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 人は脆い。
 そう知ったのはあるじさんに呼んでもらえて、人の体をとったからだった。作られてから長く時間を人の傍で過ごしていたし、人に触れていたのにも関わらずそんな当たり前のことを知らずにいた。もちろん他にもたくさんの事を知ったけれど、自分の中では一番の衝撃は、あるじさんの手に人の手で触れた時のあの瞬間だったのだ。
 人差し指を立てて、首元に突き立ててみるとふにりと指先がほんのり沈む。肉の下にあるであろう骨に阻まれて、そこから先には沈まないけれど、それでも強く押し当てるととくりとくりと血管に触れられる。瞼をおろして頼りない拍動に集中すると、それが薄らと下から上に上がってくるのが分かる。人の体で固い部分を見つける方が難しい。骨、爪、あとは…と一等柔らかい唇をぐにぐにと中指で押し上げ、そのお陰でのぞく白い歯に人差し指の爪で弾く。カチと少しだけ硬質な音が指先から響き、やっとされるがままだったあるじさんがうーんと声を上げた。
「なに」
 いつもより舌っ足らずな音は、未だに中指で上唇を抑えているせいだろう。やっと反応を示したあるじさんの、不服そうな目を覗き込みながらもう、と怒った声を意図して発する。
「きゅ・う・しょ!首なんて触らせたらだめだよ!」
「理不尽だなあ」
 あるじさんの歯をつついていた人差し指を顔の目の前でつきつけるようにして立てれば、近づけ過ぎたのか瞳がきゅうと焦点をあわせるために縮んだのが見えた。間延びした声で不服を述べてはいるものの、口角がほんのりとあがっているのが見えて、嘘が下手だなと笑ってしまいそうになる。なんとなく誤魔化すように指をふらふらと目の前で揺らしてみれば睫毛に縁どられた視線が反射のように追いかけてきた。目だって急所なのに、こうして指を目の前に突き付けても仰け反りすらしないのだから呆れたものである。信頼してくれていると言えば聞こえはいいが、お粗末と言わざるを得ないほどの危機感の薄さだ。
「心配だなあ」
 あるじさんの言い方を真似て返せば、指を追いかけていた黒目がこちらをしっかりと向く。理解が追いついていないのかぱちくりと瞼が数回落ちた。その様子が面白くてえいえいと頬をつついてやれば眉を顰め、こちらを驚かすように「がー」なんて声を上げながら指先に噛みつく素振りを見せてくる。それに大袈裟に反応して笑いながら避ければ「もうおやすみ!」と追いやられる様に肩を押された。
「はぁ〜い、あるじさんも夜更かしはダメだよ?」
「はぁ〜い」
 くすくすと笑うあるじさんにおやすみと告げて部屋の戸をしっかりと閉める。あるじさんの意向で本丸内の季節は現世の時間と同じものにしているらしく、いつの間にか茹だるような熱さはなくなり、比較的過ごしやすい秋の入口に差し掛かっていた。もうそろそろ月見の時期かなと空を見上げてみるも、この部屋の縁側からは月は見えないのだったと思い出す。もともとは月のよく見える池の前の部屋があるじさんの部屋だったのだが、景色がいいなあとぼやいた太刀の誰かに譲ってしまったのだ。蝋燭の淡い光が漏れているのはこの部屋だけで、他の部屋はすっかりと静かだ。静かではあれど、ほとんどの刀は起きているのだけれど。
 あるじさんに作られた刀剣は本丸の中にいればあるじさんがどうしているのかを感じることができる。痛い思いをしていればピリリと背筋が粟立つし、ボンヤリとしていればぬるま湯に使っているような心地になる。こんな風に夜に一人で仕事をしていたりすると、たまにだが指先が冷えていくようなそんな感覚になることがある。暗黙の了解というやつで、あるじさんは刀剣がこうして感情を感じ取ることができることを知らないし、誰一人としてそれをあるじさんに公にしない。
