ジレンマ
どういう状況だと、手にぶら下げたビニール袋を落としかけて茫然と立ち尽くしてしまっていたことに気が付いた。ハッとして慌てて、しかし静かに医務室のスライドドアを後ろ手に閉め、何度か意図して瞬きを行っても目の前の光景に変化が起きなくてドッと疲れを覚える。確かに二人そろって土色に近い酷い顔色をしていた。目の下の隈も大層ご立派で、そりゃもう寝不足ですと一目でわかるどす黒さをしていた。しかしだからといってこれはどうなんだ、とおそるおそる近寄ってそれでも穏やかな寝息しか聞こえない室内に遅れて困惑がやってくる。いや、ええ…奥村先生それは……。
櫛谷の顔でも見ていたんだろうか、ベッドに腰掛けた先生はどういう訳か櫛谷の顔に覆いかぶさる様にして上半身を倒し眠っていた。櫛谷の顔になんの恨みがあるのか、祓魔師の服を着ているためおそらく装飾がごちゃごちゃとしている部分を押し付けられているのであろう櫛谷の顔。いや起きろ。流石に起きろと思うが、奥村先生も奥村先生だ。せめてこいつの腹に顔を乗せるとか、あるだろう。ドラマとかでよくみるやつ、よく知らんけど。知らないが間違っても目の前の光景に色っぽさやトキメキは感じないし。入室時は二人の距離の近さに慌てて扉を閉めてしまったがこれは誰に見られたとしても何の問題もなさそうな光景だ。志摩あたりが見たら爆笑した挙句に写メをバシャバシャ撮りそうだ。
どうしたもんか、と一先ず食事の入ったビニール袋をベッドサイドのチェストの上に置き、改めて目下の状況を一瞥する。…おもろいなぁこの人ら。なんでこうなるんや。どちらも大概眠り難そうであるし、息苦しそうだ。なんだかんだ言いつつ櫛谷は怪我人だしなと、起こさない様に注意しながら奥村先生の肩をそっと引く。
「おっも」
タッパあるからなこの人、これに押しつぶされて起きないとか櫛谷ヤバイな死んどらんよな、となんとか先生の身体をずらし、櫛谷の腹辺りに移動させ。
「……起きとったんかい」
「…おはよう」
「ブハッ」
ぱち、と目が合ったと認識した時には頬やらデコに祓魔師のコートのボタンの痕であろうくぼみがしっかりとついた櫛谷の恨みがましい視線と目が合い耐えきれずに噴き出してしまった。櫛谷の力で上の巨体を動かすことが全くできずに諦めて静かにしてたのだろう。変なところで懐がデカイというか、潔いというか。そのせいで色々と振りまわされてもいるのだが、こういう面を見てしまうとまあ美点なのだろうなとも思ってしまうものだから質が悪い。
「ねぇおでこが痛い…穴開いてない…?」
「綺麗に凹んどるで」
「どういう状況これ」
「部屋でぶっ倒れて医務室に運ばれたんや」
ええ…と困惑が隠しきれない声色でキョロキョロと顔だけ動かして時計や窓の外を見ている櫛谷を注意深く観察しても特段昨日までのこいつと違いは見つけられない。寝起きという事もあって多少ぼんやりはしているだろうが、ピリピリとした空気は多少緩和…しているだろうか。しきりに一人になり違った原因も悪魔の仕業だった可能性があると聞いた時に、少しだけホッとしてしまった身としてはその辺りをハッキリとさせたいという気持ちがあるのだ。その辺りはきっと、というか十中八九寝る間も惜しんで櫛谷のことについて調べ上げていた先生の方が気にしていそうだが。思わず溢れていた安堵のため息に気がついた櫛谷が、「ごめん」と決まり悪そうに呟いた。
「何がや」
「……態度悪かったかなって」
「自覚があんなら何よりや」
こちらが指摘するまでもなく、真っ直ぐ謝罪をしてくるのは少しずるいなとは思う。こうされて仕舞えばこちらも溜め込んでいた文句を飲む混むことしかできない。本当に申し訳なさそうにしている怪我人を責め立てるほど鬼ではない。前髪におかしな癖がついている櫛谷の眉尻がヘニョリと下がっているのを見てしまってはため息と共に流してやるしかなかった。
「まあ、こっちもちぃと過剰にはなっとったし、すまん」
「なんかよくわかんないけど、いいよ」
念のために買ってきておいた櫛谷の分の飲み物を差し出せば普段通りに笑みを向けられてやっと肩の力が抜けた気がした。ストーカーと騒がれてもおかしくないほどに張り付いており、それにストレスを感じていただろうによくわかっていないなどと宣うのがこいつだよなと笑いが漏れた。そしてそろそろ、狸寝入りをしているだろう男を起こすべくペットボトルを奥村先生のだらんと伸びていた手に差し込むようして渡す。
