one



 ディルック・ラグヴィンドがエンジェルズシェアのバーテンダーとして店に立つ時には、決まって西風騎士団の栄誉騎士であるあの旅人とその相棒の姿がカウンター席にあった。
 少し前の一件から酷くディルックに懐いた様子のパイモンは、自分も旅人も酒が飲めないにも関わらず、ディルックと話がしたいというただそれだけの理由から、嬉々としてその酒場へと足を踏み入れる。常日頃から忙しくモンドを走り回っている彼とゆっくり話せる時間と言えば、やはりその時に限られてしまうためだろう。
 酒ではなくアップルサイダーを片手に食事をつつきながら、時折カウンター内のディルックへと声をかけてくる彼女たちの存在を彼が厭うことはない。旅人やパイモンと言葉を交わしている時のディルックの姿を見れば、ディルックを昔からよく知る人々は揃って「ディルック様もあの旅人たちには随分と気を許していらっしゃるようだ」と嬉しげに言葉を交わすほど、ディルックと旅人たちとの関係は非常に良好なものだった。
 夜も20時をとうに回った頃。今日もエンジェルズシェアには煌々と明かりがともされる。酒好きの多いここモンドでは、天変地異の直前以外で酒場が閑散とすることなどありはしない。今日も今日とて店内に満ち満ちた客たちの賑わいを聞きながら、ディルックはカウンターの中で静かにグラス類の整理をしていた。
 乾いたクロスでガラス仕立てのグラスの表面を撫でる度、きゅ、きゅ、と軽やかな音が周囲に響き渡る。とはいえ、その音が届くのは辛うじてカウンター席までといったところ。そしてそんなカウンター席には、今日も今日とて旅人とパイモンの姿が仲良く並んでいた。
 ディルックを含めた世界の8割以上が気にも留めないだろうこの音を、どうやらこの旅人とパイモンとはいたく気に入っているらしい。ディルックがグラスを拭き始めるとそれまでの会話を途切れさせてまで聞き入ってくるのだから、いくらディルックといえども笑ってしまわずにはいられない。

「君たちは本当にこの音が好きだな」

 くすくすと唇を綻ばせながら、カウンター席でうっとりとした表情を浮かべている彼女たちにふと声をかける。

「ああ、好きだぞ! ううんと、こう、……なんかよく分からないけど好きだ!」
「クラシック音楽みたいな感じだよね」

 そうすれば2人からのそんな言葉が返ってくるものだから、ディルックは思わず首を傾げてしまうことになった。
 まさかグラスを拭く音をクラシック音楽に例えるなんて、本当にこの異邦人とその相棒の思考回路と感性はよく分からない。ふわりと浮かんだ予想外への驚きも、気付けばあっという間に面白さへと塗り替えられていく。その感覚を、やはりどうしたってディルックは嫌いになれなかった。

「それに、確かアイツもこの音が好きだって言ってたよな」

 はたり、と突然ディルックの思考回路が足を止める。そのきっかけを作ったのはパイモンからこぼされたそんなひと言。まさかこの音を好きだと明言する誰かが彼女たちの他にもいただなんて。そんな思いに微かな好奇心を交えながら、ディルックはその『アイツ』とは誰なのかとパイモンの言葉の続きを待とうとする。

 ──しかし、その答えがディルックに与えられることは終ぞなかった。

 来客を知らせるドアベルの音が世界を割った。反射的にそちらへと視線を向けたディルックは、その客が一体誰であるかを理解したと同時に表情をぴしりと凍りつかせることとなる。

「……ん? ああ、お前たちも今日もここに来ていたのか」
「ようガイア! 今日もまた酒を飲みに来たのか?」
「はは。酒場に来て酒を飲まないなんて、そんな馬鹿なことを俺がするわけないだろう? それに、今日は嬉しくもディルックの旦那がバーテンダーのようだしな」

 ゆるり、とおもろにこちらへ視線を向けた彼、ガイアの姿に、ディルックはその眉間に寄せた皺をより一層深くした。笑むように眇められたその左眼に見つめられるとどうしようもなく虫唾が走るのは、何も今に始まったことではない。
 天井から降るシャンデリアの光を受けてちらちらと輝くその輪郭がさらに煩わしさを引き立てて、胸のあたりが得も言われぬ不快感に満たされていくのを感じた。

「注文は簡潔に終わらせてくれないか」
「おっと、旦那は相変わらずつれないなぁ。そんなに眉間にしわを寄せていると、跡が消えなくなっちまうぞ?」

 いつものごとくこちらを挑発するような物言いをするガイアに、ディルックは深いため息をついてしまいそうになる自らを何とか宥め押さえつけた。いっそのことこの男を完全出禁にしてやろうかとも思うけれど、そんなことをしてしまえば、ガイアを慕うこの酒場の常連たちから苦情が出るに違いない。予測できるその面倒も考えれば、今ここでディルックが適当にガイアをあしらってしまう方が絶対的に楽なのだ。

