3


 及川に今俺が知ったこと、みょうじが部をやめようとしているという事実と監督から聞いた話を告げれば及川はなんと吐きやがった。例えではなく、マジで。トイレに駆け込んだと思ったら個室で思いっきり吐いていた。それには流石に驚いて背中をさすってやったのだがこいつはこいつで追い込まれていたらしい。なにやってんだこいつ、自業自得だろうがよ。こいつに関しては全くかわいそうだとも思わない、全部自分が悪いのだ、馬鹿じゃねーのかこいつ。なんでこんなになるまで拗らせたんだ。
 近くにある水道に及川を向かわせて、トイレの窓を開けてから様子を見ればどうやらもう吐き気は収まったようだがお前誰だと思うくらいに酷い顔をしていた。吐き出した胃の中身と一緒に及川徹という男の精神まで流れ出てしまったのかと心配に思うくらいには別人の顔だった。「誰だお前」と聞いてしまいそうになったがグッと耐えて体調を伺えば首をがくんと縦に振った。一瞬首が落ちたのではと思う勢いだったので不気味だった。いや大丈夫じゃねーだろ。
 落ち着いた及川に近場の自販機で買った水を飲ませてから話を聞けば、恐ろしいほどに地雷を踏み抜いていた。よりにもよって怪我で強制的にバレーから離れざるを得なかったみょうじに対して一番向けてはいけない言葉を突き刺していた。大の男が二人そろってトイレの前で顔を青くしていた様はきっと他人から見れば相当威圧感があったと思う。
「お、まえ……んでそんなこと言ってんだよ!」
「俺だってこんなこと思ってもないし、正直自分の事ぶん殴りたいと思ってたんだけど今の話聞いて舌を噛み切りたくなった」
「あいつ信用されないマネはいらねーだろって、辞めるとまで言ったんだぞ」
「マッキーから泣いてたって聞いた時からもう限界突破してたのに俺もうほんと……ずっと心臓痛い」
「……俺もあいつは大丈夫だって、安心しちまったせいもある」
「いや俺が悪いよ」
「それはそうだろ」
「……」
「だけどまぁお前だけが悪い訳じゃねーからよ、今から行くぞ謝りに」
「……完全に岩ちゃんに負けた」
 冗談を言えるくらいには多少回復したらしく、真っ青な顔で「まっつんに部活任せてくる」と言って猛ダッシュした及川の背中を見ながら、どうして俺に言うようにあいつにもっと早く謝ってやれなかったのだろうと心底疑問に思った。及川と言う男は何事もそつなくこなせる、と言うほどではないがある程度のことに対応できるだけの経験値は持っていたはずだ。無駄に騒いだりふざけたりはするがここまで物事を拗らせるというのは俺が知る限りでは初めてだ。
 大きくため息をついて先に向かっておこうかと思ったがそう言えば及川にみょうじがどこで待っているか言っていないと思い出し、結局俺も体育館へ走った。

