five



 幸いなことにガイアの怪我はどれも命に関わるほど大きなものではなく、治療を受けて2週間ほど安静にしていればすぐに良くなるだろうとの知らせが入った。
 それにもまた興味の薄そうな答えを返すのだけれど、今度は伝令役の騎士から険しい表情を向けられることはない。むしろどこか微笑ましげな雰囲気を押し付けられてしまうのだから、やはりあの男を丁寧に騎士団まで送り届けるのではなく、モンド城前の橋のあたりにでも投げ捨てておくべきだったと、ディルックはもう遅すぎる後悔を苦虫と一緒に噛みしめた。
 あの日ディルックが迷いなくあのアビスの拠点へと赴くことが出来たのは、元々拠点がその付近にあるだろうという目星をつけていたことに加えて、ガイアの残していった『目印』があったためだ。

 この世界には、相共鳴石、というものがある。大まかな原理は瞳の共鳴石とほとんど同じで、違う部分を挙げるならば、それは共鳴する相手が『自らの片割れとなるもう1つの石』であるという点だ。

 つまり、片方を1人が、もう片方をもう1人が持っていれば、その共鳴石同士が共鳴できる範囲内にさえいれば、石同士の共鳴を辿ってお互いがいる場所に辿り着くことが出来るということ。ガイアの残した目印はそれを利用したものだったのだ。
 一見少しきれいなだけのただの石でしかないそれを、ガイアは地面に半ば埋まった状態で残していった。アビスに悟られないようにするためとはいえ、そこまで巧妙に隠されては騎士団側もなかなか気づくことが出来ず、結果、ディルックが通りすがるまでそこに残されてしまっていたという訳だ。

 その際に拾った共鳴石の片割れを、ディルックは手のひらの中にころりと転がす。
 ディルックの手のひらにすっぽりと収まる、と称するには些か小さすぎるその石は、海を溶かし込んだような深い青色を孕んできらきらと輝いていた。
 そこにふと何かの既視感を覚えた彼は、しばらくそれをじっと見つめてみる。青、青、青。つい最近もそれを垣間見たような気がする。
 そうして思い至ったのは、あの男の持つ瞳の姿。ああ、そうだ、あの瞳に似ているのだ。そこからまた引きずられるように思い出したことは、随分と前に見た、ガイアの瞳によく似たあの宝石の名前。確かそれは、──ブルーガーネット。
 無意識下に長らく蟠り続けていた小さな疑問が解消されたことに、ディルックは少しばかりすっきりとした心地になる。しかし、今最もディルックを悩ませている一番の大きな蟠りはまだ解消される様子がない。
 それも結局はあのたった1人が原因であることを思うとずしりと頭が重たくなっていく。

 今分かっていることを簡単に整理すると、『ガイアはディルックに対して何かを必死に隠そうとしている』、『ガイアは最近、モンドの酒場に顔を出していない』、『ガイアは味覚に何らかの麻痺を患っている(不確定)』、ということだけ。あまりにも情報の糸口が少なすぎるせいで、ガイアが隠そうとしているものの検討さえつきはしない。

 思考を巡らせながら手のひらに相共鳴石の片割れを転がし続ける。そういえば、この石は一体どのタイミングで彼に返せばいいのだろうか。
 はあ、とひとつため息を吐いた途端、あるひとつの考えが頭に浮かんだ。

 ──旅人に聞いてみれば、何かわかるかもしれない。

 きっと今のガイアについてなら、自分よりも彼女の方がよく知っているはず。冷静な頭が弾き出したその考えに、どうしてか心臓のあたりがじくりとしみるような痛みを訴えた。それをただの気のせいだろうと意識の外へ追いやって、思考を切り替えたディルックは机上に置かれた資料の山へと目を通し始める。

「…………硝真草、か……」

 それは、つい先日ディルックがガイアと共に壊滅状態へと追いやったアビスの拠点から見つけ出されたもの。その多くに記された希少植物の名から、どうやらあの場所はこの植物について研究することも目的のひとつとしていたのだろうと推測できる。
 璃月に生息する、特殊な生態を持った希少な植物。その有用性は未だ確立されておらず、可能性ばかりが無限に広がった研究者たちの注目の的。

 ガイアがアビスたちに拉致されたことと、この植物との間には、何か関係があるのだろうか。
 一時期から璃月へと足を運ぶようになったガイアと、璃月に生息する硝真草。そして今回の騒動。

