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 ……なあ、旅人。頼みがあるんだ。

 その表情を目にした瞬間、自らの犯した過ちの重さを自覚した。きっとそれは、気付いても触れてはいけない禁忌だった。開けてはならないパンドラの箱だった。
 曖昧で不安定で、それでもぎりぎりの均衡の下にそれはあったのだろう。
 それを崩したのは他でもない自分であると、旅人は彼の言葉に理解した。
 ごめんなさい。その言葉を、彼は受け取ってはくれなかった。いつかはこうなることが決まっていたから、ただそれがほんの少し早まっただけだ。そう言って、ただ、ただ、酷く穏やかに微笑むだけだった。あまりにも悲しく笑みを浮かべるだけだった。

「──……硝真草、は、別名『消心草』とも呼ばれる植物です。ええ、心を消す草と書いて『しょうしんそう』。時代とともに本来の用途が廃れ、忘れられ、名前の音だけが残り、今の『硝真草』になったのだと言われています」

 璃月に存在する薬局・不朴盧の薬剤師が、先ほど旅人に与えたものと全く同じ内容を、燃えるような赤い髪を持った男へと繰り返している。旅人はその隣で話をじっと聞きながら、あの人のことを考え続けていた。
 旅人がそれに気づいたのは、本当にただ偶然と直感とが入り混じった末のこと。特別な意図はなく、悪意もなく、それがまさか触れてはならぬものだったとは、ひとかけらも思ってはいなかった。けれど、だからといって自らの罪が消えてなくなることは無いのだと旅人は正しくそれを理解している。

「消心草は、何千年も昔に『恋心を殺すための薬』として使われていた薬草です」

 ガイアがディルックを呼ぶ声に、ガイアがディルックへと向ける言葉に、ガイアがディルックへと注ぐ視線に、ああ、きっと彼は恋をしているのだなと気づいてしまった。その時の思いは、本当にただ微笑ましいばかりのそれ。

「あの頃は今と違って、身分や物理的な距離という障害があまりにも大きすぎましたから。その分叶わぬ恋も多く、その苦しみを和らげるためにとこの消心草が使われ始めたのです」

 同性同士であることも、義兄弟という間柄も関係なく、ただ彼らが幸せになってくれたなら、と、切にそう願った。だって、その恋に罪も悪もありはしないのだから。

「枕元に一束の消心草を置いて眠り、そして翌日の朝、目覚めた直後にその消心草を煎じて飲む。そうすれば、その人は恋心を忘れることが出来ます。……はい、そうです。この薬で出来ることは、ただ恋心を『忘れる』ことだけ」

 恋心があまりにも強すぎる時には、相手を目にした瞬間にもその恋心を思い出してしまう。もう一度、同じ人に叶わぬ恋をしてしまうことになるのです。

「実は消心草は、その煎じ薬を飲むたびに恋心を忘れるという効果を得続けることが出来るようになっているのです。……しかし、その代わりあまりにも大きな副作用を伴ってしまう」

 その副作用については、赤髪の男、ディルックももう既に心当たりがあるようだ。

「……感覚を、失ってしまう?」

 確かめるようにこぼされたその言葉へ、薬剤師の男はたおやかに笑みを浮かべてみせる。

「ええ、その通りです。どの感覚から失っていくのかは人によりますが、常飲を続けると、次第に味覚や嗅覚、聴覚、視覚、触覚、そして痛覚といった感覚を失っていくことになります。ちなみに、常飲をやめれば失った感覚が元に戻ったとする記録も複数見受けられますね」

 それにほんの少しの安堵を覚えはするけれど、だからと言ってその薬の使用を見過ごすことは決して出来ない。何故ならもう既にガイアは感覚を失うほどにその薬を使用しており、かつ、その常飲を止めるようすがないからだ。
 ディルックの視線が床へと落とされる。きっと、彼ももう気づいてしまっているのだろう。ガイアが殺そうとしている恋心の宛先が、一体誰であるのかを。

「……余談ではありますが、枕元で一晩を明かした消心草が、翌朝には恋をした相手を連想させる色に染まっていたという話も聞いたことがあります。なんでも、相手への想いが強ければ強いほど、深ければ深いほど、その色は美しく鮮やかになるのだとか」

 旅人は、ただその姿を見つめ続けた。彼の選択がどうであろうと、旅人が彼を非難することはない。けれど、どうか。どうかその結末が彼らにとってのハッピーエンドでありますようにと、そう願い続けた。


  ***


「──ディルックの旦那!! 大変だ、ガイアが!!」

 アカツキワイナリーに、パイモンのその小さな身体から発せられる大きな声が響き渡った。開け放たれた正面玄関の扉の傍には、突然の来訪者に驚くメイドたちの姿が複数。けれど、それを気に留める余裕も今の旅人たちにはない。
 旅人たちの探し人は、正面玄関を入ってすぐのホールに立っていた。
 何かをその手に握りしめた彼、ディルックは、ゆっくりとした動作でそのかんばせを旅人たちの方へと向ける。その視線を、その瞳を目にした瞬間、旅人の背筋をぞわりとした何かが走り抜けていった。

