seven



 群れを成したアビスの魔術師たちが炎の鳥によって一掃されていく様に、どうしようもない既視感を覚えた。いいや、既視感なんてものではない。ただ場所が違うだけでこれとほとんど同じ光景を、つい先日自分は見ていたのだから。
 次々と消えていく敵の姿になんだか力が抜けてしまって、ガイアはその場にへなへなと座り込んだ。どうやら、自分が理解していなかっただけでもう身体にはとっくの昔に限界が来ていたらしい。まあ、よくよく考えてみればそれも当たり前のことなのだけれど。
 ぬかるんだ地面に服が汚れることも今は気にしてなどいられない。赤い炎が夜と雨の中に踊る姿をただぼんやりと見つめ続けることしか、今のガイアにはできなかった。 
 そんなガイアへとアビスが近寄ろうとする度に、大剣を振るっているとは思えないほどの俊敏さでディルックがそのアビスを始末していく。自分は一体何を見せられているのだろうか。そうやって疑問符を浮かべているだけの時間も、やはりそう長くは続かない。

「…………なんで、ここが分かったんだ?」

 全ての敵を圧倒的な強さで叩きのめしたディルックが、ゆっくりとガイアの方へ近寄ってくる。そんな彼へとガイアが一番に飛ばした言葉はそれ。答えは言葉ではなく、ひとつのもので示された。
 目の前に差し出された彼の手のひらの上には、青い石が雨水を弾いて煌めいている。それは他でもないガイアが、あの日自分の居場所を騎士団の皆へ知らせるために落としていった相共鳴石の片割れだった。
 そういえば、と服のポケットへ手を伸ばして中を漁る。目当てのものは直ぐに見つかり、摘まみ出したそれを手のひらにころりと転がした。

 その瞬間、ディルックとガイアの手の中で、2つの石が同時に眩しいほどの光を放ち始めた。

 ディルックの手の中にある青と、ガイアの手の中にある赤は、ずっとふたつが共にあることを望み続ける双子石。
 その姿があんまりにも強く網膜を焼くものだから、ガイアは思わず手のひらを握りしめて赤い光を隠してしまう。

「……どうして、」

 言いたいことも聞きたいことも山ほどあった。山ほどありすぎて、言葉がつっかえてしまうぐらいには。情けなく視線を地面に落としてしまうぐらいには。
 あれほど強まっていたはずの雨足はいつの間にか随分とその勢いを弱めていて、今にも止んでしまいそうなほどのものとなっていた。それでもなお、濡れそぼった髪から頬を伝う水滴は相変わらず冷たくて、心臓が凍り付いていくような感覚に襲われる。


「君を迎えに来た」


 けれどそれも、彼の紡いだたったひと言によってあっという間に溶かされてしまうのだから、本当に、……本当に、嫌になる。

「…………は、はは、ははは、……馬鹿なのか? お前は」
「それは君にだけは言われたくない」

 込み上げてきた笑みを堪えることもしないまま、ガイアはディルックを酷く端的かつ率直に罵った。そうすれば即座に反論の言葉が返されて、あまりにも今までと変わらないそのやりとりに、どうしてか喉がきゅうと縮んでいく。

「……誰も助けてくれなんて頼んでないだろ」
「僕だって、君にその感情を終わらせてくれなんて頼んでない」

 言葉が詰まった。
 視線を恐る恐る持ち上げる。空を雲が覆った夜は暗くて相手の姿もろくに視えはしないというのに、それでも、彼の姿を視界に映さなければと意識が走ったのだ。
 瞳が彼の姿を探す。夜闇の中にその輪郭を見つける。

 刹那、空を覆っていた雲が晴れ、月がその姿を現した。

 吹き抜けていった風が、優しく2人の髪先をくすぐっていく。月明かりが照らし出したディルックの姿に、ガイアはくしゃりとその表情を歪めた。

「──なあ、どうして、」

 あんまりにも穏やかで優しかったのだ。ガイアを見つめるディルックの表情が、瞳が、感情が。今にも泣き叫んでしまいたくなるほどに。

「……違うだろ。お前は。お前だけは俺を許しちゃいけない。俺の存在を許容しちゃいけないんだ。お前はあの時、ちゃんと俺を切り捨てるべきだった! お前はあの時、ちゃんと俺を殺してしまうべきだった……!!」

