凍てついた身体にその熱はあまりにも毒だった




 視線を揺らした。足を止めた。人気のない路地裏に、燃える炎を連想させる赤い色がはらはらと軽やかに踊る。
 音が聞こえたのだ。夜の近づく街角の喧騒の中に、ともすればかき消されてしまいそうなほどかすかな音が、けれども確かに自らの足元から。
 からん、ころん。と、小さく軽い何かが転がるようなその音は、踵を襲ったこれもまた酷くかすかな衝撃を最後に静まった。どうやら、どこからか転がってきたその何かは自分の足にぶつかって動きを止めたらしい。そう理解した赤髪の男、ディルックは、兎にも角にもそれが一体何であるかを把握しなければならないと、揺らした視線を足元へと落とした。
 直後視界に輝いたのは、まるで夜空に浮かぶ星屑のようにきらきらと瞬く薄青の色彩。ディルックの小指の爪ほどもないぐらいに小さな、何か宝石らしきもの。
 誰かのアクセサリーが壊れて、そのパーツがこぼれ落ちてきたのだろうか。終わりの近い夕暮れに暗さを深めていく路地の中、ひっそりと静かに佇むそれは、その小ささや儚さにそぐわぬほどの存在感をもってディルックの視線を惹いていった。
 わずかな警戒を残しつつ、これに触れたところで大した危険は起こらないだろうと直感的に判断した彼は、身を屈めてその石へと手を伸ばす。あえかなそれを壊してしまわぬようにと細心の注意を払いながら。……その輝きにどこか見覚えがあるような、そんな曖昧な心地を燻らせながら。

「──おっと、それには触らない方がいいぜ」

 けれどもその指先は、突如路地の向こうから飛ばされてきた誰かの声に制される。聞き覚えのあるその響きに自然と眉間にしわが寄るのを自覚しながら、ディルックは屈めようとしていた身体をおもむろに立て直した。
 拾い上げられることのなかった青い宝石は、今もなおディルックの足下に煌めき続けている。
 視線を声の聞こえた方へと向けた。ディルックが背を向けた大通りから降り注ぐ光によって、薄暗闇の中に佇むその男の輪郭が描かれる。闇の中に色付きディルックの網膜を焼いた深い紺碧の色は、どうしてか太陽の下にある時よりも一層その輝きを増しているように見えた。
 彼がここに現れたということは、きっとこの小さな宝石の持ち主兼落とし人は彼なのだろう、ということを、ディルックは即座に理解する。そう考えてみれば確かに、この宝石が持っている薄青の光は、彼の持つ氷元素を宿した神の目のそれと同じもので。先ほど感じた既視感の正体はそれだったかと、内心に首肯を落とした。
 路地の暗がりからゆったりとした足取りでこちらに近づいてくる彼をじっと見つめながら、腕を組んだディルックは一体何から彼に問い質すべきだろうかと思案する。
 こんな路地裏で何をしているんだ。この石は一体なんだ。また何か厄介事でも────

 頭の中に浮かんだそれらが声になることはなかった。ぱちん、と何かが爆ぜるような感覚と同時に、それまでの思考回路の全てがディルックの脳内から消えていく。それは端的に言ってしまえば、『驚愕』だった。

「…………君、それは……」

 からり。何かと何かがぶつかり合うかろい音が路地裏に反響する。それは他でもない彼、ディルックの目の前に立つ男、ガイアの腕の中から発せられたものだった。
 彼が抱えているそれは、取っ手のない少し大きめのバスケット。その中には、今ディルックの足下に転がるものと全く同じ、薄青の石が収められている。──いや、集められている、と言った方が正しいだろうか。
 何故ならその石は、

「ああ、これか? 実は今日、任務中に敵から妙な攻撃を食らっちまってなぁ」

 にこり、といつものように笑みを浮かべてみせた彼は、からからとした口調で酷く簡単にそう言ってのける。笑むためにと細められたその目尻から、また一筋の雫がこぼれた。
 その雫は彼の頬を伝い、顎先からぽたりぽたりと滴り落ちていく。けれどもそれが、ただの水滴として地面を濡らすことはない。
 彼の肌から離れた水滴は、その直後、薄青の石へと姿を変えていく。まるで、こぼれ落ちた涙が凍てついた空気によって瞬時に凍りついてしまったかのように。

「涙が止まらない上に、どういう原理か元素力が涙に溜まって結晶化しちまってるのさ。……だからまあ、一応それは元素力の塊だからな。特に危険はないらしいが、触らない方がいいと思うぜ」

