ジレンマ


首をくくる約束をした。
そういって突如その場から去り、しきりに帰宅しようとする。前触れは何もなく、気が触れたようでもなく、ただ”死にたがる”。何らかの方法で首を吊り、安らかな顔で永遠の眠りへと向かう。死体からは仄かに花の香りだけが薄らと残るのみで、逆に言えばそれ以外は世間一般に知られる自殺と区別が付けられない。
その伝承は江戸時代から始まっており、当時は精神を病んでしまったのだろうと特に対処がされずに死者だけが増えていった。悪魔の仕業であると判明した時には、犠牲者の数は二桁となっていたという。
縊鬼(いつき)と名を付けられたその悪魔は精神に干渉し、死に至らしめる悪魔だ。水死者の亡霊としても有名ではあるが、いずれにしても憑かれた人間は自ら死を選ぼうとする。此度櫛谷さんについた悪魔はこれで、元々根が明るい性格が災いして「死にたい」など直接の発言が彼女から出てこなかったせいもあり、随分長いこと縊鬼は櫛谷さんを殺し損ねていたらしい。


「というと、」


「そういうことです」


はぁと大きく溜息を吐き出した勝呂くんは、顔を覆うようにして項垂れる。早朝ランニングに行く前にこちらからの連絡に気が付いたらしく、ランニングウェアを身に纏って医務室にやってきた彼は、朝の爽やかな日差しに不釣り合いな草臥れた形相だ。櫛谷さんがここ最近様子が可笑しい理由が当然の様に悪魔だったこともそうだが、それにしてもこんなにも性質の悪い悪魔に憑かれていることにも慣れてきている自分達が嫌になる。縊鬼は低級とはいえ人を死に誘う悪魔。学園という人の念が集まりやすい場所では確かに巣を作ってもおかしくはないが、それがまさか彼女の部屋に居付くなんて誰が思おうか。厳密にいえば彼女と同室の子が憑りつかれていたのだが、取り殺すまで力がなかったせいで隣のベッドでグースカと眠っていた櫛谷さんにターゲットを変更。しかし僕や勝呂君で馬鹿みたいに魔除けやらお守りやらを渡していたことが功を奏し、眠っている時(制服にしこたま仕込んでいた為)にだけ体を乗っ取られるという状況を作り出してしまったようだ。


「なんでそうなる」


「いやほんとうに…」


これまで全くと言っていいほど役に立って来なかったお守り達が嫌な効き方をしたせいでこんなにも発見が遅れたのだから頭が痛くなるのもしょうがない。高校一年生二人が眉間を抑えて医務室内で佇む様子はそれはそれは滑稽だろうがこちとら真剣である。因みに神木さんには彼女の部屋と軽傷ではあるが魔障を受けた可能性のある同室の子のケアを任せており、先ほどそれも問題なく終わったと連絡がきた所だ。問題は。


「起きませんね」



そう、起きない。首の痣だけが生々しく残ってしまったが他の治療、なんなら栄養失調の気もあったので点滴までして医務室のベッドに転がしている櫛谷さん。勝呂くんも来たので起こそうと体を揺すってみたものの全くと言っていいほど目が覚めない。寝不足と言っていたし、と暫く勝呂君にこうして状況の説明をしていたのだがそれも終わり、もう始業時間も過ぎていた。二人そろって授業をさぼってしまったがその辺りフェレス卿は寛大なので何とかなるだろうと雑に考えてる。
余りにも目覚めないので怪しんで勝呂君が少し乱暴に肩を揺すっていたがそれでも静かな寝息だけをさせて、瞼をピクリとも動かさない櫛谷さんに別の悪魔が…と考えてしまったが流石にそんなことも無く、ただこんこんと眠る。


「あー、飯取ってきますわ。先生なに食べはります?」


「ああ…お願いしていいですか」


よ、と軽い声をあげて立ち上がった勝呂君が最後に櫛谷さんの首元に忌々し気に目を落とし、ほんならと退出してしまった。暫くは閉じられた扉に視線を向けていたのだが、予鈴の音が響き意識が次第に櫛谷さんに吸い寄せられていく。教員の机に軽く腰をかけていた体勢から姿勢を正し、窓側にだけ引かれたカーテンを潜る様にして抜ける。ふら、と自分の視界が左右に揺れているのか、眼鏡の右目部分にカーテンが引っ掛かった。引き留めているようなそれを手で払い、横たわる櫛谷さんを見下ろす。自分よりもずっと頼りなく細く小さな体。肺も小さいのだろう、かけている布団は上下しているようには見えず潰れてしまうのではないだろうかなんて馬鹿な事を思った。
なるべくそっと、音を立てない様にしてベッドに腰を下ろしたがギィと鉄が軋む音が足元から上がった。こちらの体重ですこし沈んだマットレスせいで、枕の上でころりと頭が転がる。晒される首元にはぐるりと浅黒い痕が主張している。完徹をした目に白いシーツは毒で、彼女の背景に映る白が酷く目に沁みる。すぅすぅと呼吸の漏れる唇の隙間から、薄らと歯が覗いていて間抜けだなぁと肩から力が抜けた。すとん、と抜けたそれはベッドに沈んでいったのだろう。途端に重力を感じ始めた身体に苦笑が零れ、重く感じる頭を支えるべく鉄フレームのヘッドボードに肘をつく。自然と櫛谷さんの頭の真上に顔が来て、真下に見える瞼の下に、色濃い隈を認めて思わず手が伸びていた。
思えば、こうして面と向き合ったのはいつ振りだろうか。以前彼女が世話をしていた花壇の花を根こそぎ取っ払ってしまった現場に居合わせた以来、か。とあの時の気まずさを思い出し喉の奥に苦い何かを流し込まれたような心地になる。それを胃の奥底へと押し込むように深く息を吸い込めば、不意に柔らかい、甘い匂いが鼻腔を擽った。ああこれが、縊鬼の残り香なのかと働かない頭で思う。文献で見たことはあったが、皮肉にも安眠効果があるラベンダーに近い匂いをさせている。
縊鬼はもともと酷く臆病な悪魔ではあるが、こと約束というものに煩い。憑りつかれていたのが同室の生徒だった辺りからして、恐らくは戸締りの約束をした櫛谷さんの言葉を都合よく首絞めのそれに置き換えたのだろう。だからこそ”しめて”なんて言葉が出てきてのであろうし、自身の手だなんて変梃な方法になってしまったんだと思う。その辺りは櫛谷さん自身に聴取しなければ何とも言えないが。縊鬼自体は神木さんに用意してもらった神酒を部屋に吹きかけただけで祓えてしまい、これだけ長期間悩まされていた自分がどうにも報われないような、そんな理不尽な気持ちにすらなっている。
いつの間にか眼鏡がずれていたのだろう、ピントの合わない視界の先で櫛谷さんが笑顔を浮かべているような気がして。最後にしっかりと認識できたそれは、忌々しくも彼女の首を彩ったその痣だった。


 - return - 

投稿日:2022/0416
  更新日:2022/0416