 そして俺は、あの時ちゃんと義父さんを、モンドを、お前を、手放し切り捨ててしまうべきだった。それがきっと正解だった。中途半端な悪役ではなく、正しく立派な悪役となってお前という正義に裁かれるべきだった。

 それなのに、どうしてお前は、


「ガイア」


 ディルックの声がガイアの名前を呼んだ。酷く静かなその響きが空気を通って、肌を抜け、血液を伝ってガイアの心臓へとさざめきを落とす。きっとそれがあまりにも柔くて生温いものだったからだろう。肺のあたりが締め付けられるような苦しさに襲われて、呼吸もままならなくなってしまったのは。

「ガイア、僕は、」
「……厭だ、聞きたくない」
「聞け、ガイア」

 まるで幼い子どもに言い聞かせでもするかのような声色だった。立派な大人としてのプライドが傷ついていくけれど、それでも、どうしても聞きたくなかった。彼の紡ぐ言葉を。
 それを聞いてしまえば、これまでの全てが壊れてしまいそうで。こわかった。
 耳を塞ごうとした手はディルックの手に捕らわれてしまってその役目を果たせない。いやだいやだと頭を振っても、ディルックがガイアを慮ってくれることは終ぞなかった。


「──ガイア。僕は君のいない世界なんて望んでいない」


 その瞬間、ぱりん、と頭の奥に何かが砕けたような音が響いた。
 そんなことあり得ない、嘘だ。そう叫び続けるガイアの思考を踏みつぶすように、ディルックはさらに言葉を続けていく。

「僕は確かにあの時君を拒絶した。そして、今も君のことを完全に許せたわけじゃない。……でも、それでも。だからといって君のいない世界を決して望んだりはしていない。僕は、君に生きていて欲しいんだ」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。君が信じるまで何度だって言ってやるさ。僕が君に求めることはたったひとつしかない。──……生きてくれ、ガイア」
「……っ」

「君だけは、僕を置いていかないでくれ」

 ディルックの両手が、ガイアの両手を握りしめる。そうして重ねた手に自らの額を寄せるその姿は、まるでガイアに縋り付き懇願しているかのようで。

「……やめろよ。やめてくれ、ディルック」

 彼がそうしてまで生を願う価値など、自分にはない。その認識がガイアの中で変わることはきっと永遠に無いのだろう。

「だって俺は、きっと迷っちまう。お前を選べないかもしれない。お前を選ばないかもしれない。……そんな俺を、どうして、」
「いつか君が迷う日が来たら、僕が君を導いてみせる。僕以外を君が選ぼうとしたなら、君を殴ってでも連れ戻してやる。──これからは、僕のいる場所が君の帰る場所だ。どうかそれを忘れないでくれ」

 帰る場所。ディルックのいる場所が、ガイアの帰る場所。
 最高の殺し文句だと思った。たったそのひと言だけで、これまでの人生にもちゃんと生きてきた意味と価値があったのだなと、そう思えるほどに。
 ひとつ呼吸を落としたディルックが、少しの逡巡を引きつれながら言葉を紡ぐ。言葉を間違えないようにと気を使ってくれているのだろう。そんなところで妙な気遣いと優しさを見せる彼が、ガイアはやっぱり、どうしたって愛おしくてたまらなかった。

「……君が僕に向けてくれている感情を知った時、確かに僕は戸惑った。僕は君を恋愛対象として見たことなんて一度もなかったから」
「……それは、そうだろうな」
「でも僕は、……君のことを知りたいと強く願った。君に何かがあったと知った時、酷く胸が騒いだ。君の弱さを知り、そして守るのは自分がいいと、そう思った。君がいない世界を怖いと思った。──僕の傍には君の姿があって欲しいと、そう思った」
「……」


