切り捨てないで
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「お前に関係ないだろ」
 鋭利で冷たい言葉だった。その言葉を放った人物である御幸の瞳も声色と同じものを孕んでいて、言葉を突き立てられたみょうじは恐怖で身がすくんだように息を止めることしかできなかった。
「たかがマネージャーが選手にとやかく言うなよ、うざいお前」
 トドメとばかりに言い捨てた御幸は、みょうじへ一瞥もくれることなくその場から立ち去ってしまう。威圧すら発していた御幸の背中が見えなくなってみょうじはやっと呼吸を思い出してどっと冷や汗をかく。立ちくらみのような眩暈に従って、その場にゆっくりとしゃがみ込んで身を守るように腕を身体に巻きつけた。
 ああ、どうしてこんなことになったのだろうと後悔の言葉がみょうじの中にめぐるも、それ以上に途方もない絶望感が御幸が突き刺していった言葉のナイフから流れ込んでみょうじの内部をゆっくりと崩壊させていっていた。

 三年が苦い試合で引退したとあって、新体制になってすぐの部活は荒れていた。選手の誰もがピリピリと緊張感を放ち、噛み合わないプレーに苛立ちに似た焦燥感が蔓延る。中でも主将となった御幸には多くのものがのしかかり、さまざまな問題に嫌でも直面しては鬱憤を徐々に蓄積させていた。
 渡辺などの三軍の一部の選手が思い詰めた様子を見せていたり。この微妙な時期に新任のコーチがうろついて意味深な言葉を残していったり。打席は振るわず、成宮を打つのは到底無理だろうと揶揄されてレギュラー全体に焦りとストレスが募り。中でも沢村のイップスは特大の爆弾で、本来であれば正捕手である御幸がどうにかしなければならないと言うのに、当の沢村は御幸の言葉をあまり聞かないときている。かなり繊細な問題であると言うことは御幸もよく理解はしていたが、性格上慰めることなどできない性分であると痛感しているため、下手に触れることも憚られて立ち往生させられているような不快感があり、それが知らずにオーバーワークにつながっていた。
 そんなおりに、マネージャーの一人であるみょうじからはっきりとそれを指摘されてぶちんと糸が切れるように御幸の我慢の限界が訪れたのだ。素振りをしようと人気のない場所へと向かう途中に声をかけられ、耳障りのいい言葉で嗜められて心にもない言葉をぶつけにぶつけた。「周りを頼れ」、「オーバーワークに意味はない」。優しく言い聞かせるような言葉が選ばれていたが要約すればそんなことを言われた。おそらくは図星をさされたような心地になったからだろう、見事キレて子供のような癇癪を起こした御幸は、部屋に戻ってすぐに我にかえり頭を抱えた。そしてもう一つ、大きな問題を自分のせいで抱える羽目になったとため息を吐き出し、半ばやけのようにその日は頭を空にして眠ることにした。本当ならすぐにでも戻って謝罪をするべきところだろう、しかし御幸という男はそんな素直さも殊勝さも持ち合わせていなかった。しかしこの時の「明日考える」という自棄と、監督の辞任騒ぎなどの煽りを受けたせいでマネージャーとの問題が一番後に引くということを御幸は予想もしていなかった。

「いい加減にしろよお前、まだみょうじに謝ってないのか」
 御幸は柄の悪いチンピラのような形相の副主将、倉持に呼び出され悪態をつかれていた。秋大を見事優勝し、オフシーズンとなった野球部。御幸は怪我を押して決勝に挑んでいたため数週間の強制休養となり、寒い中練習を見守る時間が多くあった。秋大で勝ち進むにつれチーム内の問題も一つずつ解決していき、徐々に雰囲気も落ち着いてきたために全員にゆとりが生まれ始めた。御幸はもちろんだが、副主将である倉持もそうで周囲を見る余力ができた彼は早々に御幸と一人のマネージャーの間に漂う異様な空気に気がついた。見てこれこそただの不良だが、倉持という男は野球部の中でも特に周囲に目を配り些細なことに気が付ける男だった。だからこその副主将でもある、倉持を推した先代も認めた監督もそれをよく理解していたのだろうと、御幸は嫌そうに顔を顰めた。自分に対してそれを発揮してほしくはない。
