鴨跖草の遺言

 立ち上がる瞬間、河野に腕を掴まれた水瀬は苦笑を返してその手をグッと握る。力が入らないのだろう、普段の河野であれば考えられないほどあっさりと離れていった手に水瀬はさらに顔を苦くした。公安刑事の薬物耐性をに関しては秘匿情報であるものの、医者であり警察官である水瀬だけはその詳細を把握していた。河野はかなり強い耐性を持っているのにも関わらずここまで脱力してしまうとは。会場、バーカウンターあたりに目を向けてもウメジが動いている様子もない。する、と河野の手が一度水瀬のドレスに引っかかってついに床に落下した。にこりと人のいい笑みを浮かべている金に促されるままに水瀬は立ち上がる。視線の先では河野が薄っすらと目を開けて水瀬をで見上げており、水瀬は少しでも河野から不安を取り除くためにできる限り表情を消して髪をかき上げる。腕時計を河野にしっかりと見えるようにして、自身に言い聞かせる。だいじょうぶ、なにも問題ない。河野や松田、その他大勢の気絶をした人々の対処の方を優先したい気持ちを押し殺し、ふっと瞼を落とした河野に背を向ける。音声を傍受しているのはホテルの外で待機しているメンバーと目の前の河野、そして水瀬の部屋からバックアップのために動いてくれている諸伏。これだけの面子が控えているのだ、何も心配することはない。振り返った先にいる金は穏やかな顔で水瀬を見下ろしていた。
「本当に素晴らしい、こんな状況下にあるのにあなたは平常心を保ったままだ」
「……簡易測定器と、ナイフですか」
 金の右手に翳すだけで簡易的にダイナミクス数値を計測できる機器が握られている。左手にはナイフ。水瀬の脚を進めるように軽く上下させたナイフの切っ先は汚れ一つない。できる限り多くの情報を落とすため、水瀬は確認するように金の手に持つものを口にした。
「水瀬さんが従ってくれるのであれば何もしません、警察官だとお聞きしたので自衛のための武器ですよ」
 まるで最初から水瀬のことを狙っていたかのようなセリフ。反応しそうになるも会話の主導権を取られることを回避することを選んだ水瀬は床にハンドバックを落とし両手を上げた。分厚い絨毯の上に落下の衝撃を吸われたハンドバックはころりと転がる。従順な様子を見せる水瀬に金の笑みが深まった。
「……会場の全員が気絶しているなんて……これだけのことをあなた一人で?」
「まさか!多くの同志と共に迎えに上がったんですよ」
「同志?」
「ええ、コウセイ教。ご存じありませんか?」
 金はエスコートするようにナイフでエレベーターホールを指す。水瀬が沈黙したまま歩き始めればまるで演説でもするように朗々と語り始めた。コウセイ教、人類の大半はSwitchであるというのに、少数存在しているDomとSubによってこの世の制限が多くなった。凄惨な事件の裏には常にダイナミクス数値が荒れたDomかSubが関わっている。だというのに医学会はDomとSubの数値を安定させる薬の開発をするばかりで、根本の解決をしようとしない。DomとSubがいない世の中こそ目指す社会であり、そこに真の安寧がある。
「金先生自身もDomだとお聞きしていますが」
「ええ、だからこそ私も先の未来には必要のない人種です」
 当たり前のようにそんなことを宣う金に水瀬は背筋がぞっとした。しかしだからといってダイナミクス精神科医があつまるこの学会を襲うことに理由が見いだせない。水瀬は金が理性を保っているのかどうか測りかねた。もし思考が破綻しているのであれば彼の話を理解しようとしても無駄、そこに理由も理屈も見いだせない可能性が高い。プロファイリングについては警察学校で多少習ってはいるが、普段業務で扱っているわけではない水瀬はグッと奥歯を噛みしめる。精神科医としての分析であれば可能だが、相手も同じ穴の狢だ。そういったコントロールは容易だろう。
 エレベーターホールにつくと、まるで停電にでもなっているかのようにライトが落ち使用可能なエレベーターが一機のみとなっていた。
「ホテルごと、なにかしたんですか」
