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※死ネタ注意


 これは動物の、人間の本能の話である。
 群れを成す動物は、仲間に対しては幾ばくか無謀になる。例えば天敵の動物に襲われ、負傷した時には傷口を晒し文字通り傷を舐めあったりする。自分では届かない、見えない柔らかい部分。血が滲んで痛んでしょうがないその表面を仲間には晒してしまえるのだ。弱っている時にそれは顕著で、あたかも当然の様に仲間に身を委ねるその無垢で無謀な信頼が、私には途轍もない恐ろしいものに思えた。その本能を自分も持っているかもしれないという事が、どうしようもなく怖かったのだ。
 具合が悪い時に人肌が恋しくなる。これは動物のこの本能と言ってもいいと思っている。体が弱り精神が不安を感じ、周りに助けを請おうと無意識にも群れを求めて手を伸ばしたがるのだ。自分ではどうにもできそうもない体の不調を何とかしてもらおうと無条件の愛を求めるその行為は、人間の大人としてはとても破綻している。それは人が理性なんて名前の付いた本能を抑える枷を持っているからに他ならないのだが。その枷があるからこそ動物的に振る舞うことに恐怖を感じるのもきっと当然の摂理で、私はそんな当たり前のことを特別なことにように捉えて悲劇に浸っているのかもしれない。けれど、それでもとても恐ろしいのだ。
「もう来ないでと言いました」
「……俺はそれに了承してない」
 掠れて、唸るような声だ。警戒を露わにしているような、威嚇をしているようなその音に嘲笑が漏れる。幸いなことに相手にもその声はきちんと届いたようで、眉間に不快そうに皺が寄っていた。まだ日の高い午前10時。土日祝日の面会時間の開始丁度にやってきた降谷さんが、ここに来るのは週に一回、月に四回。義務のように私の病室に重い足を引きずってやってくるのだ。そして、彼にまつわる話を一つか二つ、零すようにして一人で語り帰っていくのだ。
 いつ、どんな風にして伝えればいいのかと悩んでいるうちに、あの人にしそびれてしまった話があった。おそらく、この話をしていればあの人はまだ私の隣にいてくれていたと思う。それくらいには重たくて大切な話だった。「三年経って戻らなかったら忘れてくれ」。そう言って出ていったあの人は、私の知らないうちに死に、しかも死んでから随分と経っていたらしい。忘れるなんてとてもできなくて、何とかして手がかりのない彼を探してもらおうと探偵事務所向かった。彼に、どうしてか警察には届けを出すなと言われていたからそれを律儀に守って私ができる精一杯がこれしか思いつかなかったのだ。有名な探偵事務所と言えばこのあたりでは毛利探偵事務所で、なんとそこでどういう訳か毛利探偵に弟子入りしたのだという「安室透」に会ったのだ。一度だけ、彼から写真で降谷さんのことを教えてもらっていた私は、すぐに目の前の男が降谷零だと分かったし、一瞬で光明を掴んだような心地になり縋るようにして彼の事を何か知っていないかと尋ねたのだ。きっとこの人なら彼の事を何か知っているだろうと、大いに期待をして縋った。しかし返ってきたのは困ったようなヘラッとした笑顔で、「人違いでは……」という心底困ったような言葉だった。愕然とした、この人は今私を切り捨てたのだと瞬時に理解できてしまったのだ。私と、同時に彼の事を切り捨てたのだと。
 彼があんなにも優しい顔で「ゼロ」のことを話していたから、よほど大切な人なんだろうなと思っていたのに。聞いていた私が幸せになってしまうほどに嬉しそうに話す彼を、今でも鮮明に思い出せる。それほどまでに彼の中で「ゼロ」は大事で輝いていたというのに、そんなことなど知ったことかと言わんばかりに彼の事をぽいと捨てた「安室さん」に、私は絶句してしまった。間違えようもない、あんなにも楽しそうに話す彼が見せてくれた写真に写っていたのは紛れもなく目の前の男だった。やけに白い歯を見せて、悪だくみをするような顔で、あの人と並んで移っていた写真。見せてれくれた癖に「忘れてくれな」なんてまるで見せてはいけないものをこっそりと見せてくれた子供のように苦笑していたあの人。写真を見たのは少しの間だけだったけれど鮮明に私の脳に焼き付いた。綺麗に笑うあの人が本当に大切そうにその写真を扱っていたからと言うのもあったけれど、移っていた二人がとても楽しそうだったからと言うのも理由にあったんだと思う。それを、人違いの一言で済ませたのだ。その時点で彼が行方を眩ませてから既に三年以上たっていて、この人がそれを知らないなんてこと絶対にないと確信していた私は、探偵だという“安室透”に彼を探す依頼を押し付けたのだ。彼にまつわる話をし、自分が探した経過を話した。知る限りの彼の話を全てしたけれど、きっと目の前で知らないふりをしている男の方がずっと彼については知っているのだろうと思うと悲しくて悔しくて堪らなかった。それでもそれを押し殺して、彼との大切な思い出の欠片を託すようにしてすべて語ったのだ。語った思い出の中の彼が、何度も「忘れてくれな」とくしゃっと笑っていたことが多かったことに、また勝手に傷ついたけれど。
 結局、最後までこの男は私のそんな悲痛な助けを求める声を無視し続けた。多分限界だったんだろう、きっかけは些細なことだった、どういう訳かコナン君がこの男の事を「ゼロの兄ちゃん」と呼んだ瞬間にプツンと何かが切れたのだ。笑って答えている「ゼロ」を見て、もうこの男の中であの人の事が溶けて消えてしまっているのだと、そう思った。こんなに悲しくて寂しくて、もう一度あの笑顔で声で私の名前を呼んでほしいと切に願っているのは私だけなのだと絶望した。きっとどこかで私は安室透を仲間のように感じていたのだろう。隠しているだけでこの人だって寂しい筈だ、悲しい筈だ、忘れなくない筈だと。一切の表情を殺して依頼の取り消しを言い捨てた私を見て、安室透が初めて焦ったような顔を見せた気がしたけれどそんなことももうどうでもよくなっていた。
 私の中で一番きれいに笑ったあの人の顔は、「ゼロ」の話をしていた。それが堪らなく悲しいことに思えてきて、自分の中がどろっとした黒い何かで埋まっていくような怠さを感じ、あんな男にそれでもどこかで頼っていた自分の弱さに死にそうなほどに憎悪した。
 弱っていたのだ、元々。
 あの人が思い悩んだようにして探すななんて話をする前にしそびれた私の話は、もう私の命がそこまで長く持たないのだというものだった。


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投稿日:2018/0527
  更新日:2018/0527