 すん、と鼻を鳴らせば藺草に混じって漢方の独特の苦みのある匂いが漂って来て、本丸内にも関わらずこうも気配を消すのもどうなのかとため息を漏らしてしまった。案の定というか、縁側の先には白衣を着たままの薬研がいて片膝を立てて腰を下ろしていた。
「『さみしい』なら言えばいいのにね」
「大将の性格じゃ言えないだろうな」
 薬研は、戦場で拾われた刀剣の為あるじさんの感情の起伏を感じることは出来ない。それでも周りの刀剣の空気からなにかを察してこうしてあるじさんが眠れていないような日にはこっそりと部屋の傍で気配を殺して見守っている。心配されることを苦手としている節のあるあるじさんでは、確かに間違っても「さみしい」なんて言わないだろう。だからと言って陰からこんな風にこっそりと見ているのもどうなのかと思っていれば、それが顔に出ていたらしい。立てた膝に肘をつきながら呆れたように目を細められた。
「男が夜に部屋に行くもんじゃないだろう」
「えぇ〜」
「……たちが悪いよなお前は」
 はぁなんてわざとらしく息を吐いてみせた薬研に、失敬なと返しながらも、頭の中で悪いのはあるじさんの方だと付け加えるように思った。
 脆くて柔らかくて、とても弱いのが人だ。それなのに心細いのだろうに一人で夜を越そうとする。お節介で部屋にいけば文句の一つでも言いたくなってしまうほどの無防備さ。懐刀の性分なのか、命を目の前に晒してもらえる信頼を得られていることに嬉しさを感じてしまうのも事実ではあるが、それとこれとは別にしてもう少し……。
 もうすこし、なんだろう。その先がうまく形にならず、ふわふわと頭の中で不快感に似たもやとなって思考を鈍くしていく。
「こう、もやもやするなぁ〜」
「なにがだ?」
「こう、わかりそうだけど分からないような……」
 もうすこし戦場にいることを理解してほしい、もうすこし人の弱さ自覚してほしい、もうすこし……。もやに形を与えようといろいろと当てはめてみたがどうもしっくりこない。そんな考えが口から零れていたのだろう、肩を竦めてからこちらに向き直った薬研が視線を突き刺すようにして見つめてきた。兄弟の中でも器用で立ち回りが上手いなんて言われがちな薬研であるが、自分からすればかなり不器用な方に部類されると思っている。基本的に真っすぐで言葉をあまり選ばない、選ぶほどに自分たちの中に言葉が豊富にないというのもあるのかもしれないが、多分薬研の場合はそうではなく、数ある中からシンプルすぎるものをあえて選んでいる気がある。
「なんでも言葉にしようとするからだろ」
「え?」
「お前のそれは多分、感情の情報量についていけていないのにそれに名前をつけようとしてるってやつだ」
 そうかなぁとぼやきながら薬研の言葉を脳内で反復する。名前をつけようとしている。そう言われればそんなような気がするのだが、なんだか釈然としない。そもそも、それの何が悪いのだろう。どんなものにだって名前をつけて表現するのが人の営みだ。風流を愛する刀に今の薬研の言葉を聞かせれば角でも生やして怒るのではないだろうか。言うだけ言って満足したのか部屋へ戻れと手をしっしと払った薬研は、また庭の方へ向き直ってしまった。恐らくはあるじさんが眠りにつくまではここにいるつもりなのだろう。ここならば気配であるじさんが眠ったかどうかが分かるから。
 あるじさんに作られた刀に聞けばそれくらい部屋にいたって分かることなのに、こうして自分で確かめる以外の方法を取らない辺りが、きっと薬研を不器用と称する理由の一つだな、と思いながらひとつ舌を出してお休みを告げる。あんな虫をはらうようにしなくたっていいだろうに。
「野暮ってもんか」
 薄らと聞こえてきた独り言に何かを返すには少し距離があったから、別にいいかとそのまま足を進めた。


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投稿日:2020/0808
  更新日:2020/0808