 以前はよく怪我の予防や一年の投手陣に声をかけて爪のケアなどの面倒を見ていたと言うのにいつからかそういった声かけがめっきりと無くなっており。自主練の際に球出しをやろうかと頼む前に気がついてくれたことも多くあったのにグラウンドのどこを見てもみょうじの姿は見えない。中でも御幸との接触を避けているのであろう、さりげない回避行動に倉持は早々に気がついて御幸を問いただした。結果、御幸がやらかしたらしいと知ったため休養中に関係を改善しろと口を酸っぱくして言い聞かせていたと言うのにいつまで経ってもみょうじの行動は変わらない。倉持は第三者という立ち位置にいるとき、基本的に気が長い。当人たちの問題であるし、外野が口をだして拗れることがあることをよく理解していたからだ。だがそんな倉持すら痺れを切らすほどに御幸の腰は重かった。
「謝れねぇのかガキかよ」
「違うんだってー」
「ゾノも勘づいてたぞ、なんであんな勉強してたテーピングやらなくなったんだって。沢村と降谷も爪の手入れやってくれなくなったって騒ぐぞそろそろ」
 みょうじは少しでも選手の力になりたいと監督を説き伏せ、都内で開催されていたトレーナーの講習に参加するなどして知識を得ては野球部のために生かそうとあれこれと働きかけるマネージャーだった。引退した小湊亮介でさえ素直に褒める程度には全身全霊で野球部に尽くしている。あの監督に講習会について頼み込みにいったのも一年の頃、そこまでの根性も気概も持ち合わせている。以来高島でもそういった機会があればみょうじに声をかけてできる限り参加をさせているのだから教員たちも結果が出ていると認めているということだ。そんなマネージャーが気がつけば裏方ばかりでボールの点検やOB会とのやりとりなど、部員と接する機会がない仕事に注力しているとなれば馬鹿な沢村でさえいい加減違和感を覚えるというもの。
「ああ爪ね、あれ俺のとこにくるからまじ迷惑なんだよな」
「茶化すな」
 のらりくらりとした態度の御幸に倉持は厳しい態度で接する。御幸はきゅっと口を閉じた。
「お前の軽率な言動のせいで、野球部全体に迷惑かかってんだ」
「……わかってるよそんなの」
 御幸もずっと痛感している。秋大の最中、ふとみょうじとの距離に気がついた時の悪寒に似た嫌な感覚は今でも鮮明に記憶していた。決勝後に倉持と前園と共に病院へと行き、そこで倉持からみょうじも御幸の怪我に気がついていたという言葉を聞いた時の罪悪感たるや。あれだけ突き放した御幸を、そこまでしっかりと見てくれていたのだという安堵。御幸は本気で主将に向いていないと何度目かの結論に至り倉持と前園にこれでもかと弱音をこぼした。そして気がつく、周りと頼れと言ってくれたみょうじの言葉と、その思いやりの全てに。から回っていた自分がひどく恥ずかしかった。
「わかってんだよ」
 誰よりもわかっている。距離を取られればとられるほどに、御幸はみょうじの行動に自然と目を向けていた。特に休養を言い渡されてからは顕著でふと目が合うことだって何度かあったほどだ。それでもすぐにふい、と目を逸らされてしまうたびに御幸は勝手にもグッサリとナイフでも突き刺されたかのように胸を痛め傷ついた。自業自得過ぎることは痛いほどにわかっていたため、顔には絶対に出さなかったがみょうじの行動は御幸のメンタルをゴリゴリに削っていた。
「知ってっか……食堂にみょうじが作ったテーピングのマニュアル本と昼前の間食に向いてる食べ物とか書いたノート置いてあんの」