 お互い真っ青な顔のままなんとか松川と花巻に部活を任せ(結局及川が日本語不自由にまでなっていたので俺が殆ど話した)二人で全力で走ってみょうじの待つ教室まで向かった。さっき話してる時も思ったがこいつ大丈夫だろうか、まともに話せるとは思えないのだが。しかし話してもらわなければ困る、きっとあのみょうじの様子では俺から何か言ったところで信じてもらえないだろう。基本的に及川がみょうじに毒を吐いていたのは二人きりの時なので俺は及川が実際にみょうじにどういった態度と言葉を向けていたのかは知らない。初めのうちは二人が遠目に話しているのを見かけるたびにボールを投げてみたり駆け寄って背中を殴ったりと色々と止めていたのだが、あのなんでもへらへらと笑って流す男が顔を青くしているのだからよっぽど酷かったのだと思う。彼女に言ったであろう言葉の一部を聞けばそれには納得せざるを得なかったので一度聞いてからは聞くのをやめたのだが、軽率だった。
「なまえちゃん!」
「!?え、あ……お、いかわ先輩……」
 バンと大きな音を立て開け放った教室の戸にぜーぜーと息を荒げて手をかけながらみょうじの顔を見れば驚き、困ったような顔をしていた。もうすっかりと泣き止んではいたがその目元は赤く、ぎしぎしと良心が軋んだ。
 及川を促して教室に入り戸を閉める。息を整えて突っ立ったままの及川を無理やりみょうじの正面に座らせて二人を見れば、及川は泣きそうな情けない顔でみょうじを見ているがみょうじは完全に下を向いて及川の方を見ようともしていなかった……明らかに少し前よりも状況が悪化しているという事を実感させられ、どうして俺もこうなるまで放って置いたのだと絶句してしまった。誰も話さないまま、俺たちの呼吸が落ち着いた時にゴクリと及川の喉が鳴ったのを聞いた。何か口を開き声を発するのかと緊張気味に見ていたのだがそれよりも先に口を開いたのはみょうじだった。こうも後輩でしかも女のみょうじに気を使わせて、情けないったらない。
「あの、監督には話したんですけど、部活をやめます」
「……」
「急で迷惑だって、分かっています……でも春高前には、辞めます」
 本人の口から直接聞いたその言葉に、及川の顔は絶望に染まってしまった。先ほどよりも酷い顔色にまた吐くのではないかと思うほどで、しかし俺も対して変わらない顔色だろうと分かっていた。
 先ほどよりもしっかりした言葉に、この待ち時間でみょうじが随分と決意を固めてしまっていたことに気が付いたからだ。
 こいつは本気で言っている、本気で部活をやめようとしているのだ。及川を連れてくる前にみょうじに少しでも話しておくべきだったと後悔した。唇を震わせながらなんとか声を出した及川のそれはガクガクに震えていて泣くのではと思ったがなんとか耐えているようだった。
「……どうして、理由は」
「……選手に信用してもらわなきゃならないマネージャーが私じゃダメだと、思ったからです」
「みょうじ、それは」
「何を言っても、もう信じてもらえないと思います……でも」
 そう言って初めて顔を上げたみょうじに及川がびくりと体を震わせ、今度は及川が顔を伏せた。こうやってお互いに顔を見ようとしないからお互いに勘違いがあったことに気が付かなかったのだろうと今更気が付く。だってこんなに傷ついた顔をしたみょうじの顔を一度も及川が見ていないだなんてどうやったっておかしいのだ。涙を耐えて震えそうになる声を耐えようと唇を色が変わるほどに噛んで。こんなに悲しそうな顔をする奴を、俺は初めて見た。内臓がギュッと圧縮されるような痛みと息苦しさを感じ、誤魔化すように手のひらを強く握った。何がこいつなら大丈夫だ、こんなに苦しんでいた仲間にすら気が付けずに、何が全国だ。
「応援してます」
無理やり笑ったようなその顔を見て、切実な声を聞いて、自分自身にぶちぎれてしまった。
「ちげーだろ!!」
「!?」
「お前がどんだけ頑張ってたか、どんだけバレーが好きかなんて見てたら分かんだよ!何が信用されないだ!じゃあお前のこと心強く思ってた俺たちはどうすりゃいいんだよ!」
 叫んですぐにハッとした、そうじゃないだろなに怒鳴ってんだ、こいつは及川からそう思わされてしまうほどの態度を取られていたというのに。けれど、今言ったことは紛れもなく本気だった。
「……俺もそうだし、他の部員の信頼とか……そういうのをよ、こいつ一人の態度で捨てんなよ……バレーも」
 こちらを真っすぐに向いている視線にいたたまれなくなって、我ながら臭いことを言ってしまったと思った。でも、こいつが部員から信用されていないだとか、及川一人ではなくまるで全員からのような言い方をするから悪いのだ。こんなに頑張ってくれている後輩を誰が信頼しないというのだ。こんなに頼りがいがあると、こちらは思っているというのにこれではみょうじの方が俺たちを信じていないようなものだ。
 そして気が付く、そうか、俺がなにもしない間に俺はこの後輩からの信頼を失ってしまったのかと。そのことに目の前が真っ暗になった気がして、今まで俺はどうやってそういったものを築いてきたのか、一瞬で分からなくなるくらいだった。
 黙ったままのみょうじの顔を見るのが途端に怖くなってしまって俺まで俯いてしまう、なにやってるんだ二人そろって。少しだけ及川の気持ちが分かってしまって余計に情けなくて堪らなくなった。
「信用だとか……そう言うのはもう十分すぎるくらいにお前は持ってるし、なによりもうお前は仲間だ」
「……」
「俺はお前が辞めたら、ショックだし……お前のことは可愛い後輩だと思ってる」
 この言葉すら、もしかしたら信じてもらえていないのかもしれないと思ったら、自然と言葉は小さくなってしまう。らしくもなく情けない声で自信のない声だったから自分を嘲笑すらしたくなった。先ほどみょうじがいってた「もう信じてもらえないと思う」と言っていた言葉は、もしかしてこういうことかと思った。こいつはそれでも応援するだなんていって、馬鹿じゃないのか。なんでもうそんなに離れる言葉を言えてしまうのだ。応援だったらすぐ横でしてろよ……いや、言わせてしまったのは俺たちだ。
 まずは、そうだ。先延ばしにしていた謝罪からだった。及川の事ではなく、放置してしまっていたことに関しての俺の謝罪。
「みょうじ」
「岩ちゃん、待って」
 けれども及川がそれを許さなかった。やっと声を出したと思った及川の声は酷く掠れていてけれどもやっと決心が付いた色が乗っていた。俺が次に言おうとしたことが分かっていたかのように俺の言葉を止めて、大きく息を吸った及川は椅子から立ち上がって床に膝をついた。まさかと思ってみていれば案の定そうだったようで真剣な顔でみょうじの事を呼んだ及川は彼女の顔が自分に向いた瞬間に、綺麗に土下座していた。
 変なところで律儀なこいつは、自分ですべて言えるだろうと思っていたからそこまで世話を見なかったが、やはり大丈夫だったらしい。だったら始めからやれよ、そう悪態をつきたくなったが、今はこいつの吐露を聞くべきだろうと椅子の背に体重をかけた。


 - return - 

投稿日:2017/0926
  更新日:2017/0926