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 朝起きて顔を洗うときに絶句した。声を荒げなかったのはただ単に寝不足で咄嗟の判断が鈍っていたからであって、正直絶叫したい気分だった。鏡を指先でなぞってそこに汚れがないことを確認し、恐々として自分の頬に指を這わせる。
「なにこれ……」
 頬に、真っ赤な文字が書かれていた。一瞬顔から血でも出ているのかと思うほどに濃い赤でぎょっとしてしまう。指で頬を引っ掻けば皮膚の動きに連なって歪む文字に馬鹿の様に口を開けてしまった。なんじゃこりゃ。
 指の腹でこするようにしても簡単には取れないのか全く文字は擦れない。鏡文字となっていてしかも少し装飾されているのかややこしく難しいものに見えるが、恐らくこれは「海」という文字だろうと思う。多分……。鏡に近寄って自分の顔を覗き込んでみてもその事実は変わりそうになくて頭を働かせてみる。しかしどれだけ考えてみてもこんなものを書かれた過程が思い出せず、とりあえず顔を洗おうと石鹸を手に取る。もしかしたらこれで取れるかもしれないしと泡立ててから髪を結んでもいないことに気が付いてため息をついて手の泡を流した。
 しかしそんなのんきに捉えていた自分を20分後の私は盛大に罵ることになる。と、取れない……!?家にあるもので試せるものは片っ端から試してみた。洗顔、だめ。何かで聞いた汚れをとるなら酢、しかしだめ。ならば逆に油、ぎちょぎちょしただけ。じゃあ油繋がりでラー油、当たり前だけどだめ。台所にいるついでに食器洗い用の洗剤、だめ。ソルトパワーで塩、やっぱダメ。無理だと思ったが鏡の前にあった歯磨き粉、私は馬鹿か。
いい加減頬が痛くなってしまいげっそりして鏡を覗いてしまう。完敗だった。
 あと試せるようなもので思いつくのは除光液くらいだがうちにそんなものはない。今日の帰りにでも買えばいいのだがだったら今日一日どうしよう、ということになる。そしてそれを隠すという結論に至ったのは当然で、急いでバイトに行く支度を進めつつガーゼとテープを持ち出す。普段からお世話になっている救急箱に今日も感謝をしつつついでに絆創膏と使い切ってしまったガーゼも買い足しておこうと頭の片隅にメモを残しながら、些か大げさに見える顔のガーゼに溜息をつきたくなった。見えるところにこんな風に手当てをするのは苦手だから、怪我をしないようにしていたのに。こんなのあんまりだ畜生。
 ガーゼが少し足りなかったせいで少しだけ赤が覗いているがなんとかなってくれと願う。先に絆創膏を貼って上からガーゼを貼ればよかったと思ったが後の祭りだ、そして時間がない。
「いってきます」
 誰もいない空間に向かって告げた言葉は、今日はなんだかやけに虚しかった。

 昔から運がない子供だった。
 おみくじを引けば見ることも珍しいという大凶がでるし学校の席替えでは3回も連続で教卓の真ん前になった。因みに前3列目から後ろに行けたことはない。気を抜いて歩いていれば自転車が突っ込んで来たり、どうしても用事があって買うものがあれば基本的にそれは一軒目では売り切れている。
 人よりもあぁついてないなと思うことが多いというだけでそれが苦だとまでは言わないが、流石に両親が事故で亡くなった時は恐怖すら覚えた。もうその頃には親ですらも私のその不運体質を心配していたころだったからすっかり私自身も自分がそういう人間なんだと思い込んでいた。だからこそもしかして自分のそれがこんなことを引き起こしたのではと思ってしまうのは仕方のないことで、そしてこれまた運悪く親戚の人間にもそういった話が広がっていたせいで、高校に入学と同時に一人暮らしをせざるを得なかった。詳しく話せばまぁ色々と不運が重なってしまってそれしか選択肢がなかったというだけなのだが、なにぶん長くなるので割愛だ。
 高校はなんとか夜間のものに通っているのでどうにかなっているが無理言って務めさせてもらっているバイト先に遅刻などもってのほかだった。本当はホールなのだが今日のこの顔では恐らく厨房に入れられるだろうなと思いながらも急いで足を進める。店長になんて言おう、そもそも店長って今日出勤だったっけ。虫歯とでもいえばいいだろうか、いやいや虫歯でガーゼって、ギャグか。
「……すみません!」
 そんなことを考えていたせいで注意力散漫だったのが良くなかった、角を曲がった瞬間向こうから来ていたのであろう人に勢いよく突っ込んでしまい咄嗟に謝る。これで相手がヤンキーだというパターンが多いのだがどうか今日だけはと内心誰にという訳ではないが願った。顔からぶつかってしまった鼻を少しぶってしまって驚いてしまったせいで必要以上にのけ反ってしまう。見事に尻餅をついてしまって、痛む尻部を抑えつつ水溜りがなくてよかっただなんてプラスに考えられる自分に苦笑した。
 しかし、見上げた先にあった顔に息を呑んでしまう。え、ヤンキーというかヤーさんなんだけどどうしよう死んだかも。オールバックでいかつい顔、はるかに高い目線、逆光で余計に威圧感が増して怖い、あ、死んだ。
「だ、いじょうぶ、か……」
 ぶんぶんと首を振って、すこし歯切れの悪い物言いをする相手に盛大にビビりながら返答をする。土下座したい。そして気が付く、彼の目が私の顔、頬に向けられていることと、ぶつかったせいで剥がれたガーゼが首の動きに合わせてひらひらと視界の端で動いていることに。
 ぎょっとして勢いよく手で頬を多々つく様にして隠せばバチン、とそれこそビンタをしてしまったかのような音が鳴って自分で驚いたがそれどころではない。み、みられ……。
「なまえちゃんおまえ、それ……」
 見られたー!!ぎゃー!と内心で悲鳴を上げながら後ずさったがしかしそれ以上の恐怖に気が付いて身が本気で固まった。え、いま名前呼ばれた?え、なんで、え?私こんなおっかない知り合い居たっけ?え、死んだ?私死んだ??
 どうしようどなたですかとか聞いたら殴られるかなどうしよう死ぬかな…!?と混乱しきっていたのにも関わらず、相手の方がパニックに陥ったような顔をしていて。あまり働いていなかった頭のせいでぼさっとしていたのが悪かったのかその人に捕まえられて呆気なく担がれた時についに私は観念した、今行きますお父さんお母さん。死んだこれ。


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投稿日:2017/0926
  更新日:2017/0926