鴨跖草の遺言
ブツっという音の後、水瀬の音声が切れてしまった。エレベーターに乗ったようだったため通信状態が良くないのかとも考えられたが、萩原の正面にあるモニターにはノーシグナルの文字。腕時計が破壊されたか、水瀬が通信を切ったかのどちらかでしか表示されない画面だ。意味はないものの慌てた萩原はマイクに向かって何度も水瀬に呼びかけてしまう。水瀬と松田は通信機の類を一切持っていないため、スマホを奪われてしまってからは水瀬の音声を一方的に傍受するしかないため萩原の呼びかけはたとえ音声が切れる前であっても届くことはなかった。それほどまでに取り乱してしまった萩原の肩を、落ち着かせるために伊達が叩く。「……現時点で供述から推測できるのは、フレンツは利用されていただけでフラー事件に関与はしていないこと。そしてフラー事件の裏にはコウセイ教が関わっているということ……ホテル占拠の目的が水瀬の拉致だということ」
低い声で、己でも確かめるようにして口にした伊達は一つ息をつき、最後の言葉にぴくりと反応した萩原を諫めるように背中をばしりと叩いてやる。「う」と声を漏らした萩原だったが、平静さは取り戻したのだろう、自ら深く呼吸をし始めた。それを横目に伊達は風見へと切り込む。
「状況証拠からホテルにいる誰かが手引きをしていたと考えるのが順当かと」
「……そうだな」
伊達の言葉を否定することなく、風見は静かに返答した。ここで冷静に判断し可能性を排除しない風見の刑事としての矜持に伊達は深く尊敬の念を抱く。フラー事件で関わった間だけでも分かる風見の人柄は情に厚く仲間を思いやるそんなものだった。そんな風見が激昂してもおかしくはない発言をしたのにもかかわらず、伊達に反論すらせず投げやりになるでもなく思考を巡らせ始めた。ホテルにいる誰か、伊達は言外にホテルに先んじて潜入しただれかだと進言した。そして風見もそれを正しく受け取ったうえで身内を真直ぐに疑い始めた。こんな態度を取られてしまえば、伊達も疑わなくてはならないだろうと項垂れる。自分のバディであり信頼し敬愛してやまない河野も、容疑者の一人に他ならなかった。
河野壮琉。現在は警部補として捜査一課に席を置く元公安刑事。風見もかなり世話になっており、公安としてのノウハウを叩きこんだ恩師と言っても過言ではない。ずっと公安に居続けるものと思っていたところ、突如2年前に捜査一課に異動した時の驚きは未だに鮮明だ。噂では当初、警察庁での引き抜きも検討されていたというが本人があまり自分のことを語らないため事実は不明だ。フラー事件についてはバディである伊達が大きく関わっている可能性が高かったため河野から公安側に協力申請をし、それを風見及び降谷が許諾した形である。
高伊梅次郎。元は河野とバディを組んでいた公安屈指の潜入捜査官だ。もともと諸伏が潜る予定だったスコッチとしての潜入捜査に高伊も候補に挙がるほどには優秀ではあったが、なにせ高伊はその時点ですでに多くの現場に潜入をしていた。時には空港の整備士、政治家の秘書、郵便局の局員。どのような状況、環境、役割であってもそつなくこなす器用さを持ち合わせた高伊は、長くとも一年以内には目的を達成し後腐れなく潜入を終わらせるため公安内でもそれは重宝されていた。しかし昨年から本人の希望があり現場から手を引いている。理由としては後輩の育成や抜けてしまった河野の穴を埋めるためと上官に報告していた。
高井八重。公安内で「タカイ」と言えば女性の方の高井だ。理由は単純、ただ単に高井の方がウメジよりも先輩であり先に公安に属していたからだ。河野の同期であるが業務上あまり接点がなく、公安でも二人が同期であると知っているものは少ない。誰に対しても丁寧で物腰が柔らかいが、はっきりと言うべきところでは言葉を濁すことなく釘を差せる豪胆さもしっかりとある。女性なため男社会である組織内で苦労している面ももちろんあるが、それをおくびにも見せずに何倍にもして跳ね返す優秀さがある。これまで潜入はしておらず、したとしても貸切った場所での一般人や通行人、よくて一日限定の店員程度。今回のホテルへの潜入もその一端となる。基本的には警視庁にてデスクワークが主な業務だが、その業務に救われた潜入捜査官は多い。
3名とも風見にとっては尊敬する先輩であり、信用にたる人物だった。フラー事件を降谷に一任されてすぐに声をかけた3人でもある。もちろん他にも捜査をするために追加で何人もの公安刑事がこの件に関わったが、風見が直接降谷に頼み真っ先に捜査に加えたのがこの3人だった。だからこそ、最終局面のこの場面にホテルに潜入してもらったのもこの3名だけで、他の人員はすべて他に割いた。万が一が起きないようにというリスクヘッジであったはずが、その事態が起こってしまった。思わず風見は額に手を当ててぎゅうと瞼を落とす。これは失態だ、風見自身の失態だ。人選を見誤り、最後まで事態を見抜けずこのざま。事前に裏から手を回し事件が起こる前に収束させる公安にあるまじきことだ。
「そんな素振り誰もなかっただろ……」
沈黙を破ったのは萩原だった。モニターの文字を睨みながら、唸るようにごねるように零した言葉に伊達も風見も同意をする。いくら思い返しても、誰もが優秀で事件にひた向きだった。伊達が風見に問いかける。
「マジックショーの一行を招いたのはフレンツでしたよね、確認は公安側でしたんですか」
「下調べはなんの問題もない、5年程前から活動実績のあるいたって普通のマジシャンだった。可能性としては直前で成り代わったか、荷物だけそこに紛れさせて会場内でコウセイ教の手引きが行われたか……」
「いずれにしても直前の搬入物も入場者の人相確認もしてますよね、そこをスルーしたってことは……」
「その役割は中にいる3人に一任していて俺の方では『誰が』確認をしたのか把握できていない」
徐々に顔色を悪くしていきながら風見は震える口元を掌で覆う。風見の様子に気が付いた伊達が呼びかけると、意を決したように風見は口を開いた。
「……元は俺が分担する予定だったところを、任せてくれと進言してくれたのが……」
言葉を切った風見は観念したように一息に告げた。
「ウメジさんだ」
投稿日:2025/1229
更新日:2025/1229