 ……ひとつひとつの点が少しずつ繋がり始めているような、そんな気がした。


  ***


 璃月港に近づくにつれて、潮の香りと活気に溢れた人々の賑わいがどんどんとその濃度を増していく。それを五感で感じ取りながら、ディルックはひとり璃月の地面を踏みしめた。そんな彼がこの場所を訪れた目的はただひとつ、あの『硝真草』についての調査を行うためだ。
 モンドから石門を通り、望舒旅館や帰離原を通過する1本道を進んできたディルックは、そのまま璃月港の入り口となる大門を抜けて大きな橋を渡る。その間に考えることは、一体どこから足を運ぶべきだろうかということ。
 書籍を調べるならば書店や図書館に、植物の流通を調べるならば花屋に、使用方法を調べるならば薬局か研究所に赴くのが一番効率のいい選択だろう。
 露店の並ぶ道を抜け、長い階段を上る。確かここを右手に行けば不朴盧という名の薬局が、そして左手に行けば書店があったはずだ。
 一度そこで足を止め、ぐるりと辺りを見回してみる。千岩軍や人々の行き交う雑踏の中、ふとディルックの視線を惹く誰かの姿が視界に映り込んだ。

「……旅人……?」

 柔らかな象牙色を持つ、どこか異国然とした立ち振る舞いが印象的なひとりの少女。それは確かに、ディルックのよく知るあの旅人の姿だった。その傍らに今はいないあの相棒は、今は別行動でもしているのだろうか。
 どこか元気がなさげに俯けられていた顔がゆっくりと持ち上げられて、ディルックの姿をその瞳に映す。あちらもまさかディルックがこんなところにいるとは思ってもいなかったのだろう、ぱちりと驚きに見開かれた目がそれを雄弁に物語っていた。
 道中に立ち止まった旅人の方へとディルックは足を進める。近づいてくるディルックの姿に少しの身動ぎをした彼女は、けれどディルックから逃げ出そうとはせず、静かにディルックの歩みを待ち続けた。
 その時の彼女の瞳に宿された表情がどこか悲しそうで、切なそうで、そしてほんの少しの申し訳なさを孕んでいたことが、どうしてかディルックの脳裏に深く深く刻み込まれた。

「……こんにちは」
「ああ。こんにちは」

 短い沈黙。

「……君は、ここへ何をしに?」

 またしても沈黙。
 旅人の視線が揺れて、ゆるゆると地面に落ちていく。

「…………不朴盧へ」

 呟くような声がディルックの問いへと答えた。
 だから、ディルックは再び問いかける。


「『硝真草』のことか?」


 弾かれたように視線を持ち上げた旅人の姿に、ああやはりかという思いが頭の中を満たしていった。どうやら彼女もディルックと同様、彼はまた別の方向からガイアのことを調べ続けていたらしい。
 その結果2人が辿り着いた場所が同じだったということは、これがきっと『正解』の道なのだろう。ただ漠然とそう理解した。

「……君は、もう答えを見つけたのか?」
「……うん」
「そうか」

 ならば、きっとディルックも遠からずその答えを見つけ出すことが出来るのだろう。


「──……あなたは、本当に知りたい?」


 微かに震えた声が静かにディルックの鼓膜を叩いた。
 ともすれば雑踏の中にかき消されてしまってもおかしくないほど小さなその声は、けれども空を裂く鷹の羽ばたきのような強さをそこに携えていて。心臓がわななくような心地がしたのは一体何故だろう。

 本当に知りたいのかと、彼女はディルックに問いかけた。
 本当に知りたいのだろうかと、ディルックは自らに問いかけた。

 知りたい、と表現するのは何かが違うような気がする。正しく言い直すならば、『知らなければならない』、なのだろう。そうだ、知らなければならない。何故なら、ディルックは今のガイアのことを何ひとつとして知らないから。これまでずっと、目を背けてきたから。彼という存在のことを、ずっと突き放し続けてきたから。

 向き合わなければいけない。向き合って、知って、理解して、そうして彼を。

 その想い全てを纏めて『知りたい』と表現することができるのならば、ディルックがその問いかけに対してそれ以上答えに悩むことはない。


「ああ、知りたい。全てを」


 力強く頷いたディルックの姿に、旅人の表情がふわりと安堵に綻んでいった。


  ***


 夕暮れ時のモンドの街を歩くことが多いなと、そんなことをふと考えながら、今日も今日とてディルックは、モンドの街から夕暮れも終わり始めた空を仰いだ。
 璃月から戻ったそのままの足でモンド城までとやって来たディルックは、今晩にエンジェルズシェアでのバーテンダー業を控えているわけではない。ただ会いたい人がいたからここに足を運んだ、ただそれだけだ。
 清泉町方向からモンド城へ続く道を歩き、ついつい普段の癖で小門側に回り込んで城内へと入った。
 そこに佇む小さな広場の中に、ディルックは、騎士団本部まで出向かなければ会えないだろうと思っていた探し人の姿を見つけることとなる。
 ラフな服装のうえ、頭や首や腕や足、身体の至るところに包帯を巻きつけたその男は、考えるまでもなくまだ絶対安静下にあるべき存在で。そんな彼が一体何故こんなところを出歩いているのか。そんな驚きと焦燥に、ディルックはそれまで考えていた思考回路も全てを放り投げてガイアの方へと駆け寄っていた。
 その直前まで何やら言葉を交わしていたらしい子どもの背中にひらひらと手を振っている彼の名前を呼ぶ。彼はどうしてか子どもたちに慕われる質であるため、今日も今日とてその延長線で声をかけられていたのだろう。