「あれやっぱあいつかよ」
 舌打ちをこぼした倉持に御幸は項垂れて言葉を続ける。
「ナベがめちゃくちゃ話しかけに行ってて、球種の話とかしてっし」
「こっちから話さねぇと会話にならねぇって俺に切れてきたぞあいつ」
 渡辺も御幸とみょうじの間に何かあったのだろうことはすぐに察したようで、倉持は爽やかな笑顔でどうにかしろと脅されている。渡辺は見た目のわりに結構腹黒い。
「亮さんの怪我もずっと気にしてんのか購買で喋ってたし」
「気が付けなかったってマネ全員後悔してるって聞いたからそれでだろ」
「小野がおすすめのストレッチ聞いたとかで投手陣に教えてたし、正捕手俺なのに」
「正捕手関係あるか?」
「OBで東さんが来た時に妙に距離近ぇし」
「…………」
「なんかお前は帰り送ってるし」
「お前立場わかってモノ言ってんのか」
 倉持は心底引いた視線を御幸に向けた。何ってんだこいつ。
「白洲と東条はなんかスマホ一緒に覗き込んでた」
「そこ二人なら音楽関係だろ」
「金丸がコーヒー奢られてた」
「中学同じだろあいつら」
「小湊が頼んだらティーの球出ししてたし」
「泣き落とさないとやってくれねぇって春市がぼやいてたぞ」
「夏川と梅本は毎日昼一緒だし」
「マジで何言ってんだお前、めんどくせぇ彼女か?」
 倉持は最後に放った言葉にストンと納得を覚える。そうだそう、伊佐敷がよく読んでいた少女漫画でよくあった。「やきもち」を妬いて口を尖らせていた目がやけに大きい女の絵を思い出し、そしてひくりと顔を引き攣らせた。言われた御幸はそれまで饒舌だったのが嘘だったかのようにポカンとした顔で倉持を見ていた。
「なんで?」
 全ての考えを放棄したような声で御幸が問いかける。倉持は本人の自覚の前に察してしまった己の勘の良さをこの時ばかりは呪った。だがそもそも論点はそこではない。
「みょうじのことを関係ねぇって突っぱねといてお前が文句いう権利ねぇだろ」
 軌道を見事修正した倉持に御幸は顔を顰めた。倉持は御幸に気取られないようにそっと胸を撫で下ろす。何が悲しくてこの拗れ切った関係修正以上のお膳立てを御幸などにしてやらねばならないというのだ、断固拒否の姿勢を倉持はとった。
「復帰前にどうにかしねぇならお前に主将は戻さねぇ」
 最終通告だとばかりに言い捨てた倉持に御幸も項垂れながらも低い声で返答をした。

「あー、ちょっとみょうじ借りるけどいい?」
「だめ」
 同学年のマネージャーが揃っていた時、やっとのことで声をかけた御幸をバッサリと切り捨てたのは夏川だった。こう言った場面で強く言い返してくるのはもっぱら梅本かみょうじだったために御幸は面食らい、そしてポッキリと心が折れる音を己の内側から聞いた。本当に野球以外はだめな男である。
「いつなら手空く?」
 それでもなんとか食い下がったのは御幸自身もこの状況を打破したいという気持ちが強かったからだ。夏川はそんな御幸の様子を見定めるようにその大きな瞳を細め、ジッと無言を貫いた。あ、これ怒ってると遅まきながら気がついた御幸はシュンと肩を落とす。あからさまなほどに体を小さくした主将に耐えきれなかったのか梅本が口を開く。
「そもそもなんでみょうじ?」
 しかし御幸の味方ではないらしい、梅本にしては低い声で問われて御幸は「あー」と言葉に悩んだ。これまで夏川も梅本も、御幸に対して変わらず接してくれていた。しかし選手よりも接する機会があればなおさら、みょうじの不自然な行動は目につく。御幸が一方的にみょうじを罵倒した翌日にはその違いに敏感に気がつき、みょうじから相談されるのを待っていた。だがみょうじも頑固で強情、とうとう今日までみょうじの口から御幸のことを口に出されることはなかった。それが悔しいのが半分、このいけすかない男はどのツラさげて今更のこのこと出てきたのだという怒りがもう半分。状況を全く知らない二人であったが、みょうじの性格はよくよく理解している。御幸が心にもないひどいことを言ったのだろうと察して友人であるみょうじの肩を持とうとずっと決めていた。こんなに傷ついた顔をしたみょうじのことを今まで見たことがなかったから尚更だ。
