カーヴェくんがいないと、わたしは何もできない。教令院にいることが怖くて、何もできないのだ。カーヴェくんが傍にいてくれないと、教令院にはわたしの居場所がない。息ができない。わたしはまた、何もできない劣等生になる。
「……だからずっとここで待っていたのか? 毎日、ずっと?」
「……」
カーヴェくんが帰ってきたのは、それから五日後のことだった。その間、わたしは時間の許す限り、カーヴェくんと二人で過ごしていたラザンガーデンに入り浸り、夜が満ちて暗くなるまで彼をずっと待っていた。だってラザンガーデンにいれば、カーヴェくんはすぐにわたしを見つけてくれると思ったから。ラザンガーデンはわたしと彼の約束の場所で、二人で集まる時は決まってラザンガーデンなのだった。だから、もし彼が本当にわたしを探してくれるなら、わたしがラザンガーデンにいればすぐに彼はわたしを見つけられる。
――もう日は落ちていた。そして、夜が運ぶ冷たい息が静謐に沈むスメールシティをそっと包み込んでいる。しんと静まり返った夜のラザンガーデンには、いつもの場所で勉強をしながら彼を待ち続けていたわたしと、呆れたようにわたしを見つめるカーヴェくんの姿があった。
「……身体が冷えてる。一番最初に会いに行くって言っただろう?」
「だ、だって……」
「でももだってもない。言ったはずだぞ、いい子に僕を待ってろって。これじゃあ風邪を引くだろう。君って子はまったく、本当に仕方がないんだから……」
彼もまさか訪れたラザンガーデンにわたしがいるとは思わなかったのだろう。わたしの姿を認めた途端に驚愕に目を見開いて慌てて駆け寄ってくると、そしてどうしてわたしがここにいるのかとたずねた。それが、冒頭の彼の台詞に繋がる。彼はわたしの拙い言い訳を聞くや否や溜め息を吐いて、彼は上着を脱ぐとそっとわたしに着せた。それから、すっかり冷えきったわたしの頬を包み込むように手を添える。
暖かな手のひら。柔らかな体温。彼の人肌が、氷のように冷たくなった肌を温める。彼の温度にわたしはようやく彼が帰ってきたことを理解して、堪らなく目頭が熱くなるのを感じた。
怒られても、呆れられても、こればかりはどうしようもない。感じた虚しさや孤独が本物である限り、わたしには彼という存在が必要不可欠であるのは変えようのない事実なのだから。
「だ、だ、だってえ、わ、わたし、カーヴェくんがいないと、いばしょが、ない、から」
「……!」
「カーヴェくんがいないと、いきてけない、から……!」
「……」
「カ、カ、カ、カーヴェくんがいないとやだよお〜……! こ、ここにいたら、カーヴェくん、わたしの場所すぐにわかると思った、からあ〜……!」
なのでわたしはわんわんと泣きじゃくりながらそう主張した。目尻に溜まって視界を滲ませていた涙は溢れて頬を零れ落ち、それは凡そ教令院の学生とは思えない醜態だったことだろう。恥の上塗りは留まることを知らず、彼の前で惜しみなく晒されていく。
だがしかしカーヴェくんのいない五日間はあまりに長すぎたのだ。やはりわたしには、彼がいなくてはならないのだ。彼がいなくては、この教令院では生きていけない。子供のように泣きながら頬を包む手がそこにあることを確かめるように両手で掴み、すりすりと頬を寄せれば、びくりと彼の手が僅かに跳ねる。
「……僕がいないと、君は寂しくて泣いてしまう?」
「っうん」
「僕がいないと、何もできないんだ?」
「そうだよ」
「……君には、僕だけ?」
「そうだって言ってる!」
わたしにはカーヴェくんしかいないのだ。カーヴェくんがいなくては、一人で教令院を過ごすことはできない。彼の存在がなくては、この小さな胸が重圧で押し潰されてしまいそうだった。重なる忌避感と逃避心がわたしを足をラザンガーデンへと連れていき、そしてカーヴェくんがいたという記憶だけで何とか湧き上がる孤独や恐怖をやり過ごさせていた。
何度も、そう、何度もずっと前からそう告げているのに、カーヴェくんが一向に信じてくれないことがもどかしく、わたしは確かめるように問い掛けられる言葉にほとんど叩きつけるように強い口調で返した。
「ふうん……」
そうすると、カーヴェくんの反応がいつもと違うことに気が付いた。ふと彼の方を見やれば、いつもはわたしの言葉を否定する彼が、何も言わずにじっとわたしを見下ろしていたのだ。闇夜の中でもはっきりと色付いた猩猩緋の瞳が爛々とした色を湛えて、わたしだけを見つめていた。
すり、と頬を包む手が目元を優しくなぞる。わたしの形を確かめるように。
「……本当に君は、僕がいないと駄目なんだな」
ぽつりと独り言のように呟かれた小さな声だったけれども、静かなこの場所の中では、はっきりとわたしの耳に届く。少し熱のこもった声は、じっと、わたしだけを捉えて、わたしだけに向けられている。
「僕がいないと生きていけなくなってしまったんだ」
「そ、そうだよ。だから、ちゃんと最後まで面倒みてね」
「うん……うん。分かった。僕がずっと、ず一緒にいるよ……」
カーヴェくんは責任を取るべきだ。カーヴェくんがいなくなったら、わたしはこの教令院でどうやって過ごせばいいのだろう? カーヴェくんがいなくなった時の、あの恐ろしくて、冷たい、心の臓まで冷えていくようなあの感覚。それはわたしの体温を奪って、末端から氷のように冷たく凍えさせるのだ。怯え続けるだけの毎日、俯いて下ばかりを見て、劣等感と罪悪感に苛まれる陰鬱で苦しいだけの生活。あの頃に戻らなくてはならないと思うと、心臓がぎゅうと締め付けられるように痛くなって、縮こまるような感覚を覚える。わたしを助けてくれるのはカーヴェくんだけだ。そして、わたしが正しく息をすることができるのも、カーヴェくんの隣だけだった。
「……! わ、わ、わ、カーヴェくんっ、なに? なに?」
「ううん、何も。ただ抱きしめたくなって」
「えっあっ、う……」
「君は小さいね。こんなにも小さくて、弱くて……僕がいないと、息もできない……」
「……、……?」
わたしをぎゅうと強く掻き抱いて、カーヴェくゆは何故かふ、と小さく笑った。それは言葉だけなら呆れているようにも聞こえるが、しかし、どこか陶酔しているように感じる不思議な響きがあった。わたしは彼の腕に抱かれながら、こてりと首を傾げる。何故だか自分でも分からないが、いつものカーヴェくんとどこか違う雰囲気を感じたのだ。
「君は本当にかわいいなあ」
「かっ……かわ!? な、なにいって……」
「かわいい。君は本当にかわいいよ。僕がいないと寂しくて泣いてしまう君は、何よりも愛おしくて堪らない」
カーヴェくんが耳元で話すので、彼の口から零れる暖かい吐息が耳を擽ってこそばゆかった。それに、彼が甘やかな声音でわたしを褒めたてるので、ようやく彼に会えた喜びと安心、気恥しさからあわたしはもう胸がいっぱいになってしまって、行き場のない手が彼の背中でわたわたと右往左往する。
「……本当に」
カーヴェくんが、耳元で囁く。
「本当に、君は、僕がいないと駄目なんだから」
満たされたような声だった。理由は分からない。けれども、ずっとカーヴェくんと一緒にいる中で初めて聞いた声だったのは確かだった。抱擁する温度が、耳を擽る熱っぽい声が、吐息が、そのすべてがわたしを温めていく。
カーヴェくんはそれからずっとわたしを抱き締めていた。
寒くはなかった。カーヴェくんがいてくれたから。怖くもなかった。カーヴェくんがいる時だけは、呼吸ができていたから。何も疑うことはなかった。何も。……何も。
382days