 怒っている。あの貴公子様が、一目で分かるほどに怒っている。

 それをパイモンも敏感に察知したのだろう。一瞬にして口を閉ざし身体をぴしりと石化させた彼に少しの同情を覚えた。


「ああ、知っている」


 酷く静かな声だった。静かすぎて、穏やかすぎて、一周回って恐ろしさを倍増させる声が、彼の唇から紡がれた。ちなみにパイモンは恐怖に全身を震えさせている。

「……今、騎士団の人たちが総出になって探していて──…」
「彼の場所も、僕には分かる」

 願望や推測ではなく、正しく確信として提示された彼の言葉に、旅人とパイモンの表情が同時に驚愕に染まっていく。それを横目に見ながら、ディルックは、握りしめていた自分の手のひらをそっと開いた。
 そこにある小さな石は、昨日彼に返せぬままでいた相共鳴石の片割れ。きっとこの片割れを、今この瞬間彼も持っているはず。その証拠とばかりに、手の中の青い共鳴石は早く片割れの下へ行きたいという叫びをきらきらと輝かせていた。
 彼らを再びこうして離れ離れにさせてしまったのは、昨日のディルックに覚悟足りていなかったせい。
 あの時、ディルックはまだ戸惑ってしまっていたのだ。ガイアがディルックへと向け、そして殺そうとしているその想いの存在に。何故なら、ディルックは今までに一度たりともガイアをそういった感情の対象として考えたことがなかったから。

 けれど、今はもうそんな戸惑いもディルックの中にはない。

 ずっと、『どうなればいいのか』ばかりを考え続けていた。そのせいで足踏みばかりを繰り返した自分が、一歩踏み出すための方法。それは、『どうなってほしくないのか』を考えること。
 その存在を失うかもしれないという事実に直面して初めて、ディルックは気が付いた。今までずっと知らなかった、気付いていなかった、自分自身の本心に。


「ガイアは僕が連れ戻す。絶対に」


 その手に共鳴石を握りしめ、ディルックは強い眼差しで旅人を見据えた。


「──覚悟は、決まった」


 今からでもきっと遅くはない。まだやり直せるはずだ。
 だからどうか、待っていてくれ。ガイア。


  ***


 どうしようもない罪ばかりをこの身に背負いながら生きてきた人生だった。

 長いようで短く、短いようで長かった自らの生涯を振り返って、ガイアはふとそんな感想をこぼした。
 実の父と祖国。育ての父とモンド。そして、義兄であるディルック。自分の中に大きな足跡を残す彼らのことを、世界のことを、ゆっくりと思い返していく。こうしてこれまでの人生を省みることは、何もこれが初めてのことではない。そうして全て全てを考慮した上で、誰が一番悪く罪深い者だったのかという問いかけに対し、即座に『他でもない自分自身だ』という答えを導き出してしまうことだって。

 ガイアはずっと、この世界の中に宙ぶらりんのまま取り残されていた。
 祖国かモンドか。その選択に決断を下すことも出来ないまま、ただただ呼吸だけを続けていた。祖国を捨ててモンドを選ぶことも、モンドを手放して祖国を選ぶことも、ガイアにはできなかった。

 そんな中途半端な足元しか自分にはなかった。

 それなのに、それを正しく理解していたのに、ガイアは、──ディルックに対して、『恋』なんていうあまりにも柔らかくて愚かすぎる感情を抱いてしまっていた。それが、きっとガイアの犯した最大にして最悪の罪だった。

 いつか再び選択を迫られる時、きっと自分は迷いなくディルックを選ぶことが出来ない。それを理解した瞬間、自分へのあまりの嫌悪感に吐き気がした。全てを捨ててただ真っ直ぐにあの人だけを選ぶことが出来ない自分に、あの人へ想いを寄せる権利など有りはしないのだ。
 一目見た瞬間にあの人の姿が脳裏をよぎり、衝動的に購入してしまった美しい紙紐の小箱を手の中に握りしめながら。何度も何度も、何度も何度も、自らへそう言い聞かせた。

 この世界に暁を呼ぶあの人を、この世界に夕焼けをもたらすことしかできない自分が愛していいわけがない。こんな自分が、あの人からの愛を求めていいわけがない。

 だから、ガイアはその恋心を自分の中に隠した。隠して、隠して、ひた隠して、誰にも見つけられないように。彼に見抜かれてしまわぬように。
 けれど、隠すだけでは不十分だったのだということをある日突然理解させられてしまう。あの旅人によって、隠していたはずのガイアの想いはいとも容易く解き明かされてしまった。その瞬間、ようやくガイアは決意した。この恋を早く殺してしまわなければならないと。ようやくガイアは理解した。今こそ、この大罪への罰を受ける時なのだと。

