two




 ──ふとした違和感を覚えたのは、残り少ないグラスの中身をひと息に仰ぎ切ったその瞬間のことだった。

 口内に広がる美酒の香りと味を舌の上で転がしながら、ガイアはわけもなく視線を周囲へと巡らせる。彼が佇んでいるのは、夜を迎えたエンジェルズシェアの一角。出来上がった酒飲みたちの賑わいで満ち満ちた店内には、騒々しくも穏やかな空気が酔いを孕んで漂っている。いつもと何も変わらない、モンドの夜がそこにはあった。
 昨日も一昨日も、その前も、酒を飲める年になってからずっと。いや、へたをするとそれよりもさらに前からずっと、毎日のように目にし続けていた光景。だというのに、どうして今自分は、それらの全てへ向けて「懐かしい」だなんて感情を抱いてしまっているのだろうか。
 溶けかけの氷だけが残されたグラスを片手に、ガイアはそっと目を眇める。何かを忘れているような、何かが頭の片隅に引っかかっているような、そんな不快感がじりじりと胸を焼いていた。けれど、人一倍回転が速いはずの思考を回しても一向にその答えには辿り着くことができない。これは一体どうしたことか。
 これといった自覚がないだけで、いつの間にか酒に飲まれてしまっていたのだろうか。まだグラスを3杯ほどしか空けていないはずなのだけれど、それ以外に考えられる理由など今の自分にはない。手慰み混じりに空いた片手でふと撫でさすった自らの腹部にだって、何の異常も見受けられはしなかった。

「……あれ、ガイア隊長! グラスが空ですが、自分が何か次の酒を頼んできましょうか?」

 近くのテーブルで酒を楽しんでいたらしい気の利く騎士団の部下が、ガイアの手で曖昧に揺蕩っていたグラスを見てそう声をあげた。有難いその申し出に、ガイアは数瞬の逡巡を落としてすぐさまにこりと笑みを浮かべてみせる。素面も同然の飄々とした笑みが「本物」なのか「偽物」なのかなんて、今となってはガイア本人にも分かりはしないこと。

「その申し出は有難いが……いいや、何でもない。おかわりは自分で取りに行くから気にするな」

 まだ何か言葉を続けようとした部下を振り切るように、ガイアはおもむろに席を立ってカウンターへと爪先を向けた。つい一瞬前の違和感を思って今日はこれで終わりにしようと思っていたのだが、いかんせん身体の方はまだ酒が飲み足りないと叫んでいるのだ。あと一杯だけ酒を煽って、今日は早めに帰路につくとしよう。
 店奥のさざめきを背に、吹き抜けになった天井から店内を照らすシャンデリアの、煌々とした光の下を目指す。やや薄暗い客席の方から明るいカウンターへと向かうその道のりは、どこか壇上へと上がる役者の心地を彷彿とさせて。きしきしと嫌な予感を示唆する様に軋む心臓は、きっとその不思議な感覚が生み出した錯覚に過ぎないと、無意識のうちに自らへと言い聞かせていた。
 客席とカウンターとを隔てるたった4段の石階段を踏み、視線を左へと移ろわせる。簡素な丸椅子が6つばかり並んだカウンター席の向こうには、ひとりの男が立っていた。
 どうやらあちらも、カウンターへと歩み寄ってくるガイアの姿に気づいたらしい。手元に落とされていた視線がふと持ち上がり、ガイアの姿をその虹彩に映し込んだ。
 暁を閉じ込めた瞳に射抜かれた瞬間、痛みとも違和感ともつかない不快感がずきりとガイアの心臓を貫いた。顔に貼りついた表情が崩れることは幸いにもなかったけれど、思わず息が詰まって足が止まりかけた。
 そんなわずかなガイアの動作の違和にも、聡い彼は気づいてしまったことだろう。しかし、こちらは3杯の酒を煽ったいわゆる「酔っ払い」。全ての責をアルコールに押し付けて、ガイアは何事もなかったかのように笑みを浮かべて彼の方へと歩み寄った。

「よう、ディルックの旦那。今日もいい夜だなぁ」

 手の中のグラスを顔の横に掲げて左右に揺らせば、残された氷が揺れてからからと華やかな音を立てた。
 その音を聞いてか、ガイアの声を聴いてか──十中八九後者ではあるのだけれど──、ディルックの静かな表情が微かに歪んで眉間にしわが寄せられる。相変わらず、仮にもバーテンダーが客に向ける顔じゃあないよなぁ、なんてことを内心にだけ考えながら、ガイアはカウンターへグラスを置いた。