「この想いを『恋』と呼ぶのなら、きっと僕も君と同じ気持ちなのだと思う」


 ──なんだそれ。なんだよ、それ。

「……ふっ、はは、あははははっ!!」

 何とも曖昧で中途半端なディルックのその言葉に、何だかもう何もかもがおかしくなってきて。ガイアはその心地のまま声を上げて笑い転げてしまう。
 そんなガイアにディルックが怪訝そうな視線を送ってくることさえ、今は笑いの種へと様変わりして。ガイアがひとしきり笑って落ち着くまでに、雲を運ぶ風が少なくとも五度は駆け抜けていった。

「はー、はは、……なんだかなぁ……お前と話しているとあれこれ真剣に深刻に考え続けていた自分が馬鹿みたいに思えてくるぜ」
「君の思考回路がネガティブすぎるだけだろう。そんなくだらないことを考える暇があったら、騎士団の人材育成にでも力を入れてくれ」
「お前なぁ、人がもう死ぬしかないと思い詰めるまで向き合ってきたことを『くだらない』呼ばわりは流石に失礼じゃないか?」
「それを言えば、君だって僕が大切に思っていた『君』を随分と粗末に扱ってくれたじゃないか。昨日傷が開いたばかりだというのに、またこんな無茶をして……」

 手袋を外したディルックの指先がガイアの頬を優しく撫ぜていく。その感覚にぞくりと背筋を震わせ固まったガイアは、自分へと注がれる、ディルックからのあまりにも優しく慈愛に満ちた視線に目を白黒とさせた。

「……お、おい、ちょっと距離が近すぎやしないか?」
「そんなことはないだろう。ほら、ひとまず早く城へ戻るぞ。これ以上大事なお前に怪我が増えては叶わない」
「いやおい、おいやめろ! そんなむずがゆくなる台詞を連呼するな!! 軽々と抱き上げるな!! 何なんだお前は……!?」

 背中と膝裏に回されたディルックの腕が、ひょいと軽い動作でガイアの身体を抱き上げる。ガイアの身体に障らないようにという配慮からだろう、随分と優しいその手つきに心臓のあたりがどうしようもなくときめいた。
 けれどももちろん、それを素直に表に出すことなど出来はせず、ガイアは何とも可愛げのない言葉を吐き散らかしながらディルックに抵抗の意を示す。とはいえ身体はほとんど意志通りには動いてくれないという情けない有様なので、物理的な抵抗は酷くささやかなものに終わってしまうのだけれど。
 そんなガイアの様子にひとつ深いため息を吐いたディルックは、どこか眠たげな雰囲気も覗かせる赤い瞳をすっと細めて腕の中にいるガイアを見下ろした。
 その視線に宿ったどこか剣呑な温度に、ガイアはぴゃっと身体を強張らせてしまう。


「君にはこうしてちゃんと言葉や態度にして嫌と言うほど伝えてやらなければいけないと、僕も今回のことで重々学んだのでね。──精々覚悟しておくことだ」


 我が義兄様──いや、一体今は彼をどう呼ぶのが一番の正解なのだろうか。それは分からないけれどもとりあえず、ディルック・ラグヴィンドという男を怒らせるとまずい。非常にまずい。そのことだけは確かに正しく理解出来た。
 これ以上彼の機嫌を損ねてしまうのは得策ではないだろうと、ガイアは大人しく彼の腕に収まっておくことにする。彼の温もりが相変わらず心地よくて少し頬を寄せてみれば、どうしてか彼の表情が和らいだような気がしたのは……うん、今は見なかったことにしよう。それを考えるということは、今のガイアには少々負担が大きすぎるのだ。
 ディルックの歩みが生む振動が心地よくて、また意識がゆっくりと夢の中へ導かれていく。この幸せの中に死んでしまいたいと未だに願ってしまう自分の欠片も、きっとこの温もりの中に溶かされて、いつしか跡形もなく消えてしまうのだろう。


「──朝が来たよ、ガイア」


 その声にうっすらと瞼を開けば、確かに東の空が少しずつ明るくなり始めていて。
 朝が来ればやがて夕が暮れ、夕が終わればまた朝が始まる。世界はそうして今日も明日も明後日も、その先だって変わらず回り続けていくのだろう。

 そんなことをまどろみの中に理解して、ガイアは小さく微笑んだ。



 その世界の中に生きていたいと願う自分を咎める声は、もう聞こえなかった。




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最果ての惑星