 璃月のツテを辿って手に入れた硝真草、──消心草を枕元に置いて眠った翌日、無色透明であったはずのそのからだが燃えるような赤に染まっている姿を見た時、自分にはもう枯れ果て存在していないのだと思っていた涙がひと粒、ほろりと静かにこぼれ落ちていった。

 そうしてガイアはディルックへの恋心を忘れた。
 けれど、それも長くは続かなかった。

 ディルックが凍えている自分を案じて世話を焼いてくれた。
 ディルックがあの髪紐を使ってくれていた。
 ディルックの屋敷にあの花瓶が飾られていた。
 ディルックがあんな場所にまで自分を助けに来てくれた。

 ディルックの体温があまりにも温かかった。
 ディルックの瞳に自らの姿が映り込んだ。

 ディルックが、──酷く優しい声でガイアの名前を呼んでくれた。

 些細なことも、全て全てが彼への『恋』に繋がって。ガイアはディルックへの恋を忘れる度に、ディルックにまた恋をした。何度も何度も恋に落ち続けた。
 それでも諦められなかった。だってこの恋は生まれてはいけなかったもの、存在を許されることは決してない罪の証。味覚が薄れて酒の味が分からなくなっても、痛覚が消えて戦闘に支障を来し始めても、それでも。ガイアはただひたすらにディルックへの恋心を消し続けた。

 でも、やっぱりだめだった。
 どうしようもなく、自分は彼のことを好きにしかなれなかった。

 そうしてついに、この罪が彼にまで露呈してしまった。これは墓場まで絶対に隠し通してみせるのだと決めていたというのに。本当にどこまでも詰めが甘くて自分で自分が嫌になる。これでは彼からの皮肉に何も言い返せはしないじゃないか。
 いつどこで何をしていても、何を考えていても、気付けば頭の片隅に彼がいる。
 この罪は、この程度の罰で拭えるものではないらしい。

 ──だから、決めた。
 確実にこの想いを消し去ってしまう方法を選ぶことにした。

 つい先日の戦闘で満身創痍の身体は、それでも痛覚が麻痺していることで動かしたとて激痛に悶え苦しむことがない。なるほどこれは便利なものだなと、生物としての大切な感覚をそぎ落としながらガイアはひとり笑った。

 昨日の夕方、恐怖に震えた子供から2通の手紙を預かった。どうもアビスの関係者に脅され、それをガイアとディルックの2人に渡せと言われてしまったらしい。今にも泣き出してしまいそうな子どもを宥め家に帰した直後、ディルックがガイアの前に姿を現した。全てを知ってしまったディルックが、ガイアを見つめていた。
 その瞬間、ガイアはどうしようもない恐怖に襲われた。愚かしいことに、ガイアは怖かったのだ。ディルックから嫌悪されてしまうことが、この想いを拒絶されてしまうことが。ただひたすら、どうしようもなく怖かった。

 だから逃げた。全てから逃げて、逃げて、逃げて。
 手の中に残されたアビスからの手紙の内容を読んで、ああ、これでようやく終わらせることが出来ると、そう思った。

 拠点を崩壊させられた恨み辛みをしたためたそれは、ディルックとガイアへの挑戦状だった。簡潔にまとめると『明日の夕刻、2人だけで明冠峡谷へ来い』と記されたその内容に、きっとそこへ行けばあの日以上の数のアビスたちが待ち構えているのだろうということは容易に想像がついた。それに応えなければ、また更なる厄介事がモンドを襲うのだろうということも。

 そこにたったひとりで赴けば、一体どうなってしまうのかも。

 雨の中を1人歩く。濡れた肌が冷えついていくけれど、それも今は気にならなかった。温めてくれる人がいなくとも、隣に誰もいなくとも、ひとりで歩いていかなければならないのだ。処刑台へと続くこの道を。

 明冠峡谷の小高い丘の上からは、モンド城の姿が見えた。
 優しい風の吹く、自由な国。ガイアは、あの場所がたまらなく好きだった。


 それでも、選べなかった。


 太陽が西へと沈んでいく。雨足は一層強まっていく。
 気味の悪い声が背後から聞こえた。
 親愛なるモンドへと向けていた視線を、ゆっくりとそちらへ向ける。


 ──……さあ、ようやくこの物語に幕を下ろす時が来た。


 剣を抜く。せめて敵と戦い抜いた末での、という痕跡を残しておかなければ、あの優しい人たちはどうして何でと嘆いてしまうだろうから。

 ずっと、考えていたことがある。いざ死を目前とした時に、自分は一体『誰』として死にたいと願うのだろうかと。

 それを今、改めて考えてみる。
 自分は、一体『誰』としてここに立っているのだろうかと。


 アビスの魔術師が笑った。 
 雨粒が頬を伝い落ちていく。
 包帯の下で、開き始めた傷が微かに痛んだ。


 ──……俺は、




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