デカン

これは何の悪夢だ。目の前のテーブルできゃっきゃとはしゃいでいる女性陣の声を聞きながらカウンターに戻って器具を探すような素振りでその場でしゃがみ込んで頭を抱えた。それでも耳には嫌でも情報が入ってきてこんな時までしっかりとそれらを整理しようとしている脳にうんざりしそうになる。それもこれも、先ほど初めましてと挨拶をした彼女、橘内いぶきが原因である。数年前、一方的に別れを告げて彼女の前から消え去った。所謂元カノというのが彼女だ。組織に潜入すると決まった時にこのままじゃ巻き込みかねないと彼女を思ってそうしたし、そこに後悔はなかった。いや、それは少し語弊があるか。ずっと気にはなっていたんだから。それなりにお互いが本気だったし自分から将来を匂わせるような事も何度か言った。それに彼女も嬉しそうに幸せそうにしていたから当時は間違いなく自分たちは好きあっていた。彼女の事だから急に消えた自分を思って傷つくだろうしもしかしたら恨まれるかもななんてことも思っていたしそれはしょうがないものだと割り切っていた。だが、だがこれは想定外だった。

裏にいた時から彼女の声が聞こえてきていたのでぎょっとしていたし、どうやって誤魔化そうと考えていたのに続いて聞こえてきた園子さんの「昴さんのこと好きなの?!」という声にらしくもなく棚に思いっきりぶつかって食器を割るところだった。いや、待て待て落ち着けと言い聞かせ梓さんを時間よりも早く上がらせて、他に客がいないことをいいことに彼女たちの会話に耳を傾ける。二週間監禁されていたという話からまず突っ込みたいがすべての感情をポーカーフェイスの下にしまい込んで涼しい顔をして洗い物を片づけていく。聞いて入れば沖矢昴がそこにヒーローよろしく助けに入ったと言ったところか。まあそんな状況下にあって優しくされればそれはそういう感情を抱いたっておかしくはないのかもしれない、吊り橋効果だと思うが。
まだこちらを一度も見ないいぶきに少しイライラしつつ、気が付かれないのなら白を切れていいじゃないかと自分に言い聞かせる。食器を仕舞い終えた時に話の流れから注文が入るだろうことが分かって一度意図して深く息を吐く。案の定暫くしないうちに声をかけられ、少し緊張しつつもテーブルに近寄る。
暫く見ないうちにまた綺麗になった、少し痩せたのか元から細かったくせに線がさらに細くなっているのは気になったが数年でこうも変わるものかと少し呆気にもとられた。梓さんにがたがたと揺さぶられる彼女にこんなに仲が良かったのに今までエンカウントが無かったことや情報の洗い直しが必要だろうなと冷静な部分で考えながらも、沖矢のいるあの家に呼ばれただと、とそっちに考えが支配されそうだった。あんな胡散臭い男の家にほいほい行くのかお前は。喰われるぞ頭から。ついジトッとした視線を送ってしまえばどうやら都合よく勘違いしてくれたらしく「ほら注文」とメニューを持っていた蘭さんを促していた。いや、しかしここまで近づいて気が付かないものなのかと若干不審に思い自分から声をかける。


「お三方のお知合いですか?」


「あれ、安室さんっていぶきさんと初めてだったっけ?」


「ええ」


満面の笑みでこっちにしっかりと視線を向けてくるいぶきを迎え撃つ。普段以上に安室透を意識してつらつらと自己紹介をすれば気の抜けたはあ、という返答。ここで流石に嫌な予感がして持っていた伝票を握り潰しかけたが、なんとか耐えて蘭さんから補足の様に「お父さんのお弟子さんなんです」という情報に初めて興味深そうにこちらに視線が向けられてふつふつと嫌な予感が募っていく。まさか、いやそんな。
しかしそんな俺の予感が正解だと言わんばかりに、余所行きの綺麗な笑顔で「初めまして」と言われればもう言い逃れが出来そうもなかった。どこかできっと、いぶきは待ってくれているだろうと思っていた。待っていてくれとも言っていないしそもそもなんの情報も与えずに一方的に別れたのだから待っている方がおかしいというのに、それをどうやら心の奥底では期待していたらしい。恨まれているだろうなんてどの口が言っているんだ、彼女が人を恨むような質ではないと知っていたくせに。恨むほど自分の事を考えてくれているだなんて思っていたんだから笑うしかない。だがこれは予想外だろう。
お前、おい、初めましてじゃないだろう。何忘れてるんだ嘘だろ。



 - return - 

投稿日:2017/1005
  更新日:2017/1005