なんと今日はカーヴェくんの誕生日だ。もう何ヶ月も前の話になるが、以前彼とカフェで食事をしていた時、彼に誕生日を尋ねられたことがある。その時にわたしも彼の誕生日を教えてもらったのだが、ようやくその日が訪れたというわけである。もちろん、この日のためにわたしは入念な準備を重ねてきた。どのように渡すのか、何を渡すのか、どんな言葉を言うのか、などなど練習はばっちりである。普段、カーヴェくんはわたしがどんなに感謝を伝えても、お礼をしようとしても僕はただ手伝いをしただけで、すべて君自身が頑張っているからだ≠ネどと謙遜ばかりをしてなかなか素直に受けとってはくれない。だからこそ、彼の誕生日という素晴らしい日に便乗し、日頃の感謝の気持ちを込めて贈り物をしようとわたしは考えた。
――そして今。ラザンガーデンで、わたしたちはいつものように並んで座っている。
「それで、今日は何が分からないんだ?」
「今日は分からないところはありません」
「ん? どういうことだ?」
「今日はカーヴェくんに言いたいことがあります!」
カーヴェくんはいつもの勉強会と思って、耳に髪をかけながらわたしの方に顔を寄せてきたので、わたしははい、とはっきり声を上げて挙手をした。こてりと不思議そうな顔をしてわたしを見つめるカーヴェくんに、わたしはしっかり彼の瞳を見つめて宣言した。
「わたし、カーヴェくんがいないと生きていけないです!」
「また君はそんなことを言って……」
「なので、明日も、明後日も、わたしを助けてください!」
すると、カーヴェくんはぱちぱちとその猩猩緋
瞳を瞬いた後に、おかしそうに眉を下げて笑った。まったくしかたがないなあ。そんな声が聞こえてきそうな顔をして。
「こんなことしなくても、僕は君を助けるのに」
「あの! お誕生日! おめでとうございます!」
彼はとても優しい。それがわたしであるからか、それとも万人に平等にそうであるのかは分からないが、しかし、わたしにとって彼は大切な人なのだ。
わたしはわっと大きな声を上げて、用意していた贈り物をしていた贈り物を彼の前に差し出す。するとカーヴェくんは、驚いたように目を見開いて、それからふと思い出したようにぽつりと呟いた。
「……そういえば、今日は僕の誕生日だったな」
「えっ! 嘘だあ、だって他の人に祝われたよね?」
「いや……自分の誕生日なんてわざわざ言わないからな。君に言われて、初めて思い出したくらいだ」
カーヴェくんはあんなにも人気者なのに、そんなことはありえるのだろうか。わたしが彼の誕生日を祝いたいと思ったように、他の人だって彼をお祝いしたいに違いない。そう思ったけれども、考えてみればわたしも話の流れで偶然聞くことができただけで、普通はわざわざ誕生日を問い掛けたりはしないな、と納得をした。教令院の学生は他人に対して良くも悪くも淡白で――皆自分のことに精一杯であるから。
カーヴェくんは私が差し出した贈り物を受け取って、結ばれた赤いリボンをそっと解いた。縦長の箱に入っているのはペンだ。彼は妙論派で建築に対して深い関心を抱いている。詳しくはわたしも分からないが、思いついたデザインのスケッチだとか、製図だとかを行うらしい。彼の手に合うものかどうかは分からないが、店員によく相談をして彼に見合うものを選んだつもりだ。普段使いができて、彼がよく使う、残るもの。どうして贈り物にペンを送ったのか、拙い説明をすると、カーヴェはまじまじとペンを眺めて、それからふわりと破顔をした。
「もう祝ってくれる人は居ないと思っていたから……本当に嬉しいよ」
大切そうにペンを手にしながら仄かに頬を紅潮させて嬉しそうにそう告げるものだから、わたしも嬉しくなって釣られて笑った。カーヴェくんの猩猩緋の瞳が優しく緩んで、それからわたしをまっすぐに見つめる。暖かな眼差しはわたしだけを捉えてその瞳に映しこみ、そうして彼はわたしの手を取った。
「君は僕がいないと生きていけない、なんて言うけど、僕だって君に色々感謝しているんだ」
「カーヴェくんが、わたしに? わたし、何もしてないよ」
「君の存在がいつも僕を優しくしてくれるんだ。君がいてくれるから、僕はここに立っていられる。それに、君がそう思ってくれているように、僕にとっても君と過ごす時間はかけがえのないものだから」
わたしの手のひらと、彼の手のひらが合わさる。それから、指と指の隙間に長い指が絡められて、まるで恋人のように深く繋がった。互いの手のひらの間、混ざりあって飽和した熱がわたしに優しい彼の体温を教えてくれる。心地の良い温度が、彼の笑顔と同じように、わたしを穏やかに包み込んでいく。
「……ありがとう。僕も君に出会えて、本当によかったと思ってる」
「カーヴェくん……へへ、わたしも。わたしも、カーヴェくんが一緒にいてくれて、本当にうれしい」
「そうだ、僕も君に渡すものがあって……」
「えっ? わ、わたしに? カーヴェくんの誕生日なのに?」
「なら僕のことを祝ってくれたお礼だ。……目を瞑ってくれる?」
促されるままに目を瞑ると、耳の横、髪をそっと掻き分けるようにそっと何かが髪に差し込まれる感覚がした。「もう目を開けていいよ」彼の言葉に恐る恐る閉じていた眼を開けて、わたしはそっと髪に差された何かに触れる。――髪飾りだ。
「わ、わ、カーヴェくん、これ、くれるの?」
「うん。やっぱり僕の見立て通りよく似合ってる。すごく綺麗だ」
わたしは手鏡を取りだして彼が付けてくれた髪飾りを見る。スメールローズやパティサラを模した小さな造花を金の装飾で美しく飾り付けている、控えめながらも上品な花の髪飾りだった。わたしが付けるには少し大人すぎるのではないかと思ったが、カーヴェくんがあまりに優しい瞳で見つめているから、わたしはてれてれとしながらはにかんだ。
――彼の猩猩緋の瞳が柔く緩んで、その瞳の中に暖かな慈愛を灯る。あの時の彼の穏やかな眼差しを、あれから何年も経った今でもずっと覚えている。あの頃、わたしの傍にはいつだってカーヴェくんが傍にいた――ずっと独りで、嗤われてばかりのわたしは、彼の存在によって確かに救われていたのだ。カーヴェくんがいなければ、教令院の学生を続けることなどできはしなかった。潰れそうなわたしの心を救って、カーヴェくんはまるで夜空に輝く一等星のように、夜道の如く暗く落ち込んでいたはずのわたしの人生を明るく照らしてくれていた。
「綺麗だ。この世のどんなものより、君が一番美しいよ」
カーヴェくんは柔くその瞳を細めて、わたしの頬に手を伸ばして、そっと頬の輪郭を包み込んだ。それから、目元を優しく親指でなぞって、そのきりりとした吊り目を緩めて、その眼に穏やかな色を湛えてわたしを見つめる。
わたしはずっとだめな人間だった。物覚えもわるく、理解力も乏しい、どうしようもない落ちこぼれだった。それでもわたしが教令院にいられたのは、すべてカーヴェくんが傍にいたからだ。それだけは変えようのない事実であり、そして、変えようのない真実でもある。カーヴェくんがいてくれたからこそわたしは道を諦めることなく毎日を楽しく過ごすことができ、カーヴェくんがいてくれたからこそこんなわたしでも教令院を卒業することができたのだ。最初から最後までずっとカーヴェくんにおんぶに抱っこされていたような状態だったけれども、退学を考えていたほどに追い詰められていたわたしがあの難関の卒業試験を突破し、教令院を卒業することができたという事実はどれほどわたしに自信を与えてくれたことだろう。
あの頃、わたしは今よりずっと自由で、そして、今よりずっと希望と期待に溢れた日々を送っていた。カーヴェくんが傍にいたから、何だってできるような気がしていた。