 形はそれでも、もとは俺の涙だしな。
 ディルックの足下に転がる石を指さして、ガイアは笑う。からり。またひとつ、彼の涙から生まれた石がバスケットの中へと落ちていった。
 眼帯に隠された右目からは涙があふれている様子がないことから、どうやら彼は左目だけにその攻撃を受けてしまったらしい。どうしてか未だに驚愕と困惑の抜けない頭で、ディルックは静かに思考し続ける。

「……それは、災難だったな」
「はは。あんたも気をつけた方がいいぜ。俺はまだ涙が凍るぐらいで済んじゃあいるが、これが炎元素だと対処がさらに面倒臭くなりそうだからな」

 飄々とした口調で軽口を叩くその様子は、普段の彼とひとかけらも異なりはしない。けれど、ディルックには彼のその姿が酷く異質なものに感じられた。
 彼の頬を涙が伝う度に、石の転がる音が響く度に、彼がそれでもなお笑みを浮かべる度に、言いようもない感情がじわじわとディルックの胸に降り積もっていく。
 喉元に何かが引っかかっているかのような、そんなどうしようもない不快感。そして苛立ちにも似た奇妙な感覚。自らの抱いたそれら全ての理由が一向に分からず、ディルックはまた、眉間に寄せたしわを一層深くした。

「ま、あのディルックの旦那が泣いているところを見てみたい気持ちがないと言えば嘘にはなるが……」

 からかうような口振りでそう冗談めかした彼の言葉によって、ディルックはある事に気がついた。ぱちりと瞬かせた瞳が、かすかに丸く見開かれる。

 彼の涙を見たのは、これが初めてのことだった。

 今はもう色褪せた幼い日の記憶をどれだけ遡っても、ディルックの知る彼が涙を流していたことは一度もない。ディルック自身もそうではあったが、ガイアはそれに輪をかけて『泣かない子供』だったのだ。
 それが彼の過去に起因するものなのか、それとも彼自身の気質がそうさせているものなのか。恐らくは、きっとその両方なのだろう。

 ガイア・アルベリヒの涙を見た。

 それが彼の感情によって生み出されたものではなかったとしても、涙が涙であることに違いはない。ディルック・ラグヴィンドにとって、それは青天の霹靂と呼べるほどに衝撃的なことだった。

「旦那はこれからエンジェルズシェアか? 俺も酒を飲みに行きたいところだが、こうも涙が止まらないんじゃあそれも難しいよなぁ。全く困ったもんだぜ」

 ディルックの足下に転がった石を拾い集めるためだろう、数メートルの距離をおいて立ち止まっていたガイアが、その爪先を再びディルックの方へと進め始めた。

 ──この感覚は、この感情は、一体なんだ?

 じりじりと胸が焦がされていくような感覚に、ディルックは奥歯を強くかみ締めた。言葉にできない不快感に、八つ当たりにも似た苛立ちが込み上げてくる。
 1歩、2歩。距離が縮まっていく。
 ガイアは、その『涙』をディルックに触れせない。 ディルックから『涙』を隠そうとする。

 ────それが、酷く気に食わなかった。


「……っ、おい、ディルック?」


 驚きを孕んだガイアの声が鼓膜を叩いた時にはもう既に、ディルックは自らの足下に転がっていた彼の『涙』を拾い上げていた。
 手袋の赤い布地の上に、薄青がきらきらと輝く。
 重さなどかけらも感じさせないほどに小さく儚いそれは、ディルックがそのまま握りしめればたちまちに砕け散ってしまうのだろう。けれど、それでは意味がない。ディルックがするべきことは、それではない。

 手のひらに意識を集中させる。
 刹那、路地裏にこぼれ落ちたのは眩いほどに輝く赤い色。ディルックが生み出した紅蓮の炎が、ガイアの『涙』を一瞬にして包み込んだ。

 炎に包まれた氷の末路など、考えるまでもない。
 水と溶け落ちることもなく一瞬にして霧散した薄青の色に、ガイアは思わず言葉を失った。歩みは止まり、ディルックとの間に中途半端な空白だけが残される。

 赤い瞳がガイアを射抜いた。

 そのあまりの鋭さに息が詰まる。目の前の彼が一体何を思い何を考えているのかなんて、ガイアには皆目見当もつかなかった。
 手袋を纏った彼の手が、おもむろにこちらへと伸ばされる。それを避ける余裕も、今のガイアにはない。ディルックの指先が望んだのは、ガイアの腕の中に佇む『涙』の詰められたバスケット。
 あっという間に奪い去られてしまったそれは、先ほどのひとかけらと同じように、一瞬にして炎の渦に呑みこまれていった。
 やけに強く鮮明な輪郭を保った炎がゆらゆらと揺れる様を、ガイアはただ呆然と眺める。まるでそれ自身がひとつの独立した生命体であるかのように石を喰らい尽くしていく紅蓮は、酷く恐ろしく、そして同時に息を呑むほど美しくもあって。