「いっつも水でしたよね、お茶じゃなくて」
「…………ありがとうございます」
のっそりと起き上がった奥村先生は心底気まずそうな顔をしており、へぇと思わず観察してしまう。同い年のこの先生は長年身を置いていた環境からか同年とは思えないほどに達観している。もちろん櫛谷のことが関わるとその化けの皮が剥がれていたが、こういう表情は初めてな気がする。寝そべっていたせいでずれたのだろうメガネを元へと戻し、ベッドに腰を下ろす体制へとなった奥村先生は櫛谷と俺に背を向けた。もそもそと起き上がろうとする櫛谷がちら、とこちらを見てきたので肩をすくませて「さぁ」とポーズをわざとらしくとれば櫛谷は何を思ったのか起き上がるための手すりに奥村先生のコートを選んだ。ぐい、と引かれて流石の奥村先生も顔を向けてしまったらしく、びん、と伸びるコートを見て慌てて櫛谷へと手を伸ばして櫛谷の手を取った。
「……起きて平気ですか」
「うん」
櫛谷が顔を顰める。おでこに刻まれているエンブレムの凹みがキュ、と小さくなって思わず吹き出しそうになったがどうやら2人はそれどころではないらしい。何やら漂う空気が固い。そしてやっと、そういやこの2人花壇の件で気まずかったんだったかと思い出してあちゃぁと頭を抱えた。そのせいで櫛谷の近くでの見張りを丸投げされたときの胃痛を思い出してしまったが、等の櫛谷の様子を見るにもう引きずっている様子はない。それを奥村先生もわかってはいるのだろうが、それでもまだ罪悪感や気まずさは抜けないのだろうか。それとも、そこまで許容してしまう櫛谷にびびっているのだろうか。なんてつらつらと考えている間に、櫛谷はどういうわけかナヨナヨの拳を奥村先生の腕にぶつけていた。
ペチン、貧弱な音が医務室に響いて霧散する。
「謝んないから、謝らなくていいよ」
「……は?」
「チャラね」
へへ、といたずらっぽく笑った櫛谷に、ギョッと目を向く奥村先生。面識はないはずだが、櫛谷のこういう男らしい面は子猫丸に似ていると思う。懐がでかく、相手が気負わない方法を、言葉を選べる。まとっている空気が寺に入った瞬間の穏やかなものに近い。
「そ、そんな……だって僕は」
「え?まだ殴ってほしいの?私の手が先にボロボロになるけど」
「せやなぁ、奥村くん隠れマッチョやし」
「マジで?」
後押しするようにふざけた言葉を続けてやれば、目をキラキラさせて櫛谷が乗ってくる。櫛谷が寛大すぎるのもどうかとも思うが、奥村先生は逆に気負いすぎなのだ。双子の兄があの性格なのでしょうがないのかもしれないが、別にクラスメイトにくらい、多少高校生らしくあってもいいだろうに。一生物の責任でも負うかのような空気でいられて仕舞えば櫛谷だって息苦しいだろう。首を自分で締めてしまうほど、ではないだろうけれど。がこん、奥村先生の手元からペットボトルが滑って床へと転がる。次の瞬間には櫛谷は掴んでいた腕に引っ張られて、目の前の同級生の腕の中に飛び込んでいた。ぎゅうと音が聞こえそうなほど、櫛谷の背中に回った腕に力が込められているのを見て、俺は驚きを静かに収めていった。
普段だってそうだが、今回は本当にあと一歩手前まで櫛谷に死が迫っていた。そしてそれを目の前で見てしまったのだから、彼がこうなってしまうのもしょうがないのだろう。聞いた自分でもそれなりに慌てたし驚いたし安堵したのだから、やむなく距離を取らざるを得なかった奥村先生からすれば尚更。本当に心配していたのだとその抱擁が語っていた。
「…………体調に異常は?」
「へ?いやあの、この体勢は」
「異常は?」
「流石に恥ずかしいというかなんというか」
「異常は??」
いつだったか、かなり前に似たようなやりとりをしていたことを思い出してしまってついに耐えきれずに笑ってしまった俺は、腕の中で顔を真っ赤にして困っている友人か、それとも自分で行動しておいて耳を真っ赤にしている友人かどちらに味方してやろうかと贅沢な葛藤をした。
いつか、遠くない未来に櫛谷を塾の奴らに紹介するときにできれば自分達のクラスメイト以外の肩書きも乗っけておきたいなとそれだけは確かに思いながら。
20220416
投稿日:2022/0416
更新日:2022/0416