プロローグ







「──もしかして、だけど」





 ──もう、朝の5時が来てしまったのだろうか。

 咄嗟にそんな錯覚を覚えてしまったのは、意識が急速に現実へと引き戻されて行くその感覚が、あまりにも目覚めの時のそれと似ていたから。空に滲んだ燃えるような茜色が、朝焼けのそれと見紛うほどに酷く優しいものだったから。
 けれどもそれは結局ただの錯覚に過ぎず、実際今は朝の5時ではないし、今いるこの場所も自らのベッドルームではない。
 壊れた夢の世界など存在せず、目の前にあるのは数秒前、数分前、数時間前から確かに続いている現実の世界だけ。

 ただその中に、自分だけが宙ぶらりんのまま取り残されてしまっていただけ。

 そんなどうしようもない感情を突然この心臓に突き刺したのは、他でもない自分の真横から放たれた冒頭の言葉だった。
 困惑と躊躇を隠すこともせず──いや、出来ず、と言った方が正しいだろうか──語尾を微かに震わせた声色。少し離れた場所でさざめく賑わいの中にひそりと忍ぶようなその響きは、それでもなお大きな流氷が砕ける音のように鋭く、無視することなど出来はしない存在感を放ちながらそこに佇んでいた。
 ひとつ瞬きを落とし、そのまま視線を声の主へと向ける。鮮やかな赤の代わりに視界を彩ったのは、とろけた蜂蜜のような優しい色彩。それを孕んだ丸い瞳はゆらゆらと微かに揺れながら、それでもひたすら真っ直ぐにこちらを見据えていた。

 その双眸と視線が交わった瞬間、じくり、と心臓がしみるような痛みに苛まれる。

 有り体に言えば『嫌な予感』とも呼べるそれに、けれども表情をひとかけらたりとも変えることはなく、ただ笑みを浮かべて答えた。ひとりの旅人が紡ごうとする言葉の続きを促すために、「どうした?」といつものごとく静穏を装って問いかけた。

 落とされたわずかな沈黙。躊躇うように伏せられた瞳。
 聞きたいけれど、聞いてもいいのだろうか。

 今にもそんな心の声が聞こえてきそうなぐらいに分かりやすいその姿は、普段の表情に乏しい彼女を思うと珍しさすら覚えてしまうほどのもの。けれど今の自分では、それを指摘し揶揄う言葉を編み出すことすらできなかった。

 呼吸音がひとつ。再びこちらを見据えた視線。開かれた唇。
 その終着点に放たれた、たったひとつの言葉。

 それを耳にした瞬間、まるで頭の天辺から氷水を浴びせかけられたかのような、そんな感覚に襲われた。世界の音が、色彩が、全てが一瞬にして遥か彼方へ遠のいていく錯覚。表情や思考回路だけではなく呼吸や鼓動までもが固まってしまった身体と意識の中で、それでもなお、確かにたったひとつだけを理解することは許された。

 ……いいや、許されたのではない。理解しなくてはならなかった。

 なぜなら自分は、『それ』は、

 ──ああ、そうか。もう、終わりの時なのか。

 夕焼けが滲む。今日という日が終わりゆく。
 夕焼けと朝焼けは似ていると、どこかの誰かが言っていた。つい数瞬前、自らもこの夕焼けを朝焼けと見紛った。きっとその誰かも、数瞬前の自分も、まだ世界の何たるかを知らないただのうつけ者だったに違いない。

 ──世界に終わりをもたらす夕焼けが、世界に始まりを導く朝焼けと同じものであっていいはずがないのだから。

 ぱりん、と頭の奥に何かが壊れる音を聞きながら、静かに静かに思考する。
 自分は一体どうすれば、この世界を正すことが出来るのだろうかと。


 自分は一体どうすれば、正しく自らを殺すことが出来るのだろうかと。



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最果ての惑星