「ご忠告痛み入るよ。それで、注文は?」
「そうだなぁ……今日はまず『蒲公英酒』を頼むぜ」

 そう言って存外あっさりと身を引いたガイアに、ディルックはほんのわずかな予想外を胸に抱く。経験則からすると、ここからまた一度や二度ほど無駄な言葉の応酬が行われてもおかしくはなかったというのに。
 まあ、相手もあのガイアとはいえ人間だ。そういう気分の日もあるのだろうとあっさりその疑問を流したディルックは、手早く酒の準備に取り掛かった。
 先ほど丁寧に拭いたグラスを取り出し、そこへ蒲公英酒を注ぎ込んでいく。とぷとぷとやや重たい水音を聞きながら、規定量の酒でグラスが満ちるまでを待つほんの数秒間。その中でふと、ディルックは知らぬうちに自らの胸を食んでいた不思議な感覚の存在に気がついた。
 けれど、それが一体どういったものであるのかを理解するよりも早く手の中のグラスは完成してしまう。バーテンダーとしてそのまま思考に耽溺できる訳もなく、ディルックは中途半端な思考回路をぶら下げながらカウンターへと向き直った。
 旅人の隣に空いたカウンター席に座ることはせず、眼帯の客人は立ったままの姿で注文した酒が出される時を待っている。さっさと座ればいいものを、と八つ当たりにも似た苛立ちで心臓をじりじりと焦がしながら、ディルックは感情の籠もらない静かな声で「ガイアさん」と彼を呼んだ。
 そうすれば旅人たちへと向けられていた瞳がぱっとディルックの姿を映し、そうして嬉しげにゆるりと柔らかく弧を描く、のだけれど。

「……『蒲公英酒』、だ」

 言葉がわずかにつっかえてしまったのは、いつもと変わらないはずの彼のその姿に、表情に、瞳に、何故かどうしようもない違和感を覚えてしまったから。

「お、今日の蒲公英酒も美味そうだなぁ。それじゃあ旅人、パイモン、よい夜を」

 奥に行っちまうのか? そんなパイモンの言葉にひらりと手を振って、ガイアは店の奥にあるテーブル席へと足を進めていく。旅人たちと共にディルックまで思わずその背中を見つめてしまったのは、彼のその行動が予想外で珍しいものだったから。
 ディルックがエンジェルズシェアでバーテンダーをしている時に決まってカウンター席にある姿は、何も旅人とパイモンのふたり分だけではない。旅人たちのように毎回ではなくとも、そんな夜にはかなりの確率でガイアの姿もそこに並ぶのだ。
 旅人たちも、ディルックも、自分たちがそうしてカウンターを囲っている時にガイアが来店したならば、その姿はカウンター席に収まるのだろうと信じて疑っていなかった。だからこそ、今夜ガイアが見せたその選択に驚いてしまったという訳だ。
 そんなディルックたちの様子を知ってか知らずか、「ああそうだ」、と何かを思い出したかのような声を上げたガイアが不意にこちらを振り返った。
 ふわりとした藍色の毛先に光の粒が弾ける。どこか猫科の動物を連想させる丸いつり目が、ディルックを真っ直ぐに見つめていた。その瞳の姿に覚えたどうしようもない違和感の理由も、ディルックには終ぞ分かりはしないまま。

「ディルックの旦那に俺からのプレゼントだ。受け取ってくれよ」

 ガイアがその手に握った何かをおもむろにディルックへと投げ渡す。空中になだらかな弧を描いて自らの方へと向かってきたそれを、ディルックはほとんど反射的に受け止めていた。
 随分と軽いその感覚に、訝しさを覚えながらも手の中を覗き込む。するとそこに佇んでいたのは、ディルックの手のひらに丁度良く収まるサイズの小さな箱の姿。滑らかな黒地に赤い箔飾りの施されたそれは随分と品が良く、それなりに値の張る何某かであろうということはひと目で察せられた。

「……なんだ、これは」
「ハハッ、まあとりあえず開けてみろよ」

 くつくつと笑みを絶やさないガイアの姿に疑心はさらに募っていくばかりではあるけれど、箱を開けてみないことには話が進まないだろうということも用意に理解が出来る。いっそそのまま箱を投げ返してやろうかとも考えたが、そうすれば望んでもいない彼とのキャッチボール──ここでは正確にはキャッチボックスだろうか──が始まってしまうに違いない。
 きゅう、と眉間に寄せた皺を深くしたディルックは、ため息を奥歯に噛み殺しながら箱を開けようとそれに手を伸ばす。蓋身式になったその箱はあっさりと開き、その中に納められていた『それ』の姿をディルックの目前に煌めかせた。