わたしにとって、カーヴェくんは一番の友達で――かけがえのない人だった。カーヴェくんがいなければ教令院を卒業することはできなかったのだから。彼はわたしの人生を変え、そして、わたしに新たな道を示してくれた。人々が見上げる天に輝く一等星は、わたしのためだけに眩い光を放ってくれていたこと。教令院を卒業してしまえば、わたしもカーヴェくんも各々の道を歩んで学生時代のように毎日顔を合わせることはなくなってしまうことだろう。わたしのような凡人と、一等星のような彼とでは、歩むべき道はまったく異なるのだから。教令院という、いずれ花開く原石たちが磨かれるための場においてわたしたちは奇跡的に偶然出会うことができたのだ。本来なら関わりあうこともなかった関係性だった。きっとこの出会いこそが、わたしの人生における唯一の幸運な出来事だったのかもしれない。
いつかわたしたちは道を違える。その刻は刻一刻と近付いており、そして確実に訪れる運命であった。だがしかし、仮に彼と離れ離れになったとしても、彼との繋がりが切れることなく、いつまでも続けばいいと思っていた。時々顔を合わせて、最近どうしてる?≠ニ聞けるような関係であれたらと、そう思っていた。
――あの時、学生時代のわたしが思い描く未来というものは、良くも悪くも理想的な偶像でしかなかったのだと思い知る。自分の発言の意味など深く考えたこともなく、ただ直感的に生きていたのだ。与えるもの、与えられるもの、その意味を知ろうともせず、表面的な一部分だけを齧ってすべて理解した気になっていた。
繋いだ手のひら。暖かな、人の体温。ただ無邪気に笑い合い、変わらぬ優しい関係のままで未来へ進むことができるものだと信じていた。
この時、もう既にボタンはかけ違えていた。
それに気付いていないのは馬鹿で愚図でのろまなわたしだけだったのだと知るのは、何もかもが終わって手遅れになってからだった。
星が落っこちた日
「卒業おめでとう」
「えへへ、卒業おめでとうカーヴェくん!」
卒業を祝うパーティーからの帰りだった。わたしとカーヴェくんはいつものように帰路を辿っていて――あの日の橙色の夕暮れは、今も鮮明に記憶に焼き付いている。差し込んだ西日が彼の向日葵のような黄金の髪を赤く染めあげて、暮れなずんだ夕日がスメールシティの街を鮮やかな茜色で彩色していた。美しい夕映えは穏やかに微笑む彼と、彼の手に抱えられた花束を引き立て、残照と共に消えゆく感傷がわたしたちに一抹の寂しさと名残惜しさ、そして明日への喜びを実感させていく。
――この日、わたしたちは共に教令院を卒業した。手に抱えられた花束は、わたしたちの門出を祝福する栄誉の花束だ。わたしは高揚感に満ち溢れながら、彼ににっこりと笑いかけた。こうしてわたしが難関の卒業論文を突破することができたのも、一重に彼の尽力あってのものだったから。わたしが無事に卒業できたのも、そして教令院を退学する道を選ばなかったのも、そのすべてが彼がいてくれたこそ得られたものだった。もしカーヴェくんと出会わなかったならば、わたしは鬱積した劣等感を抱えて生きていたに違いない。
「今までありがとう! わたし、カーヴェくんがいなかったら今頃どうなっていたことか……」
「はは、この会話ももう何度目になるんだろうな? 全部君自身の力さ、僕はそれを手助けしただけに過ぎない。卒業論文が通ったのだって、君の優れた観察眼と発想力のおかげだろう?」
「カーヴェくんという優秀な頭脳が傍にいてくれたからだよ。カーヴェくんが、わたしという石ころを宝石にしてくれたんだ!」
「何を言ってるんだ、君はずっと宝石だった。誰もそれに気が付いていなかっただけさ。だから、逆なんだ。僕は美しい君を見つけることができた果報者だよ」
「カーヴェくん……! へへ、本当に褒めるのが上手だなあ……」
カーヴェくんの猩猩緋の瞳はまっすぐにわたしを見つめていて、気恥ずかしくなる。彼は好意を包み隠すことなく伝えてくるので、彼の言葉にわたしは顔を赤くした。夕暮れでこの頬の紅潮が彼に知られなければいいと思った。湧き上がる喜びと、そして胸の高鳴りは、わたしを幸福にしていた。カーヴェくんの手にある花束と、自分の手にある花束を見比べて、改めて実感をする。ああ、卒業したのだ。じんわりと目頭が熱くなるのを感じながら、わたしはふにゃりと溢れ落ちるような笑みを浮かべて、彼を見つめた。
「本当に、本当にありがとう。感謝しているんだ。カーヴェくんがいてくれたからこそ、今のわたしがある」
「僕こそ……君がいてくれたから、今の僕があるんだ。君の存在で、僕がどれだけ救われたか……」
「ううん、救われたのはわたしの方だよ。カーヴェくんと出会わなかったら、わたし、きっと教令院をやめていた。劣等感を抱えて、何にもなれずに、暗い気持ちのままずっと生きていたと思うから……」
彼と出会う前のわたしは鬱屈した日々を送っていた。苛む劣等感と罪悪感で心は常に悲鳴を上げており、今にも潰れてしまいそうな重圧の中を生きていた。カーヴェくんがいなかったのなら、わたしはこの教令院を生きてはいけなかっただろう。それはずっと理解していたことで、だからこそ途方もない喜びと、一抹の寂しさを感じているのだ。
この時、わたしはこれが最期であると理解をしていた。一等星のようなカーヴェくんと、ただの凡人に過ぎないわたしの交流は、教令院の卒業とともに終わるのだ、ということを。本来、わたしたちは巡り会うことのできるようなところには存在しないはずなのだ。彼は常に誰かの前を行き、誰かを導く星のような人で、対してわたしは誰かの影で、誰かが照らした道を歩くことしかできない日陰者の存在であったから。教令院という狭いコミュニティのながだったからこそ、わたしと彼は偶然巡り会うことができた。ならば、教令院という狭い箱を抜け出し、互いに大海へと繰り出してしまえば、もう出会うことはない。少なくとも、かつてのような穏やかな時間を過ごすことはないだろう。わたしはそれを知っていた。自分の幸運を、そして運命を理解していた。
胸の中には、途方もない喜びと、そして一抹の寂しさがある。わたしは涙を浮かべながら、くしゃくしゃの笑顔で笑いかけた。そうして、彼の手のひらを取って、そっと握る。
「……なんだか寂しくなるな。ずっと一緒にいたのに、これから先、もうカーヴェくんと毎日過ごすこともなくなってしまうんだから……」
きっとわたしたちの運命が交差することはない。彼は建築デザイナーとして、そしてわたしもまた別の道を歩むのだ。互いの道は交わることなく、そして各々の夢が差す方へと続いているのだろう。彼の暖かい手のひらにこうして触れられる権利が無条件に得られるのもその日で終わりなのだと思うと、とても喜ばしいことであるはずであるのに、ぎゅうと胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「……でも、でも、これから先もずっと友達でいてほしいんだ。カーヴェくんは素晴らしい人だから、きっと優れた建築デザイナーになると思う。でも、時々わたしの存在を思い出してほし」
「ま、待って。待ってくれ。今なんて言った?」
「え?」
「これから先毎日過ごすこともなくなる? ずっと友達でいてほしい? 君は何を言ってるんだ」
けれども、カーヴェくんがわたしの言葉を静止して、ぐっと眉を寄せて訝しげにわたしを見下ろすものだから、わたしは思わずたじろいだ。そして、悲しくなったのを覚えている。もしかして、友人だと思っていたのは自分だけで、彼にとってはわたしの存在が不快だったのかもしれない。穏やかな頬笑みを浮かべていた彼の顔が歪むのを見た時、わたしは自信をなくしてしまった。出過ぎた言葉を告げたのかもしれない、と。
