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「なまえちゃん」
 その声に反射的に身が固まったような感覚を覚えたが、何とか顔を上げる。岩泉先輩の言葉に泣いてしまいそうなくらい嬉しさを感じてしまって、もしかしたら私はバレーの傍に、このチームの傍にいてもいいのかと思ったがしかし及川先輩の声で我に返った。だって、この人がそのチームの中心なのだ。この人がノーと言えばノーだし、イエスと言えばイエスなのだ。それくらいにチームに影響力と力をもたらしている。入部して間もない私ですらわかる。
 その人に要らないと言われたのだから、私はわきまえなければ。そう思って、ちゃんともう一度自分に言い聞かせて顔を上げたのだ。しかし先ほどまでいた場所に及川先輩の姿はなく、床に彼の茶色い癖っ毛が見えた時には驚きで声も出なかった。
「ごめん」
「……」
「ほんとうに、こんなに追い込んで、俺主将失格だ」
「あ、の」
「もう俺の事なんて信じられ、ないとおもう……でも、お願い、バレー部のことは」
「及川先輩、あの、やめてくださ」
「辞めないで」
「……」
「お願いなまえちゃん、辞めないで、絶対、お願い」
 ゆっくりと顔を上げた及川先輩の表情は悲痛で、けれども怖いくらいに真剣なのが分かった。まるで試合中の時のようなそれに、まさか自分がその顔を向けられることがあるとは思わずにどきりとしてしまう。この顔を向けられるのは、試合中に同じコートに立つ選手だけだと思っていた。それなのにそれが私に向けられていることにぞくりと背中が泡立った。まるで、あのコートの上に急に立たされたかのような緊張感が背中を撫でて、息が震えそうになった。
 そう言えば、及川先輩の顔を久しぶりに見た気がする。
 及川先輩がどういった先輩であるか、私は断言できるほどに知っているわけではない。けれども、こういった顔をする時の彼が真剣で裏表のない誠を貫こうとしているというのは、知っているつもりだ。だからこそ皆彼についていくし、迷うことなく動ける。そんな表情をした彼の口から、辞めないでと言う言葉が出た。
 辞めないで。やめなくても、いいのだろうか。私は、辞めなくていいのだろうか。
 私が唯一持っていたバレーが好きと言う気持ちすら信じてもらえないのに、いいのだろうか。そんな思いが顔に出ていたのか、もう一度願うように同じ言葉を紡がれて私は簡単に迷ってしまう。私だって、この主将を信じてついていくと決心していたのだから、この迷いは当然ともいえたがそれにしてもなんて優柔不断なのだろうと少しだけ自分に失望した。
黙ったままの私に、及川先輩は次々と言葉を口にした。
 あの日の事は及川先輩が勘違いをしていたということ、その後に私に向けた言葉もすべて本心ではなくむしろ本心とは真逆だという事。今日言ってしまった言葉で深く傷つけてしまったと、もう一度頭を下げて謝罪を。
「もうなまえちゃんがいない部活なんて想像すらできないんだ、それくらいに一緒に戦ってくれるなまえちゃんのことを」
 不自然に途切れた声に、及川先輩の顔が伏せられてしまった事に気が付く。茫然としてしまっていたせいで理解するのに時間がかかってしまっている脳みそに、これだからのろまと言われるのだろうと内心苦笑した。岩泉先輩はずっと黙ったままで、腕を組んで及川先輩の話を聞いていたのだが私よりも先に異変に気が付いた彼が顔を怪訝なものにした。
「……及川?」
 岩泉先輩の声にも微動だにしなかった及川先輩にやっと私もその違和感に気が付く。両手を床についてうなだれる様に首を落とした彼の視線の先は、当然だが教室のリノリウムの床と及川先輩自身の膝で、両足で違う色の付けたサポーターの間の床に、何かが音を立てて落下していた。
 ぽた、ぽたぽた、ぽたた。え、泣いてる?と脳が受理したのはそれを見た随分後で、存分にその事実に驚いた私は席から慌てて立ち上がって、机にガタガタと引っ掛かりながらも同じように床に膝をつけて、顔は岩泉先輩に向けた。