「部屋の掃除をしていたらそれが出てきてなぁ。多分前に誰かから貰ったものだと思うんだが、生憎それは俺の趣味じゃない。その装飾ならきっとディルックの旦那によく似合うだろうし、今使っている髪紐が駄目になった時にでも使ってくれ」

 鮮やかな赤に黒が編み込まれ、両端には真紅の丸い石と、それよりも少し小さな柑子色の丸い石が並んで飾り付けられたその姿は、確かにガイアが身に着けるとなると少しの違和感を覚えてしまうだろうもの。そして同時に、彼の言う通りディルックの雰囲気によく似合ったデザインの髪紐だった。
 人から貰ったものをそう易々と他人に渡すなんて、と思いはするが、こんなにも質のいいものをお蔵入りにしてしまうのは流石に勿体ないというガイアの意見にも一理ある。モンドいちの大富豪であるディルックも、そうした感覚は人並みにしっかりと身に着けていた。

「何か曰くつきのものだったりしないだろうな」
「おいおい、流石に俺も人様にそんなものを渡したりはしないぞ? 安心しろよ、それは未使用新品高品質なただの髪紐だからな」

 ディルックからの猜疑の視線に眉を下げるガイアではあるが、何をどう考えてもそれは彼の日頃の行いのせいだろう。その証拠とばかりに、パイモンからも「ガイアが言ってもあんまり信用できないよな」という言葉が飛ばされた。

「親友の俺に対して酷い言いようだなぁ。まったく、俺は悲しいぜ」

 当の本人もそれを対して気にしてはいないようだ。口ではそう言っていながら、その表情にはいつも通りの軽薄な笑みが浮かべられているのだから、もう手のつけようもありはしない。結局はそういう人間なのだ、このガイア・アルベリヒという男は。
 どうにも苦々しい感覚を拭いきれぬまま、ディルックは髪紐の納められた箱を手にガイアへと視線を送る。彼の瞳と目が合った瞬間、やはりディルックは感じてしまった。考えてしまった。『何かがおかしい』と、一体何がおかしいのかも分からないまま。

「ま、要らないならそっちで適当に処分してくれよ。ディルックの旦那」

 僕を不用品回収者扱いするのは止めてくれないか。そんな嫌味混じりの言葉もどうしてか喉元につっかえて声にはならない。
 再び踵を返した彼は、今度こそそのまま店の奥へと姿を消した。あの厄介者が姿を消してくれたのだから、これでやっと清々した気持ちになれる──はず、だというのに。じりじりと胸を焼いた言葉にし難い感情に、ディルックは表情を和らげることすらできはしない。
 違和感、と呼んできっと差し支えないだろうそれ。一体あの男の何が違和感の種となっているのだろうか。ぐるぐると思考を巡らせるけれど、一向にその答えに行き当たる様子はない。

「……旅人、」

 足踏みばかりが続く頭をゆるく振って、ディルックはカウンター席に座った少女へと言葉を投げかけた。温かみのある象牙色に染まった髪が揺れ、少女の瞳にディルックの輪郭が映し取られる。その瞳に微かな揺れが見えたのは、ただの気のせいだろうか、それとも。
 彼女に聞いたとて意味などありはしないだろうことを、ディルックはもう既に自分の中で確かに理解していた。けれど、それ以外の方法を見つけることも出来はしなかったのだ。彼の聡明な頭を以てしても、あの男のことがどうしても分からなかった。

「──何か、おかしいと思わないか」

 ぱちりと瞬きを落とした瞳がそっと伏せられる。思案しているのだろうと考えるべきその姿にわずかな躊躇の色を垣間見てしまったのは、一体何故なのだろう。
 沈黙が落ちる。酒場の賑わいが静かな喧騒を鼓膜に叩きつけてくる。グラスを拭くあの音は、もう随分と前にひとかけらの響きも残さず消え去ってしまっていた。
 ゆらり。おもむろに持ち上げられた旅人の視線が、店の奥にいるのだろうガイアの姿を探してかすかに揺れた。きゅう、と細められたそのやわい蜂蜜色からは、憂い以外の感情を読み取ることが出来ない。彼女が一体何を考えているのかも、一切。


「……そう、だね」


 降り始めた最初の雨粒のような声が、ぽつりと酒場の片隅にこぼさる。
 酒場のどこかから聞こえるあの男の名を呼ぶ誰かの声が、あの男の笑い声が、酷く、酷く耳障りなものに感じられた。

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最果ての惑星