だが、それは違った。最初から・・・・すべて間違っていたのだ。
「な、何って……お、烏滸がましかった? で、でもわたし、カーヴェくんのこと友達だと思って……」
「違う、そうじゃない! そもそもすべてが間違っているんだ。どうして君は僕から離れていく前提で話をしている? 君はこれから先も僕の隣にいるんだから、そんな仮定は意味がない」
「……え」
カーヴェくんは、わたしが彼の友人だと告げたことに不快に思っていたわけではない。わたしが彼の傍を離れていくと言ったことに違和感を覚えていたのだ・・・。これにはわたしも目を丸くして、一体彼が何を言っているのかと首を傾げた。卒業をしてしまえば、教令院に通うこともなくなる。教令院へ行かないということは、顔を合わせることもなくなるということだ。互いがそれぞれの仕事で働くようになれば、当然ラザンガーデンで毎日共に過ごすこともなくなるし、毎日昼食を共にすることもなくなる。物理的にも、彼と共にいることは適わない。冗談にしても限りなく現実味のない話に、わたしは口が引き攣る感覚を覚えた。
「か、カーヴェくん、何言ってるの? わたしたち、卒業するんだよ……?」
「そうだな。それが?」
「だから、わたしもカーヴェくんも、これからは教令院には通わないんだよ? 会うこともなくなるでしょ?」
「教令院では会うことはないだろうね。だが、一緒に住むなら関係ないだろう?」
「な……え?」
――冗談にしても、限りなく現実味のない話だ。それは、馬鹿で愚図でのろまなわたしにでさえ理解ができることだ。だがしかし、彼は違った。彼は本気だった。本気で、わたしが彼の傍にずっと在り続けるものと思っていたのだ。冗談を笑っていたわたしの顔がぴしりと固まるのを見て、彼はぴくりと眉を上げ、不機嫌そうにわたしを睨んだ。猩猩緋の瞳はまっすぐにわたしを射抜き、少し低くなった声が咎めるようにわたしを叱りつける。
「……まさか君、一人でやっていくつもりだったのか? 僕が傍にいないんだぞ」
「ひ、一人でやってくって、当然だよ。だってわたしたち、もう学生じゃないんだから……」
「さっきから思っていたが、君はどうして卒業したことに拘ってる? 君は僕がいないと何もできない、生きていけないんだから、一人でやっていけるはずもないだろ」
「あ……えっ?」
わたしはとうとう引き攣った笑顔さえ浮かべていられなくなった。ただ驚愕の眼差しで彼を見つめて、まるでそれが当然のことであるかのように告げる彼に何も言えなくなる。
彼の向日葵のような黄金の髪を赤く染めあげていた西日に瞑色を滲み始める。やがて落ちていく日が暗い夜に染まると同時に、赤く照らしていた彼の姿に影を落とし始めた。カーヴェくんは困惑に戸惑うわたしに畳み掛けるように言葉を続ける。まるでわたしがおかしなことを言っているかのような口振りで、棘のある口調でわたしを非難しながら。
「自分で散々言っていたじゃないか。カーヴェくんがいないと生きていけない≠チて」
「い、言ったよ。でもそれは、教令院だけの話で……」
「教令院だけ=H 僕がいないと寂しくて泣いてしまう君が? ……君には悪いけど、僕には君が一人で生きていけるようには思えない。僕が傍にいてやらなくて、誰が君を守ってやれるんだ?」
その時、わたしはようやく気が付いた。自分の認識と、彼の認識がまったく食い違っていることに。
わたしはカーヴェくんがいないと生きてはいけない。確かに、それは事実だった。カーヴェくんがいないとわたしは息もできなかった。……だがそれは、教令院という狭い世界での話だ。教令院という狭い世界において、わたしは孤立していた。落ちこぼれで出来損ないのわたしを皆が嫌っていたから、わたしには居場所がなかった。故にわたしは生きていけなかったのだ。どんなコミュニティにおいても、自分の居場所がない生き物は生きてはいけない。故にわたしは教令院を退学することを考えていたのである。教令院に居場所がなかったから。
だが、教令院というコミュニティの外では、わたしは誰からも嫌われ疎まれるような出来損ないではない。教令院において、知能レベルの低い存在は知識を得るに相応しくないと嫌悪されるが、外の世界において求められるのはまた別の能力だ。故に、教令院では居場所のないわたしでも、外の世界では振る舞い次第では受け入れられる。カーヴェくんがいないと、わたしは教令院・・・では生きていけない――ずっとそのつもりで告げてきた言葉は、どうやらカーヴェくんには異なる意味で伝わっていたようだった。
「君が頑張ろうとするなら応援してあげたい。だけど……間違いは正すべきだと僕は思う。君は僕がいないと生きていけないんだよ。僕がいないと、君はどうやって息をするんだ?」
「カ……カーヴェ、くん……?」
紅掛空色が滲み濃紺に染まると、スメールシティはやがて夜の闇に包まれていくのに、しかしわたしをじっと見つめる彼の猩猩緋の瞳だけが爛々と輝いていた。
わたしはカーヴェくんが何を言っているのか分からなくなり、そして同時に彼を恐ろしく思って、握った彼の手を離そうとした。しかし、彼の手が逃げようとしたわたしの手を掴み、わたしの手のひらと自分の手のひらとを無理矢理合わせて、それから指と指を絡めるように繋ぐ。いつか彼がわたしにそうしてくれていたように、隙間などないようにぴったりと手のひらを密着させて。
「なあ、家はいつ引き払うんだ? もう君の部屋は用意してあるんだ……いつ僕の家に来る? もし一人でできないなら、大家への手続きは僕がしてあげるよ。二人のことなんだから、一緒にやっていこう?」
――彼はわたしの手を引きながら、わたしが止める間もなく勝手に大家に話をつけると、わたしの家を引き払ったのだ。帰る家を失い、どうすればいいのかと呆然と佇むわたしを、カーヴェくんは自身の家に連れ帰った。それから、なし崩し的に彼との同棲が始まった。
カーヴェくんは、わたしが彼から離れて自立しようとしていたことをとても不満に思ったようだった。君は僕がいないと生きていけないんだからと言って、何をするにもわたしをことごとく責め立て、いつか彼がわたしに勉強を教えてくれていた時のような口振りでわたしに教え込むように告げた。――君は僕がいないと何もできないんだから、僕から離れようと考えてはいけないよ。
言い聞かせるように向けられる強く鋭い眼は、最早わたしの言葉など聞いてはいない。わたしは何度も反論をしようとしたが、彼の睥睨する双眸に言葉は気圧されて、掠れた声のまま反論の言葉は失われてしまう。あんなにわたしに優しく微笑んでくれていた顔が、無表情でわたしを見つめるだけで、わたしはひゅうと心臓を掴まれたような感覚に陥るのだ。そのうち、彼はわたしが彼がいないと何もできないのだと教えるように、わたしのレベルに見合わない論文を読ませたり、わたしの許容量を越えた物事をやらせて、わたしが何も言えなくなったり、きちんと問題を片付けられずに立ち尽くしているのを見て「ほら、やっぱり君は僕がいないと駄目だろう?」とわたしの頬に手を滑らせて、優しく微笑んだ。
