one



 ──頬が濡れる感覚に閉ざしていた瞼を持ち上げれば、丁度上からこぼれ落ちてきたらしい雫が、掠れた視界の中でかすかな輪郭を結んだ。

 本当に雨でも降り始めたのだろうかと覚束ない頭の中で考えたけれど、そういえば今日の空には雨雲なんて欠片もなくて、腹が立つほどに青く遠く澄んでいたはずだと思い出す。となれば、またひとつ頬を濡らしたこの雫は一体何だというのだろう。
 瞬きをひとつ落とす。どうやら思っていた以上に、この身体はもう至るところが壊れ始めてしまっているようだ。まるで湖の底から空を仰いでいるかのように揺れる視界では、もはや世界にちりばめられた色を何とか知覚する程度のことしか叶いはしない。まあ、腹に大きな風穴を開け、そこから大量の血液を流してしまっているのだから、それも道理と言えば道理だろう。まだこうして意識は残されているだけマシと言っても過言ではないに違いない。人間の身体や命というものは存外丈夫に出来ているようだ。
 滲んだ青は、きっと今日の空の色。まさかこんな馬鹿げた日に今年一番の快晴が広がるだなんて、一体誰が想像していたというのだろう。そんな天気は明日にでも持ち越して、今日の空は陰鬱な雲に覆いつくされ、いっそ雨でも降ってくれていれば良かったというのに。こんなの嫌みったらしいにも程がないだろうか。

 そして、そんな青を背景に揺れ動く黒と、肌色と、──赤い、色。それが燃えるような「赤」だと理解した途端、掠れ始めていた意識がハンマーで殴打されるかのようにはっと鮮明さを取り戻す。それに背を押されるように瞬きを落としたのと、再び頬に濡れた感覚が落とされたのは、ほとんど同時のことだった。

「父親」の生み出した氷柱。鋭い切っ先が狙った先にあった、ガイアの世界で最も色鮮やかな赤。脳内が爆ぜるような感覚。蹴った地面の硬さ。そして──、


 ──ガイア!!


 写真機のシャッターが切られた瞬間のように、ぱちりと一瞬にして世界の全てが輪郭を取り戻す。死に損ないの身体が、突然押し付けられた「生」の残滓に驚いて軋むような悲鳴を上げた。麻痺しきった痛覚にはもうその痛みなんて走りはしないけれど、喉元へと迫った咳は無条件に吐き出されていく。口の中に広がった鉄臭さを噛みしめて、男は、ガイアは堪らずその表情をくしゃりと歪めた。

 泣いていたのだ。

 死にゆく自らの身体を抱いた彼が、ガイアを見下ろして。ぼろぼろと、ぼろぼろと、ぼろぼろと。彼らしくもなく泣いていた。
 あまりの衝撃に辛うじて繋がっていた呼吸が詰まる。凄まじい勢いで脳裏を過って行ったのは、「今自分の目の前にいる『彼』は、本当に自分の知る『彼』なのだろうか」という切実な疑問ばかり。

 なぜなら、「違った」のだ。その光景は、ガイアの予期していたものではなかった。彼のその姿は、ガイアの望んでいたものではなかった。

 いつもはどこか眠たげにも見える玲瓏な彼の瞳が、今は言葉にも出来ない程の悲哀と苦痛と絶望を孕んでこちらを見つめている。そこから大粒の涙を幾度もこぼしながら、ガイアを、ガイアだけを、ただひたすらに見つめている。
 その唇が何かを叫ぶように動いているのだけれど、ひと足先に壊れ切った聴覚ではその声を拾い上げてやることも叶いはしない。それでも、唇の動きだけで彼が何を叫んでいるのかは苦しいほどに分かってしまって。最後に聞こえた彼の声が、何度も何度も頭の中に響き続けていて。込み上げてきた激情に、今にも悲鳴が口傍からこぼれ落ちてしまいそうになった。
 痛覚はもうとっくに死んでしまったはずだというのに、どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。

 ……泣くなよ。
 潰れた喉に、その叫びは燻りながら消えていくばかり。
 なあ、泣くなよ。
 彼の涙なんて見たくはなかった。だからこそ「あの日」、ガイアは彼を突き放したのだ。

 お前だけは、俺の死を悲しまないでくれよ。

 目の前の光景が、脳裏に刻み込まれた過去の記憶を呼び覚ます。ガイアにとっても、彼にとっても、人生が大きく変わってしまったあの日の記憶を。
 ああ、どうして。自分は一体、どこで何を間違えてしまったというのだろう。考えても、考えても、考えても、空回り続ける思考回路では結論に至ることなどできはしない。
 視界がまた掠れていく。世界が輪郭を失っていく。彼の声も、彼の温度も、彼の色も、全てがガイアの手のひらからこぼれ落ちていく。まるで、自分がそれを手放し難く思っているかのようなその言葉に躓く余裕すら、もう残されてはいなかった。

 今日までの二十数年間分の記憶が、足早に脳裏を駆けていく。その8割以上に色づいた赤があまりにも鮮明で、認め難いほどに美しくて。

 ──なあ、ディルック。

 力の抜けきった身体が、彼の腕の中で温度を失っていく。この最期を幸せと呼ぶことが、どうしてできようか。
 泣いている。悲しんでいる。彼が、他でもないディルックが、ガイアの死を悼んで、泣いて、苦しんで、悲しんでいる。そんなことを、ガイアは望んでなどいなかった。だってそれを拒絶するために、ガイアは。

 俺は、一体どうすればよかったんだろうな。

 後悔は未来に立たない。後悔を立てる未来も、もう自分にはない。途切れた意識は奈落の底へ落ちていくだけ。

 ガイア・アルベリヒは、ディルック・ラグヴィンドを悲しませたくはなかった。

 ただ、ただ、それだけだった。



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