「おかわりを頼むぜ、バーテンダーさん?」

 まあもちろん、彼がそんな顔を自分に見せるのは他でもない自分のせいであることぐらいは正しく理解しているので、それを咎める気はさらさらないのだけれど。彼を煽るように人を食ったような態度を見せてしまうのは、きっとガイアの持つ十数の悪癖の内のひとつだった。
 そんなガイアにやはり苦々しげな表情を深めたディルックは、溜め込んだ心労を吐き出すかのごとく大きなため息をつき、しぶしぶといった様子で唇を震わせた。

「まだ飲むつもりか、ガイアさん」

 ああもちろんだ。そう言葉を返すためにと吸い込んでいた空気が肺につっかえ、どうともしがたい息苦しさが急速に身体を蝕んでいく。背景の喧騒をかき消すかのように突如耳元でけたたましくなり始めた鼓動の音は、本当に自らの心臓が発しているものなのだろうか。
 足場が崩れて落ちていくような、身体から魂が抜けていくような、脳内がぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくような、訳の分からない複雑な感覚が身体感覚を奪い去る。世界の全てが遠ざかったような錯覚に侵された思考回路では、自分が今、一体どこで何をしているのかも分からなくなってしまいそうだ。
 よろけそうになる身体を、カウンターに手をつくことでなんとか抑え込む。どくどくと不吉に喚く心臓に反して呼吸は浅く、指先は凍りついてしまったかのように冷え切っていた。

「……おい、君。どうしたんだ?」

 突然口を噤んだガイアの様子に、ディルックも違和感を覚えたらしい。相変わらずどこか硬くて冷たい声色に、今は怪訝と心配とが混ぜ込まれていた。
 けれど、鼓膜を叩くその声がまたガイアを苦しめるのだ。今にも割れてしまいそうなほど揺れる頭に、平衡感覚も失ってしまいそうになる。

 自らの手のひらを見た。
 自らの腹部を見下ろした。
 何度確認しても、身体のどこにも血は滲んでいないし、腹に風穴だって空いてはいない。五感と五体の全てを正しく持ち合わせた「ガイア・アルベリヒ」がそこにいた。
 視線をゆっくりと持ち上げる。
 シャンデリアからこぼれ落ちてくる温かな橙の光が、エンジェルズシェアの店内に陰影と輪郭を与えていた。

「まさか体調が優れないのか? 顔色が悪いぞ」

 彼の瞳がガイアを見つめている。
 赤い、赤い、暁を閉じ込めた瞳が。

 ──……ふいに安堵が溢れたのは、きっと、そこに涙のひとかけらも覗いてはいなかったから。

「……なあ、旦那、今日は何月何日だ?」
「は? 何なんだ一体」
「いいから教えてくれ!」

 あり得ない、と誰かが頭の奥底で叫んでいた。その通り、あり得ていいはずがないのだ、こんな現実など。
 お前は夢を見ているのだと言って欲しかった。これは死後の世界で、お前はただ夢を見ているだけだと。生きていた頃の幻影を突きつけられているだけなのだと。言って欲しかった。全てを否定して欲しかった。
 否定してしまいたかった。

「……今日は、4月15日だ」

 けれど、それを思わず躊躇してしまうほどに、目の前の現実があまりにも正しく「現実」としてそこにあったから。ガイアにはもう、一体何をどうしていいのかさえ分かりはしない。
 彼らしくもなく取り乱した様子のガイアに困惑を滲ませながら、ディルックは望まれた答えを簡潔に紡いだ。日付も忘れるほどに酔っているのか、それともついに気がおかしくなったのかとガイアヘ向けられたディルックの怪訝そうな視線に、ガイアはやはり、どんな言葉も返すことができはしない。

 4月15日。

 その日付が頭の中にぐるぐると反芻する。理解したくはない、理解してはいけない事実が、脳を蝕むようにガイアの思考回路を侵していった。

 ガイアの記憶の中で、ガイアは死んだはずだった。
 氷柱の攻撃によって腹に風穴を開けられ、そこから血を大量に流して、死んだはずだった。あの衝撃を、痛みを、冷たさを、暗さを、ガイアは確かに覚えている。
 目の前の彼がそんなガイアの身体を抱きしめて涙をこぼしていたことだって、確かに。

 むしろそちらこそが夢、だったのだろうか。いいや、それにしては残された記憶と感触とがあまりにも生々しすぎる。あんなにも鮮明な自らの死を夢に見られるほど想像力が逞しい自負はないし、なにより自らの夢ならば彼が涙を流すことなんてあり得るはずがないのだから。

 ──ならば、つまり、これは。

 ディルック・ラグヴィンドがバーテンダーとしてエンジェルズシェアに立ち、ガイア・アルベリヒがエンジェルズシェアで酒を煽った最後の夜。それは「ガイア」の記憶の中でも、確かに4月15日のことだった。



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