――学生時代、カーヴェくんと過ごす日々が、こんなにも息苦しく感じるようになる日が来るとは思いもしなかった。カーヴェくんは、わたしが彼がいないと生きていけない≠アとに納得していないということが分かると、それを事実として理解させるためにどんどんわたしから行動を奪って、縛り付けるようになったのだ。わたしはカーヴェくんがいないと生きていけない、一人で起きることもできないし、まともにお皿を洗うこともできないし、一人で買い物に行くことも、一人で誰かと話すことも、一人では何もできない、食事も、ただ息をして、生きていくこともできない――。ひとつ、またひとつとわたしからできること≠取り上げられて、わたしはどんどん自由ではなくなっていった。カーヴェくんはわたしからすべてを取り上げて、わたしを物理的に何もできなくさせて、それから自分の手でわたしに与えるのだ。自分で何もできなくなるように取り上げたくせに、彼自ら与えるなんて酷いマッチポンプだと思う。しかし、彼はそうするとそのつんとした猩猩緋の瞳を柔く緩めて満足そうに微笑むのだ。――ほら、やっぱり僕がいないと君は何もできない。
狂っていると思った。こんな生活おかしいと、こんなことは間違っていると、何度も思った。だってこんなことは普通ではない、普通の生活のはずがない。わたしは確かに教令院においては彼の手がなければ卒業することもできなかったような馬鹿であったかもしれないが、彼の手がなければ何も出来ないような無能ではない。だっておかしいだろう、どうしてわたしは彼に着替えさせられているのか? 服のボタンを外してつけることさえできないと、そう思われているのか。朝目覚めて朝食を作ることも、服を着替えることも、掃除をすることも、買い出しに出かけることも、何も、何もできないと思われている。こんな歪な生活を送る前は何事もなく送ってきた日常生活を否定され、わたしはすべてをカーヴェに頼って生きていた・・。そうしなければならないように、彼の家で、彼に管理されて過ごしていた。
そんな生活を続けていると、わたしは自分の精神がどんどんおかしな方へ歪んでいくのが分かった。鬱屈して、ねじ曲がっていくのだ。それはいつかわたしが教令院で感じた孤独や罪悪感ではない。それよりももっと酷い劣等感と、疑心暗鬼だ――わたしは本当に何もできないのだろうか? わたしは一人では服のボタンを留めることもできないほどに、何もできなくなってしまったのだろうか。カーヴェくんはいつだって正しく、間違ったことを言わない人だった。学生時代に刷り込まれた信頼が、わたしという自己を否定する。わたしは本当に、何もできない、出来損ないなのだろうか?
わたしは、彼の家で、彼の用意した部屋で、彼に着替えさせられた服を着て、ぼうっと考えていた。カーヴェくんがそうしているように、本来、わたしも外へ働きに行っている時間ではあったが、しかしカーヴェくんはわたしを家から出さなかった。一人では何をすることもできないから。カーヴェくんがいないと生きていけないから。だからカーヴェくんはわたしに言いつけたのだ。ここでいい子に僕のことを待っていて≠ニ。カーヴェくんがいないと息をすることもままならないのに、どうして外で活動できるというのだろうと、彼はわたしを説得するように教えた。わたしは、カーヴェくんが帰るのを待っていなくてはいけないのだ。カーヴェくんがいなければ息もできない、何もできない、何をすることも、何も、何も、何も……。
――本当に?
気が付くと、わたしはカーヴェくんの家を飛び出していた。裸足のまま。どうして自分がそんなそとをしているのか、自分自身でもわかっていなかった。きっと衝動だったのだろう。カーヴェくんの言うことに従わなければと思う気持ちと、わたしは一人でも生きていけるという自己が二律背反を起こして、闇雲にわたしを突き動かしていた。
そしてわたしは砂漠へと向かうキャラバンに飛び乗った。姿が見つからないように貨物の背に身体を隠し、紛れて、じっと息を潜める。やがて、御者が出発を合図する声が聞こえて、わたしの乗りこんだ貨物車が動き始めた。がたん、がたん、と上下に揺れる振動を感じながら、膝を抱えて、そしてそこに顔を埋めた。
――この時、わたしが飛び乗ったキャラバンこそ、キングデシェレト文明の解明のために発足され砂漠探索プロジェクトの隊だった。旅の中継地点であるキャラバン宿駅に辿り着いたところで、わたしは不法にキャラバンに紛れていることが見つかりあわや衛兵に突きつけられるところであったが、プロジェクトの一員にかつてわたしを指導していた指導教員がいたことで、わたしは砂漠探索プロジェクトに参加させてもらえることになる。
逃げ出したことが正解なのかは分からなかった。カーヴェの言葉はすべて正しく、間違っているのはわたしなのだと責め立てる声がずっと頭の中に響いていた。正気ではなかった。正気ではいられなかった。カーヴェくんは間違いだ、わたしは彼に縋っていないと生きていけない人間ではないと自立を促す心と、カーヴェくんが間違ったことを言うはずがない、彼の元に帰るべきだ、彼がまた不機嫌になったら怖いことになる、と逃げ出したわたしを咎める声とが相反してわたしを追い詰めていた。
――もしあの時、逃げ出すことを選ばず、彼と正しく向き合い対話を求めていたのならば、何かが変わったのだろうか?
わたしは自身を追い立てる声や、募る罪悪感から逃げ、こんなわたしの存在でも必要としてくれているという事実に救いを見出すように砂漠でのプロジェクトに没頭した。
――そして、明確な答えを出せないまま数年の月日が経過する。あの時、学生時代のわたしは、 今よりずっと自由で、そして、ずっと希望と期待に溢れた日々を送っていた。そして、同時に――あの時のわたしたちは、今のような歪で、狂った関係ではなく、ただ純粋に友人として日々を送ることができていた。
交わらなかったわたしたちの運命。亀裂の走った関係は元に戻ることはなく、ただいずれ訪れる崩壊の時を待つ。
過去を回顧したところで何かが変えられることはなく、ただ過ぎ去りし日々に思い馳せることしかできない。回り始めた歯車を止める術を人が持たないように、遠い過去に成り下がったかつての記憶に干渉することはできず、ただ呆然と意味のない明日を迎えることだけが生きとし生ける生命に課せられた運命なのだろう。
故にわたしはすべてを失うのだ。回り回った軽口がやがてわたしの首を絞めて、その形骸的な表面の言葉に本当の意味を齎すその日まで。その結末が、あの砂漠での落盤事故だった。
――あれは、地下の古代遺跡を探索していた時の事だった。発足されたキングデシェレト文明探索キャラバン隊はキングデシェレト文明における新たな発見を求め、過去に探索された地点よりも深くに潜ることを決断した。何百年以上も前に作られた遺跡は経年劣化による崩壊が見られていたことから、崩落の危険性もあったが――ここで探索を中断し、引き返しては、砂漠探索を行うために掛けてきた時間や資金の無駄になるといって探索を続行した。それが、命取りになった。
ぱらぱらと砂が上から落ちていることに気が付いた時にはもう既に崩落は始まっていた。ぐらぐらと地震が起きたと思えば、当然天井が崩れ落ちたのである。移動用の駄獣や、探索隊の幾人かは落ちてきた側壁の下敷きになった。荷物を投げ捨て、慌てて来た道を引き返そうと駆け出した時、わたしは頭上に影ができたことに気が付いた。あ、と上を見た時にはもう遅く、わたしにもまた崩落による影響が降り注いでいたのである。
――下半身は崩落した壁の下敷きとなった。脹ら脛を潰した大きな瓦礫はわたしの柔い腕ではどうすることもできず、わたしを落盤する遺跡に縛り付けた。ぱらぱらと砂が上から落ちている。遺跡が揺れている。間近に迫る死≠前に、わたしは遠ざかっていく探索隊に向かって叫んだ。助けて、助けて、助けて、助けて=\―。