「……おっと、これはこれはディルックの旦那。こんなところで──」
「それはこちらの台詞だ。絶対安静の怪我人がこんなところで何をしている。騎士団の見張りはどうした。あの集団は怪我人ひとりの監視もろくにできないのか?」
「おうおうおう、ちょっと落ち着けよ旦那。お前がそんなに捲し立てる喋り方をしているところなんて、初めて見たぞ?」

 掴みどころのない態度をこんな時にも崩さない彼は、そうやってけらけらと笑いながら全てを曖昧に誤魔化そうとする。きっと、そんな態度に苛立って彼に好き勝手させてしまっていたことがこれまでの自分の間違いだったのだろう。ディルックは深く深くそう理解させられた。
 だからこそ、もう流されてやりはしない。

「御託はいいから早く病室へ──…」

 そう決意した矢先のことだった。

「おい君、その怪我は……!?」

 視界の端に映り込んだ鮮やか赤い色の存在に、ディルックは声を荒げてガイアに詰め寄った。それは彼の左腕から流れ落ちる鮮血の色。きっと傷口が開いてしまったのだろう、もはや包帯としての役目を果たせていない布を通過して、血が止めどなく彼の左腕を伝っている。
 確かここにはかなり大きな傷がつけられていたはずだ。それが開いたということは、かなりの激痛が彼を襲っているはず。──普通、ならば。

「まさか、もう痛覚まで……?」

 痛みを感じるどころか傷が開いたことにも今ようやく気付いたと言わんばかりのガイアの様子に、ディルックはそんな言葉を思わずこぼしてしまう。刹那、ガイアの瞳が驚愕に丸く見開かれていった。聡い彼のことだ、きっとそれだけの言葉からも容易く全てを理解したのだろう。ディルックが全てを知ってしまったということを、理解してしまったのだろう。

「……ガイア、悪いことは言わない。だから、」

 ならば、もう切り出すタイミングをそれ以上見計らう必要もない。言葉の勢いに任せてそう続けながら、ディルックはガイアを説得するためにと彼へ手を伸ばした。
 しかし、その手は他でもないガイアの手によって勢いよく振り払われる。
 その向こうに見えた彼の瞳には、驚愕と、動揺と、そしてどうしようもないほどの恐怖が滲んでいた。強く明白なガイアからの拒絶に、ディルックは再び彼へと手を伸ばすことを咄嗟に躊躇ってしまう。その一瞬が、きっと全ての分かれ目だった。


「──……お前にだけは、知られたくなかったよ」


 その表情が笑みをかたちどったものだということを理解するまでに、少しの時間がかかった。それは、その笑みがあまりにもぎこちなくて、たどたどしくて、ディルックの知る『ガイア・アルベリヒ』のそれとは似ても似つきはしないものだったから。
 彼がそんな表情をすることさえ、ディルックは今の今まで知らなかった。


「まあでも安心しろよ、これは俺が責任を持ってちゃんと終わらせてやるから。お前に迷惑なんてかけはしない、大丈夫だ、俺は、」


 彼は、一体何を終わらせようとしているのだろうか。
 手を伸ばす。指先が空を掻く。


「……それじゃあ、旦那様からの有難いご心配も頂いたことだし、俺は騎士団に戻るぜ。じゃあなディルックの旦那、よい夜を」


 早口にそう言い残し、彼は踵を返して一目散にその場から走り去っていった。あの怪我で走っていい訳がないというのに、こちらを振り返ることもなく、騎士団の方へとただただ真っ直ぐに。
 追いかけるべきだと叫ぶ自分がいた。
 けれど同時に、追いかける権利が自分にはあるのかと問い正す自分もいた。

 その決断を下せるほどの場所に、まだディルック・ラグヴィンドはいなかったのだ。

 何をも掴むことのできなかった手のひらが深まり始めた夜の中にぱたりと落ちる。
 肺に満たした空気はどこか湿り気を帯びていた。明日には雨が降るのかもしれない。


 ガイア・アルベリヒがモンドから忽然と姿を消したのは、その翌日のこと。


 ディルックの予想の通り、朝からしとしとと雨が降り続ける日のことだった。



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