「ええ、あなたを屋上のヘリポートから回収した後私も含めて無能な精神科医は全員死ぬ予定です」
 その言葉に水瀬は思わず足を止めて振り返る。大量殺人の予告をした金はなぜそんな当たり前のことを聞くのかと言わんばかりの顔をしている。本気だ、この男は本気であの場の全員を殺すつもりなのだ。
「……関係のないSwitchの人間もいるのでは?」
「そうですね、ですが所詮今の医療に投資をし同意を示している低能なものばかりです」
 金がナイフの柄でボタンを押下する。他に使用者がいないためか、一直線にこのフロアまであがってくるエレベーターに水瀬の中の不安が煽られていく。
「どうして私なんですか」
「あなたがそれを聞きますか?まあいいでしょう、どちらにしろ最終確認のためのテストもしなければなりませんし」
「テスト……?」
「どうしてあなたなのか、それは今あなたがこうして意識を保っているからにほかなりません」
 容量を得ない金の言葉に水瀬の顔に皺が寄る。今意識を保っている、河野も松田も、そして会場にいる全員が金によって意識を失った。逆に言えばどうしてか水瀬と金だけが意識を保っている。金の言葉を真に受けるのであれば、意識を保つかどうかによってふるいにかけられた結果残ったのが水瀬だったということになる。トリガーはおそらくマジックショー、その際会場に何かが蔓延し扉を開いたことによって、松田の意識を刈り取っていった何かが空気中に漂っていたと考えるのが妥当だろうかと水瀬は思案する。水瀬もワゴン組と同様に口にしたカクテルが原因なんだと思い込んでいたが金の言葉はそれを否定している。
「光栄なことに私は最後の判事として立ち会うことが許された……」
 判事。特徴的な言い回しに水瀬の目が見開かれる。ポーン、と音を立ててエレベーターが到着しその口を開く。金は恭しく水瀬のその中へ進むよう促すためか半歩水瀬よりも先に出て扉の縁をナイフを持った腕で押さえた。
「……あなたが」
 水瀬が震える声を絞り出して金へと確信をぶつけた。
「警視庁へ文書を送り、フラーカネル団地の住人を殺しながらメッセージを残したのはあなたですか」
「噂に違わず聡明だ」
 三日月のように歪んだ口角と目尻。一気に血の気が引いた水瀬は目が回りそうな中グッと耐えるように歯を食いしばりエレベーターへと乗り込んだ。満足そうに水瀬を眺める金は歌うように供述する。
「おおよそ6年前ですか、無能な政治家によりダイナミクス安定剤作成のための政策が打ち出されました。当時それはもう絶望を覚えましたよ、そんなことに国税を費やすなど不平でしかない。Switchのための薬が少ないことは水瀬さんもご存じですよね」
 少ない、というよりもSwitch専用の薬があまりないというのが正しい表現になる。DomとSubは専用の薬が開発されているがSwitchはどちらの薬も服薬が可能なため、開発に着手している病院は皆無。DomとSubの薬で対応可能となるのだからそれも当然となる。新薬の開発は相当に資金がかかる、だからこそ企業は利益が出る薬の開発しか行えない。Switch専用の薬の市場価値はほぼ皆無と言ってもいいだろう。最上階であるフロアのボタンを押下した金は、ボタンのパネルのある位置に陣取ってナイフを下ろした。普段はそこまで感じない浮上による重力が水瀬の内臓をグッと下へ引っ張った。
「警察病院では特に、あの忌まわしき男……ドイツ人のあの男ですよ。奴が薬の開発に力を入れていましてね……いかに劇薬を作っているのかを知らしめるため、犯罪者に投薬してやったんですが、死人が出ようが研究を辞めようともしないマッドサイエンティストで、こちらとしても辟易としていたんです」
「……投薬してやった?犯罪者……?」
「ええ、私が路銀を受け取らせたんです。死んでしかるべき人間ばかりだったでしょう?」