……助けは来なかった。探索隊は引き返すことなく、わたしを一瞥するだけで逃げ出していった。当然だ、わたし一人を助けて全滅するようでは意味がない。これはかの有名なトロッコ問題だ。二つに分かれた線路のうち、一つにはわたしが、そしてもう一つには他の探索隊の面々が転がっている。わたしを選べば探索隊の生命は失われ、そして探索隊を選べばわたしの生命は失われる。そしてこの問題に一つ仮定を付け加えるのであれば、仮にわたしを選んだところで、わたしの生命が救われるとは断言できないという点だ。それを踏まえて、どちらを選ぶ方が正しいのか? 答えは、誰が見ても明らかだ。より大多数の生存確率を上げるには、足が潰れて移動に支障があるわたしを助けるよりも、わたしを切り捨てて逃げ出した方が多くが生き残ることができる。――キングデシェレト文明の解明における遺跡探索プロジェクトに参加した時点で、こういった危険性が着いて回ることは承知の上だった。ただ、起こり得る最悪の可能性が、わたしに降り注いだだけ。
がらがらと嫌な音が頭上から聞こえていた。姿の見えなくなった後ろ姿を見送りながら、わたしはぐらぐらと揺れる移籍の中で、間近に迫る死の恐怖に怯えることしかできない。生き埋めで死ぬのか、もしくはここで野垂れ死ぬのか、救われる可能性は極めて絶望的だった。考えてもみてほしい、探索隊のメンバーが無事に遺跡を脱出し、救援を呼ぶまでにどれほどの時間がかかるのか。その間、遺跡が保っているかどうかも危ういし、ましてや極限状態にある肉体が体力の消耗に耐えられるかも疑わしい。わたしに突き付けられた現実は一つだけだった。この砂漠で、崩落する遺跡と共に死ぬのだ。
やがて崩落する恐ろしい音が止み、ぞっとするような静寂が包み込む地下遺跡の中で、わたしはぐったりと砂に埋もれた硬い床の上に倒れ伏せながら、ちかちかと点滅するように浮上しては沈み、沈んでは浮上していく曖昧な意識の中で、過去を思い出していた。あの時ああしていれば、この時、こうしていたら……短い気絶と覚醒、細くなる呼吸に、後悔だけが募っていく。生きていたい、まだ死にたくはないと叫ぶ声は、砂に埋もれて消えていく。しかし現実はどこまでも残酷で、無慈悲な砂の感触だけがわたしに絶望を教えてくれる。このまま、誰にも救われないままに独りで朽ちていくのだろうか? やがて躙り寄る死に怯えながら、刻一刻と迫る生命の期限に震えていた――その時、彼・が現れた。
「――寝るな、目を開けろ! 今から僕が助けるから、意識を保ち続けるんだ!」
――どうしてあの時、カーヴェくんがわたしを助けることができたのか、その理由は未だに分からない。今となってはこの記憶さえ最早通り過ぎた過去の産物でしかなく、真実を知ったところで意味のないことであるから。ただもしかすると、カーヴェくんは建築の関係で砂漠へ赴くことは少なくなかったために、偶然逃げ出した探索隊の人々と鉢合わせたのかもしれない。もしくは、彼自身もまたこの遺跡に訪れていたのか……真偽はどうあれ、彼はあの遺跡にいて、わたしを助けた。この事実だけは、紛れもない真実なのだった。
カーヴェくんは、わたしの足を潰す瓦礫を退かそうとして、しかしそれが自身の手では容易に行えることではないと理解すると、メラックを呼び出した。メラックはとても優秀な工具箱で、測量以外にも様々な機能が搭載されている。彼は衰弱したわたしの口に水を運びながら、メラックに瓦礫を退かせるように命令をした。ピポ、と機械的な音声が返事をすると、透き通る緑色の光がわたしを囲み、そしえぱっとわたしの足を押し潰していた瓦礫が消失た。
この時、わたしは自分の足がどうなっているのかを見ていない。もう足は麻痺していて、痛みすら感じていなかったから。ただ、カーヴェくんの顔が苦しげに歪められていたのを思うと、きっと酷い有り様だったのだと思う。カーヴェくんは弱ったわたしを抱き締めて、よくここまで頑張ったと褒めるように優しく頭を撫でた。それから、まるで恨み言を吐くように低い声で、ぽつりと呟いた。
「……僕から離れていかなければ、こんな目に遭うことはなかった」
「……、……ぁ」
「もし僕がここにいなかったら、……ここに来なかったら、君はここで死んでいた。遺体も見つからないまま、帰って来れないまま、一人寂しく死んでいたんだ……」
淡々と告げるカーヴェくんのその声が、酷く冷めきっていたことをよく覚えている。感情のない無機質な声は、ただ事実だけを述べて、わたしを冷ややかに見下ろしていた。
そうしてカーヴェくんは、恐らく酷い有り様のわたしの足をそっと指の先で空気を撫でるように優しく無でた。痛みはなかった。触れられている感覚もなかったから。ただ覚えているのは、カーヴェくんの悲痛な感情だけだ。努めて無機質に保った声は、死にかけているわたしを侮蔑するように冷淡に吐き捨てられているように聞こえたが、しかし、わたしを掻き抱く手が震えていたことをわたしは知っている。
「……」
それは数分だったかもしれないし、数秒だったかもしれないし、ひょっとしたら十数分にも及んでいたかもしれない。あの時の感覚は曖昧で、事が起こる前の記憶は不明瞭であるから、実際のところ、あの時のわたしの意識は揺らぐ水面のように曖昧で、決して鮮明なものとはいえない。しかし、一つだけ確かなことがあって、それはあの時のカーヴェくんは異様に静かだったということだった。怒るわけでもなく、叱るわけでもなく、ただじっと、わたしの折れて変色し腫れ上がった足を見つめていた。
「……君から目を離すんじゃなかった。君は僕がいないと簡単に死んでしまうことを僕はよく知っていたのに、いつか僕の元に帰ってくるだろうって、それでずっと放置して……」
「……、ぁ……?」
「僕が馬鹿だった。全部間違えていた。最初からどこにも行けないようにするべきだった。離れていかないように、ちゃんと、ちゃんと教えてあげるべきだった……」
そうすれば、君がこんなふうに死にかけることもなかったはずだ。吐息のような小さな声が、後悔を吐き出した。そして、彼の滑らかで、少しごつごつとしている指先がわたしの使えない足を撫で上げる。やはり感覚はない。ただ視覚的な情報で、彼がわたしに触れていることを認識していた。つつ、と皮膚の上に指の先を滑らせながら、カーヴェくんはその猩猩緋の透き通る赤い瞳ですっとの目を見つめ返す。それはいつか見た夕暮れの色だった。暮れなずんだ夕日が、スメールシティの街を鮮やかな茜色に染めた時の、あの美しい夕映えと、同じ色をしていた。
「君に足はいらなかったね」
淡々としていた。そこに落ちている事実を述べているかのように、到底綺麗とは言えない有り様の両足に目を向けてそう呟いた。
その言葉の意味も、彼の零した本心も、わたしは何も分かっていなかった。
わたしは知らなかったのだ。カーヴェくんを避けている間に、カーヴェくんの身に様々な出来事が起きていたなんて、知らなかった。わたしはずっとプロジェクトに没頭していて、彼のことなんて知ろうとも思わなかった。対話を求めようともしなかった、ただ必死で、眼前に転がる問題の解決に夢中だった。だから彼がアルカサルザライパレスを建築した裏で何があったのか、何を経験したのかなんてわたしは何一つ知らなかった。知ろうともしなかった。だから。
だから、カーヴェくんの目が暗く澱んでいるその理由が分からなかった。彼が何を考えているのかも、何を思っているのかも、何も、何一つ。
「君の足は瓦礫に挟まれていて、潰れてしまっている。僕の腕じゃ、この瓦礫は片付けられない……」
「……ぁ?」
「だから、そう。仕方がない。仕方がないことだったんだ。これは不慮の事故なんだから」
「ぁ、……ぁ、ぇ、く……?」
「メラック、ちゃんと狙えよ。一回で終わらせるんだ、分かったな?」
「ゃ、ゃあ、ゃ――」