 炎の消えたディルックの手の中には、バスケットの姿さえ残ってはいない。全て全てが呆気なく燃やし尽くされてしまったようだ。
 それを理解してようやく、ガイアは声を取り戻した。けれど、自分が何から言葉を紡ぐべきなのかも判断できず、唇は中途半端な開閉を繰り返すだけ。感情とは別に流れ続ける涙が、またひと粒、結晶となって地面へと落ちていく。

 再び、2人の視線が交わった。

 ディルックの指先が、また何かを望んでガイアの方へと伸ばされる。言葉もなく、痛いほど静かに、真っ直ぐに。『ガイア』へと。
 ガイアの身体が咄嗟に後ずさろうとする。けれど、それが確かな行動として表れるよりも早く、2人の距離はゼロになった。

 動揺から生まれた身動ぎに、石畳と靴裏とが擦れ合うざりざりとした音が響く。
 背中と後頭部に回された大きな手のひらの存在に、頬が柔くくすぐられる感覚に、視界の端に映りこんだ赤髪の色彩に、彼の腕に抱きしめられているということを理解するまでそう時間はかからなかった。けれど、何故自分が彼に抱きしめられているのか、何故彼が自分を抱きしめているのかは分からないまま。

「…………どうしたんだ、旦那」

 情けない声の震えを隠すことも出来ず、ガイアは彼に問いかける。けれど答えはない。こんな耳元で言葉を紡いだのだから、聞こえていないことはないはずだというのに。
 この体勢では、彼の表情を伺うことも出来はしない。何もわからない。彼が何を考えているのかも、彼が何を思っているのかも。なにひとつとして理解ができない。
 あふれた涙が、ディルックの肩口にこぼれ落ちていく。それまでと同様に結晶化するかと思われたそれは、水滴の姿のまま黒い上着に水跡を残して消えていった。
 敵の攻撃による影響が消えたのだろうか。それともディルックの元素力によって結晶化しなかっただけだろうか。ぐるぐると不安定な思考回路では、その答えを考察することもままならない。
 布越しに伝わる自分以外の体温が酷く煩わしいものに感じられて、ガイアは必死に彼を拒絶しようとした。

「……やめろよ、俺たちらしくもない」

 彼の体を押しのけてしまおうと、ガイアは抵抗するように身じろぐ。けれど、それを戒めるかのようにガイアを抱きしめるディルックの腕に力が篭められるものだから、ガイアはさらに全てが分からなくなってしまう。
 かすかにガイアの感覚を刺激した規則的な振動は、他でもない彼の心臓から生み出されたもの。鼓動。彼がここに生きているという証。
 それが、何故かどうしようもないほどに胸を突いて。呼吸の方法すら忘れてしまうほどの激情に、ガイアは唇をかみ締めた。

 なんなんだよ。
 あんたはなにがしたいんだ。
 さっさと離してくれ。
 頼むから。なあ。


 ……どうして、


 後頭部に回されたディルックの手のひらが、ゆるゆるとガイアの頭を撫でていく。まるで泣いている幼子を慰めるかのように。もう大丈夫だと、言い聞かせるかのように。
 その指先があんまりにも優しすぎて、ガイアは抵抗する気力の全てを奪い去られてしまう。
 大の大人が2人して一体何をしているのか。そんな自嘲に似た言葉を胸中にぼやくけれど、夜闇に呑まれた路地裏にあるのは2人分の呼吸と鼓動だけ。彼らを見咎めるものはどこにもいない。

 ここは世界の片隅。
 儚い夢のような時間。

 自らを包み込むあまりにも優しい体温に、ガイアはそっと目を閉じる。どこかふわふわとしたその感覚は、酒を煽った時の酩酊感にも似ていた。
 それに『幸せ』と名付けることは許されない。許してはいけない。許されてはいけない。だからガイアは、せめてとばかりにかみ締めた。この感覚を、この時間を、この輪郭を、この温度を。忘れぬように。二度と望んでしまわぬように。

 またひと粒、涙がこぼれ落ちる。
 頬を伝ったそれは、やはり結晶化することなく、ディルックの肩口に溶けて消えていった。


2020/11/26

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