「い、岩泉先輩!おおおお及川先輩どこか怪我でも……!!」
「……あー、なんだ、あれだ、たまってた自傷が爆発したっつーか」
「へ!?な、なんですか!?もしかして疲労とか……」
 あまりのことに今までなんの話をしていただとかそんな情報が私の頭から吹っ飛んでしまい、彼が泣いている要因が痛みによるものだということしか考えられず、どこか怪我をしたのだと思い込んでしまって慌てた。これから春高の予選だってあまり時間がないのに。どうしようと慌てながらも頭の中でこのあたりの病院をピックアップしていき確か携帯に電話番号も登録しておいたはずだから携帯を持ってこようと思い、わたわたと意味もなく空中で泳がせていた手を床について立ち上がろうとした。
「岩泉先輩、私一度」
 しかし、クン、と弱々しい力がそれを止める。その力に気が付かずに、そのまま立ち上がれるくらいのものだったのに、私には抗いようがなくそのまますとんと膝をまた床に落ち着けてしまう。緩く私の手首を縛ったのは及川先輩の手で、その大きさや冷え切った温度に驚いてしまう。体が冷え切っているのだろうかと思ってしまうくらいにその指先は冷たくて、しかも少しだけ震えを孕んでいた。
 床に出来上がった小さな水溜りの上に落水しているためにぼたぼたという擬音に変わった雨音と、私と及川先輩の小さな接触以外は変わりはないのに、私は嫌に緊張した。
 なんだか、本当に痛々しかった。こんな風に声も上げずに、涙があふれているのであろう瞳を一切人目に晒さずに、両手で拭うことも体を嗚咽で震わせることもせずに涙を流すその行為が痛々しくて悲しかった。
 こんな風に人が泣けるなど知らなかった。けれども今まで見てきて涙の中で一番痛々しく、感情が乗り移ってくるかのような強烈さがあった。
 拘束とは程遠い手首のそれに、私は全ての動きを止めてただただ水滴が跳ねる様を及川先輩と共に眺めていた。制限されたのは体だけではなく、思考回路も同様のようで頭の中を真っ白にぬられてしまったかのようだった。考えることは出来ない脳がしていたことは痛がるだけの心臓を少しずつ落ち着かせることだけだ。
 きっと、時間にすればそんなに時は経っていなかったはずだ。それでも体感時間は恐ろしく長く、完全に体が強張ってきたときに不意に耳が拾ったのは小さすぎる呼吸音だった。呼吸音と言うにはそれは大きく、空気の漏れる音といった方が近いものだった。そしてそれが及川先輩の俯いている顔から聞こえているのだと気が付いて、本当に恐る恐る私は耳を傾けた。
「っ……」
 音になりそこなったそれらを聞き取るにはまだ距離が遠い。けれど、これ以上は近くに寄らない方が良いだろう。この前「あんまり近くに来ないで」とはっきりと言われたばかりだ。思えばこの距離だって近いくらいだと思い出してしまい、反射的に体を後ろへ下げてしまう。しかし、その動きに気が付いたのか少しだけ手首に回るそれがきゅ、っとしまった。
 その弱すぎる皮膚への刺激にハッとして岩泉先輩に声をかけようと顔を上げたのだが、なんと気が付かないうちに彼は教室から出ていってしまっていたようで先輩が座っていた席は椅子が引かれたまま蛻の空となっていた。どうしよう。
そうしてどうしていいか分からずに時計の秒針だけが響く教室に息が詰まりそうになった時にまた聞こえた小さな声。先ほどよりもずっと形になっていたそれに、なんだか聞き逃してはいけないような緊迫感を覚えた。
思い切って顔を覗き込む勢いで、その音を拾おうとそっと近くへ寄る。
「……て……」
 それでもどうしても聞き取れなくて、もしかしたらどこか痛くて、それを伝えようとしているのかもと思い、ええい、と今度こそ及川先輩の顔を覗き込んだ。
 しかし、一瞬にしてわたしの視界は暗転し、及川先輩の顔も一瞬たりとも見えず、何が起こったのかと真っ暗な視界の中で目を白黒させた。え、なに、え、何が起こったんだ。混乱する頭で必死に考えようとする前に、及川先輩の怒鳴り声に近い声が間近で聞こえて体が跳ね上がった。