「動くなよ。ちゃんと当てないと綺麗に切れなくなる」
事態を静観していたメラックが返事をするように声を上げると、メラックは突然大剣を顕現させた。
緑色の光が走る。カーヴェくんはわたしを抱き締めたまま、わたしの足の付け根にその切っ先を向けさせた。いくら曖昧な意識の中であっても、その異常な行動を認識すれば、生存本能にわたしの感覚は覚醒する。目を見開き、いやいやと首を振るわたしを、カーヴェくんは宥めるように頭を撫でた。しかし、そのじっとりした湿度の高い暗い双眸は、何も理由を告げずにわたしの足を見つめている。
「大丈夫。痛いのは一瞬だけだ。目を瞑っていればすぐに終わる。全部、全部ね」
「……ぁ、や、ぁあべ、く……」
「ほら、目を瞑って。大丈夫、僕が君を、助けてあげるから――」
――不慮の事故だった。遺跡内の落盤事故に巻き込まれ、足を潰してしまったわたしは、最早救おうにも救えない状況にあったから。刻一刻と迫る命の制限時間の中、消耗する体力を前に彼は決断をした。潰れた足は切り捨て、二度と歩くことのできないことも承知の上で、わたしの生命だけは助けることを選んだ――そういう筋書きで話は片付けられた。
結果的にわたしは両足を失い――一人では何もできなくなったわたしを、彼は自ら進んで引き取ることを選んだ。
誰もこの事実を疑わない。真実を知るのはあの場にいたわたしと、カーヴェくんだけだ。生き残った探索隊の面々は負い目があるのか、それとも言う口を持っていないのか、明らかにおかしな事実に何も言うことはなかった。あの日のすべての責任は遺跡の崩落と共に沈み、わたしという生き残ってしまったお荷物の後始末をすべてカーヴェくんに押し付けて、プロジェクトは幾多の犠牲と共に失敗に終わった。
わたしは、何も言えなかった。あまりのショックに気を失い、次に目を覚ました時にはもうすべてが終わってしまった後だったから。おはよう、という目覚ましの挨拶と共に、そっと捲られた毛布の下の現実は、わたしの中にあった希望と期待を奪い、殺すのには十分だった。
――もうずっと昔、わたしとカーヴェくんは教令院の同級生だった。
けれども今、わたしはカーヴェくんがいないと生きてはいけない。そういう身体になった。そういう身体に、させられてしまった。
*
「気持ちいい?」
熱すぎず、しかし冷たすぎず、人肌より少し暖かいくらいの程よい湯の中に入れられている。わたしの身体を余すことなく――腕も、身体も、それから今はもうすっかり丸くなってしまった足も、時間をかけて丁寧に洗われた後は、こうして身体を芯まで温めるためにと浴槽に湯をためて浸かるのが日課だった。カーヴェくんはわたしを入浴させる時、いつも機嫌が良さそうにしている。今もにこにこと笑みを浮かべながら、わたしに優しく声をかけている。わたしも詳しくは知らないが、この湯は薬湯らしく、アビディアの森にいる友人のレンジャーから分けてもらっているらしい。疲労回復だとか、血行促進だとか、とにかくこうしてお風呂に浸かることはわたしの身体にいいことなのだという。
「後で温かいホットミルクを淹れてあげるよ。それから、ゆっくりマッサージもしてあげようね」
献身的だと思う。これ以上はないほどに尽くされていて、 碌に動かすことのできない身体を酷使して頑張る必要なんてどこにもなかった。両足の失われた身体障害者らしく、なされるがままを生きている。わたしは足がないから歩けはしないが、しかし腕はまだあるので、壁に背を付けながら自分で身体を洗うことくらいはできるはずなのに、彼はそれすらもさせようとしない。何だってしてくれる。わたしが何もしなくても、何もできなくても、怒ったりはしない。まるでこの両腕すらも失ったかのではないかと錯覚するほどに、わたしは何もしていなかった。ただ、息をしているだけだった。
やがてカーヴェくんはわたしの身体を抱き上げて、優しくタオルで身体を拭いていく。手にのせたボディミルクを手のひらに広げて熱で温めてから、身体の隅々まで塗り広げて、全身くまなく、足の指の間まで念入りに保温をさせていく。顔につける化粧水や乳液、髪を守るオイルを塗るのも、すべてカーヴェくんがしてくれる。わたしはされるがままだ。わたしは与えられたものを拒絶してはならないし、求められるがままを振る舞わなければならない。そういうことになっている。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。わたしは、遠い過去を思い出した。昔はこうではなかった。わたしは頭がわるくて、愚図で、のろまで、何しても駄目な人間ではあったが、しかし昔はもっと、もっと普通だった。命も、尊厳も、何もかもを委ねなければ生きていけないほど、何もできない人間ではなかったはずなのに。
「――なあ、ちゃんと話を聞いてるか?」
「……あっ」
ふいに、カーヴェくんが不機嫌そうに眉を寄せながらわたしを見つめていることに気がついた。はっと気が付いた時、わたしはソファの上で、彼に支えられながら座っていて――カーヴェくんが、何かをわたしに問いかけていたとい事実に気が付き、 自分の顔色がさあと青ざめていくのを感じた。いくら物思いに耽っていたとはいえ、これ・・はいけないことだった。無視は、カーヴェくんが最も嫌う行為であったから。
次の瞬間、背を支えていたカーヴェくんの手がなくなった。支えを失った身体は後ろにこてんと倒れて、わたしは天上を見上げることしかできなくなる。カーヴェくんはそんなわたしを冷めた瞳で見下ろして、人形のように転がるわたしの様子をじっと眺めていた。
わたしは口の中が緊張でからからになるのを感じていた。カーヴェくんの機嫌を損ねたのだ。だから、わたしはこうして天井を仰いでいる。今のわたしは本当に何もできない。足の付け根から切断されたために身体を支える腿がないので、一人では座ることもままならないのだ。支えてくれるものがなければ、こうして後ろからこてんと倒れて、起き上がることもできなくなる。
「あっ……あっ、あ……」
「なあ、僕前に教えてあげたよな? 僕は、それ≠ェ嫌いだって」
「ご、ごめんなさっ、ごめんなさ、ごめんなさいっごめんなさいっ」
「君はいつも口だけだなあ。なあ、まだ教えてやらないと理解できないのか? 謝罪するなら、ちゃんと誠意を見せなくちゃ駄目だろ」
カーヴェくんのこの目は嫌いだ。いつだってわたしに優しい彼が、わたしに怒る時はこうして氷のように冷たい瞳を向ける。感情のない無機質な瞳でわたしを見下ろして、わたしのことを「言うことも聞けない悪い子」なのだと言い聞かせてくる。
カーヴェくんは怒ると、わたしに優しくしてくれない。わたしには足がないから自分で起き上がることもできないのに、こうして突き放してわたしを厳しく叱り付ける。わたしが反省するまで決して許してくれない。わたしが泣いても、粗相をしても、何もしてくれなくなる。わたしが反省するまで。わたしが、ちゃんと自分一人では何もできない≠フだと自覚するまで。何もしてくれない。何も助けてくれない。わたしができないから。彼がいないと生きていけないのだと、いつまで経っても理解しようとしないから。
「あ、うう、ごめんなさ、ごめんなざあっぃ」
「……」
「か、かーゔぇくんがいないとっ、かーゔぇくんがいないとっ、いきてけないからっ。ごめんなさいっ、ごめんなさいっごめんなざい、う、うう、ううううっ」
「……そうだよ。君は僕がいないと生きていけないんだ。一人じゃ何もできない。僕がいないと、身体を起こすこともできない。じゃあ、どうすればいいのか、もう分かるよな?」