「ちょっと、話したいことがありまして」
「ここじゃダメなの」
「……二人でちゃんと話したい」
 しかし御幸も折れなかった、内心ではボロボロ、脳内で9回裏2アウト2ストライクで打席に立たされたような切迫感に似ているなんて現実逃避をしてしまうほどだった。だがだからこそ逃げられない、そんな場面だからこそ強気で勝負に出なければ青道野球部ではない。
「二人ともごめんね、おにぎり進めててくれる?」
 ここで話せという態度を変えない夏川と梅本の肩をぽん、と叩いてみょうじが苦笑する。「でも」と言いすがる夏川の肩にもう一度手を乗せてみょうじは「行こうか」と御幸を促した。

「これからクリス先輩の通ってるリハビリ行く……礼ちゃんが向こうの先生に話通してくれたからみょうじも連れてけって」
 本当は御幸が高島に頼み、病院の都合をつけてもらったのだがそこまで口にする勇気と素直さを御幸は持っていなかった。ちなみに高島にはこのお願いをした段階で「喧嘩でしょ?いいかげん仲直りしてね」とピシャリと言い捨てられている御幸である。御幸の言葉に一つ頷いたみょうじは手早く荷物を準備し、二軍の練習場に立ち寄ってそのことを吉川に伝える。それはそうだ、外部の病院へと行くとなればすぐに練習に戻ることはできない。マネージャー業に一人穴を開けることの重大さは御幸もわかってはいたがそこまで頭が働いていなかった。
 駅まで向かう道すがら、御幸もみょうじも無言だった。御幸は何度も口を開いては閉じ、それに気がつかないみょうじは視線を落としているばかり。みょうじはこれまでの行動を振り返り、もしや御幸にとっては当てつけのように写っていたのではないかと思い至りゾッとしていた。あからさまではなかったとはいえ、積極的に選手に話しかけることをしなくなり、御幸とも業務連絡以外の会話は一切しなかった。それらが目に余ったからこその呼び出しだろうと後ろ向きなみょうじは唇を強く噛む。あの日以降下降をたどり続けたみょうじの自己評価はついに底辺にまで落ちぶれていた。
「あー、あのさ」
 不意に御幸が足を止めて声を発する。住宅街の一角、路地の先で自転車が通過していく。みょうじは血の気の引いた顔でまるで断罪されるかのような表情で御幸向き直る。御幸は気まずさやいたたまれなさ、緊張感など吹き飛ばされるような衝撃をその顔を見て受けた。いつも遠目に見ていたみょうじの顔が酷く歪んでいる。他の部員とは楽しげに笑っていたのに、御幸の前でだけ全く正反対の見たこともないほどの青白い顔。悲痛を煮詰めて絶望を敷き詰めたような表情。
 そしてそんな顔を見て御幸は、倉持がこぼした「彼女」という言葉を思い出して時間差で納得した。自分だけが初めて見ただろう可哀想な表情を見て、胸が満たされたような心地にすらなったことに御幸は改めて自分の性格の悪さを知る。謝るという事ばかりが頭を支配していたというのにそれを取っ払って、全く違う言葉が御幸の口から飛び出した。
「付き合ってくんね?」
 当然ながら、みょうじは御幸の理解不能な言葉は受け入れられるはずもなく。高島から二人が険悪な状態だと聞き及んでいたクリスは、どういうわけかとても楽しげな御幸から「俺あいつ彼女にしたいんですよ」と斜め上の宣言をされて混乱させられることとなった。もちろん、後に謝っていないことを倉持に看過され怒鳴り散らされ、挙句小湊に告げ口されて部員と言わず引退した3年からも恋路を邪魔されることとなるのだがそれはまだ先の話である。