 フレンツが怪しいと睨んでいた警察をあざ笑うかのように金はうっとりとした表情で笑う。金にとってフレンツはまさにブッサルトだったのだろう。不要な薬を量産し、臨床実験を行う。その傍らで金の手によって過剰投与がされたために死人がでたが、その薬の製作者はフレンツだ。金の言い分は身勝手極まりないものであり、倫理観に欠けている。水瀬が関わった事件の容疑者として収容されていた市役所の男も、おそらくは金によって殺されてしまった。ここまでぺらぺらとしゃべってはいるが物的証拠は残っていないのだろう。残っていたとしてもフレンツが容疑者にあがる可能性が高いと水瀬は唇をかんだ。この後全員殺すと断言したのだ、汚名をすべてフレンツへ着せての心中の線が濃厚だ。
「藤田直哉、特にあの男は許し難い罪人です。我々コウセイ教の幹部の身内でありながらSubの女と一緒になりたいなどど夢想し、挙句に子供まで作った。ご存じですか、藤田家の子供は全員Subで簡単にコマンド誘導されるほどにダイナミクスも貧弱だった。お陰で簡単に洗脳にかけられたらしいですが、それもこれもSubとしてうまれてしまった悲劇だと思いませんか?」
 子供に対するコマンド行使。第二次成長期を超えるまでは、身体的にダイナミクスの影響を受けやすいとされている。そのため日本では未成年――18歳以下の子供に対してダイナミクスを使用することも使用させることも法律で禁止している。破れば暴行や傷害事件として扱われる、列記とした犯罪。藤田一家の子供は三名。長男でも小学生だったことを思い出した水瀬はゾッと背筋を震わせた。洗脳なんて言葉を使うほどだ、よっぽど強いGlareをぶつけ意識を混濁させた状態でコマンドを使用している可能性が非常に高い。後遺症が残ることもあり得る危険な行為は医者としても警察としても嫌悪するものだ。同時に、警視庁へと送られてきたグリム童話の内容を思い出してしまった水瀬は思わず口元を覆った。
 ダイナミクスを利用した洗脳は容易ではない。だがなにかしら条件が揃ってしまっていたら。それだけ強いDomがいれば、藤田一家の子供たちが耐性の弱いSubであれば。精神的に追い詰められていたのであれば。不可能に近い可能性を周囲環境によって引き上げることは可能だ。そうなると一家心中も、藤田直哉の投身自殺も全てコウセイ教が関わっていることになる。問い詰めようとする心を押し殺して、水瀬は思考を無理やり切り替える。今聞くべきは過去の事件ではない。再び引き起こされようとしている心中についてだ。
「藤田直哉も大バカ者だ、我々の考えは理解できないなどと真っ向から否定しながらもコウセイ教からの支援はしっかりと受け、あの団地に居を構えるなど……あの土地はもともとコウセイ教の持ち物だったんです、それを信者の一人が勝手に使用し団地を建設。一般人まで住まわせて……Switchだけが居住可能な神聖な場所としようとしていた矢先のことだったのでこちらもずっと目を光らせていたんですよ」
 現在生存している団地居住者は、伊達と朝田のみ。両者ともSwitchだ。それも伊達はかなりダイナミクスが安定したSwitchであると記憶している。そのほかの住人たちについては不明だがそこにも理由がありそうだと水瀬は歯噛みする。饒舌に話す金の言葉を遮るように水瀬は口をはさんだ。
「団地の住人を次々と殺し、その上現場に証拠を残す……そして今日は学会を狙ってのテロ。コウセイ教がどれだけ大きな教団なのか私は知りませんがまるで訓練でもしたような手際のよさですね」
「ああ、お手伝いいただいている組織があるんですよ。それもすべてあなたを探すため、という共通目的があってこそ」
 気を悪くした様子もなく、金は水瀬の言葉にしっかりと答えた。別の組織、それも犯罪なれしているような裏の組織が関わっている。案にそうこたえた金に水瀬の眉間に皺がよる。
「先ほどからおっしゃっていますが、私がなんだっていうんですか」
「N」
 エレベーターが停止する。同時に胸の鼓動が酷い音を立てて刹那、水瀬は躊躇いなく腕時計のつまみを引いた。

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投稿日:2024/1207
  更新日:2024/1207