「かーゔぇくんっかーゔぇくん、たすけてったすけてくださいっおねがいします、おねがいしますっ、なんでもするから、たすけて、たすけて、たすけてよお……」
「……本当に、君って子はしょうがないなあ」
必死にカーヴェくんだけを見つめて、カーヴェくんに手を伸ばして、何度も懇願をする。すると、ふっと目尻が柔らかくなったカーヴェくんが、わたしを優しく抱き上げた。まるで子供を抱き上げるかのように正面からわたしを抱えながら、慰めるようにぽん、ぽんと柔く背を叩く。
「人の話はちゃんと聞かないと駄目だろう? ぼうっとしている君も可愛いけど、ちゃんと返事をして欲しいな」
「ご、ごめんなさいっごめんなさいっ、ごめんなさいぃぃ……!」
「今日だけだからな、まったく……君は本当に僕がいないと本当に駄目だなあ」
いつもならこんなに早く許してはくれないけれど、今日のカーヴェくんは機嫌が悪い振り・・していただけのようだった。そうでなければ、カーヴェくんはこんなに早くわたしを許したりしない。いつもならもっとたくさん謝って、自分がいかに何もできないかをたくさん説明して、カーヴェくんがいないと生きていけないのだと、カーヴェくんの助けが必要なのだと言わなくてはいけない。わたしはカーヴェくんがいないと一人で起きることもできないし、食事をすることもできない、着替えをすることも、何処かに行くこともできない。彼に見捨てられたら死んでしまうから、生きていけないから、必死にお願いをするのだ。ごめんなさい、ゆるして、カーヴェくんがいないと生きていけないんです、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、たすけてください、ゆるしてください、おねがい、おねがいします、おねがいします――。そうやってたくさん訴えて、謝って、反省しないと許してもらえないのだ。
穏やかな熱、暖かな抱擁。抱き締められると、彼の熱が触れる肌を通してわたしに伝わって、わたしを優しく包み込んでいく。こうしていると、わたしは安心していられた。カーヴェくんが優しくしてくれるから。怒っていないから。それから――わたしはまだ、彼に見捨てられていないと実感できるから。
「か、か、かーゔぇくん……かーゔぇくん……」
「ん? 何だ?」
「す、すてないで、み、み、みすてないで……ちゃ、ちゃんと、ちゃんといいこにするから、だから……」
「――」
わたしの懇願に、背を撫でる手がぴたりと止まった。そして、数秒後に、ぎゅうと強く抱きしめられる。きっと服がなかったら、ぴったりと肌と肌とがくっついてしまうくらいに、強く。それから、ほう、と耳元に溢れるような吐息が触れて、甘やかで、蕩けるような柔い声が、わたしの心臓の傍で優しくそっと囁いた。
「捨てないよ。だって、君は僕がいないと生きていけないんだから」
――どんな優しい人にだって影はあるし、どんな人間にも人には言えない秘密がある。見えるすべてが真実ではないことを、わたしはこの身をもって痛感している。
わたしがこんなことになってしまったのは、何もかもカーヴェくんのせいだ。もしあのまま彼がわたしを助けてくれていたのなら、両足を失わず、今も自由に外を歩けていたかもしれないのに、カーヴェくんはわたしの足を故意に切り落とした。だからわたしは歩けなくなって、何もできなくなって、本当の意味で、彼がいないと生きていけなくなってしまった。
だが、時々思うのだ。もしわたしがカーヴェくんに見捨てられてしまったらどうなるのだろうか? わたしがビマリスタンに入院していた時、誰もがわたしを哀れみ、そしてわたしから目を逸らした。可哀想にと吐き捨てておきながら、憐れなわたしの現実に手を差し伸べようともしなかった。当然だ、わたしはお荷物でしかない。両足をなくしたわたしの世話なんて進んで行いたがる人なんていない。一人で入浴もできない、排泄することもできない、寝台から起き上がることもできないし、誰かの助けがなければまともに生きていくことすらままならない。誰だって自分の世話をするだけで手一杯だというのに、どうして家族でもない他人の世話を進んで行うというのだろう。
今に至るまでの過程に何があったとしても、わたしがいる今≠ヘもう救えないから。
今、わたしはずっと恐れている。わたしをこんな風に何もできなくしてしまったカーヴェくんに不満をぶつけてやりたい気持ちはずっとあるのに、それをすることで彼に見捨てられしまったらと考えた時、途端にわたしは何も言えなくなるのだ。だってこんな足で何ができるだろう。足の付け根から先は何もない。身体を支えるための腿もないので、座ることすらままならない。そんな身体で一体何ができる? 何もできない。誰かがいないと、誰かに助けてもらえないと生きていけない。誰もわたしをたすけてくれない。カーヴェくんしか助けてくれない。だからカーヴェくんがいないと、わたしは生きていけない。
いつか、わたしに外を出歩くことができる足があった日のことを思い出す。あの時のわたしは、今よりずっと自由で、そして、今よりずっと希望と期待に溢れた日々を送っていた。そして、同時に――あの時のわたしたちは、今のような歪で、狂った関係ではなく、ただ純粋に友人として日々を送ることができていた。
「ずっとわたしのそばにいてください、ずっと、なんでもするから、おねがい、おねがいします」
「うん。ずっと傍にいるよ。ずっと、僕が君のことを助けてあげる」
わたしは彼の首に手を回して、ぎゅうっと強く抱き着いた。離れないように。見捨てられないように。
カーヴェくんは何もできないわたしが好きで、わたしは何もできないからカーヴェくんが必要で、そうやってわたしの狭い世界が完結していく。
今もずっと怯えている。だから、与えられるものがどんなに苦しくて、心の底では忌避している行為であっても、その感情に蓋をして受け入れ、必死になって、彼に縋るのだ。
今はそれしかできない。
今は、それしか、何もできないから。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どうしてこんなことをしているのだろう。
けれどどうか、カーヴェくんがわたしのことを見捨てませんようにと、怯えながらずっと彼の帰りを待ち続けて、ずっと、ずっと彼のことを考えている。
わたしはカーヴェくんがすき。カーヴェくんがいないと生きていけない。カーヴェくんがいないと息もできない。カーヴェくんがいないと、カーヴェくんがいないと、カーヴェくんに捨てられないように、見捨てられないように、愛されないといけない。愛してもらわないと、カーヴェくんに愛されないと死んでしまうから。だからわたしはカーヴェくんが好き、カーヴェくんを愛している。誰より。何よりも。カーヴェくんだけが好き、カーヴェくんを愛している、カーヴェくんさえいれば何もいらない、カーヴェくんがいれば、……。
「すき、カーヴェくんすき、愛してる、あいしてる、あいしてる」
「うん、僕も好きだよ。君だけを愛してる」
カーヴェくんがわたしの唇に触れるだけのキスを落とした。それから、鳥が啄むようにちう、ちうと、キスをするので、わたしもそれに答えるように僅かに唇を開いた。すると、カーヴェくんの厚い舌が私の口内へと入ってくるから、わたしはそれを歓迎して、必死になって彼を喜ばせようとする。カーヴェくんに教えられたことを守って、彼に愛されるために舌を絡める。
正しさなんて分からない。この感情が本物なのか、これが本当にわたしを助けてくれるのかも理解できない。
けれど、今は。
――今はもう、それだけを、ずっと考えている。
みどりのよる