「信じてよ俺の事!!」
「!?」
「な、んで!!辞めないでほしいって信じてくれないんだよ!俺は……俺たちはなまえちゃんが一緒に戦ってくれてるってちゃんと、ちゃんと分かって……!」
 ギュッと痛みが手首に走る、くしゃりと前髪が何かに巻き込まれる。そこでやっと及川先輩のもう片方の手の平が私の視界をジャックしているのだと知って口をはくはくと意味もなく開閉させてしまった。
 バレーをする大きな手、チームの攻撃の軸になっている大切な手が私の目を覆っているのが妙で、けれどもヒヤリとしたその手の温度が少しずつ温度を持っていくのがこれが現実なのだと突きつけた。
 信じてよなんて、まるで普段の及川先輩の言葉と真逆で心底驚いた。この人はこんなことを言うのかと、今まで勝手に持っていた及川先輩という先輩の人物像がガラリと崩れてしまうくらいには衝撃だった。
 なんでもスマートに笑顔でこなしてしまうところしか知らなかったから。勿論インターハイで悔しさに歪む顔は見ていたけれど、泣くことだってしないと思っていたしこんな風に声を荒げることも想像が出来なかった。未だに目の前で泣いているであろう及川先輩の泣き顔が頭に思い描けないくらいに、これらは私の持っている及川先輩ではなかった。
でも、そうか。及川先輩だって、あんがい普通なのかもしれない。
 誰よりも早く来て遅くまで練習を当たり前の様にしているこの先輩の事を、私は尊敬していた。そして同時に、県内の四強で、主将という立場に全く驕ることもなく努力し続けるこの人は普通ではないと思っていた。だって普通はそれだけの肩書を乗せられてしまえば誰だって自信を持ってしまうと思うのだ。勿論及川先輩だって自信に満ちているけれど、そう言った意味ではなく、いつまでたってもこの人は自分のプレーに満足しないから、自分にだけは妥協しないから、とても凄い人だと思い込んでいた。
 凄いんだけれども、けれども私は先輩のことを主将として盲信し、どこか思い込んでいた節があったのかもしれない。信頼に厚いこの人のでも不安にだってなるし、痛みに耐えられなくなることだってあるのだから。
 当たり前に部員の信頼を得ているわけではないのだ、及川先輩だって。この人なりに必死にもがいて、努力しているからそこにそういったものが付加されていくのだ。私が及川先輩の事を尊敬し、信頼したのだって、そういった姿を見ていたからだと思い出す。
 けれどまさか私にそんな言葉を向けてくれるとは本当に思っていなかったから暫くフリーズしてしまって、その後もなにやら叫んでいた及川先輩の言葉は殆ど耳には届かなかった。だってまさか、そんな及川先輩の口から「信じて」だなんて。
 でも確かに、私は信じていなかったようだ。及川先輩があの件は勘違いだと言ってその後の言動についてもその誤解がきっかけによるものだと、謝るタイミングを逃したせいだと言った言葉よりも私はそれまでに取られた冷たい態度の方を信じ切ってしまっていた。だから近くに寄ることだって躊躇ったし、すぐに顔も見られなかった。
こんなに努力を惜しまない先輩なのに、私はこれ以上何をこの人に求めていたのだろうか。
「なまえちゃんがいなかったらすっごく困るんだから!ここ最近ずっと見てたけど働き過ぎだし、でもなんだか前よりも遠慮がちになっちゃったもの俺のせいだと思ったら、それに一緒に全国いくんだって」
「信じてますよ、及川先輩のこと」
 要領を得ない言葉を叫んでいる及川先輩の声が息継ぎで途切れた一瞬に静かに告げた本心は、きちんと彼に届いただろうか。
 そのあと一拍、息を止めたような間をあけてから妙な声を上げて泣く及川先輩に少しホッとしながらも、永遠と謝罪の言葉を紡ぐ先輩の言葉を、彼の手の平越しに受け取って、暗い視界の中私も謝罪の言葉を告げた。


2015.6.28

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投稿日:2017/0926
  更新日:2017/0926