人魚の秘めごと(アズジェイ)
ジェイド・リーチという男は嘘が得意である。
そして同時に、隠しごとも。
彼お得意のひとかけらも困っていない「困りましたね」や、一切悲しんでいない「しくしく」という言葉を周囲が嘘であると理解できるのは、ひとえに彼自身が「それが嘘であること」を「隠そうとしていない」ためだ。理路整然と進む洗練された思考回路から生み出されるのは、群を抜いた人心掌握術に、隙のない巧言令色。ぞっとするほどに美しいそのかんばせに作られた穏やかな微笑みの向こう側は分厚いベールで幾重にも覆い隠され、そう易々と伺い知ることはできない。きっと、ひとたび彼が何かを隠そうと本気で嘘を吐いたならば、「彼が嘘を吐き何かを隠している」ということにさえ誰も気づくことがないまま全てが終わってしまうのだろう。
この世界でたったふたり。彼と血を分けた双子の兄弟と、腐れ縁の幼馴染を除いては。
「──……ジェイド、何か考えごとですか?」
それは、何でもないありきたりな日常の中のワンシーン。いつものように、アズールとジェイドとフロイドの三人が食堂で共に昼食を摂っていた時のこと。「これいらね〜ジェイド食べて」「おやおや、好き嫌いはいけませんよ?」なんて、相変わらずどこか距離感のおかしい双子が昼食を囲んでじゃれ合っている様子を向かいの席から静かに眺めていたアズールが、昼食のキッシュを口へと運ぶ手を止めて、ふとそんなことを口にした。
その言葉を向けられた片方は、左右で色違いの宝石を嵌め込んだ双眸をぱちりと瞬かせる。そこに浮かぶのは純粋な驚きと疑問の感情だけ。隣の片割れへと向けていた顔と視線をアズールの方へ移動させ、ジェイドは小さく小首を傾げてみせた。どこかあどけないその様子は、普段は一ミリたりとも感じられない『年相応』の三文字を彼に与えているようだった。
「考えごと、とは?」
「いえ。先程からどこか様子がおかしいように見受けられましたので、何か悩みでもあるのかと思いまして」
「それはそれは、もしかして僕のことを心配してくださっているのですか? 本当に慈悲深いお方ですね、貴方は」
再び瞳を淡く瞬かせたウツボの人魚は、次の瞬間にはくすくすといつも通りの穏やかな笑みを浮かべてアズールに言葉を返す。どこかからかいの含まれたその口調に、アズールはぎゅうと眉間に皺を寄せた。
「お世辞も皮肉も求めていません。それで、何があったんです」
「おや、お悩み相談室ですか。今回は一体何をお望みで?」
繰り返されたアズールからの問いかけに、ジェイドの瞳が愉快そうに歪んだ。願いには対価を。確かにそれが彼らオクタヴィネル寮の在り方だ。そしてその考えは、たとえ相手が身内であろうと譲歩されない。アズールも、ジェイドも、こっそりとジェイドの器にグリンピースを放り込んでいるフロイドも、そんなことは腹の底から理解している。だから、ジェイドのその反応も全くおかしくはないものである。──が。
はあ、とひとつ大きく息を吐いて、アズールはジェイドを真正面から見据え直した。
「……貴方もご存知の通り、モストロ・ラウンジのさらなる発展にあたってこれから様々な業務が僕たちを待ち受けています。そんな多忙の中で、変な悩みにかかずらって貴方が使い物にならなくなってしまうのは僕にとっても大きな損失だ。つまり、この『お悩み相談室』は未来の僕への投資に他なりません。ということで、お悩みをどうぞ?」
つらつらと並べられたその理由は、確かにジェイドにとっても素直に納得のいく内容であった。ジェイドはオクタヴィネル寮の副寮長。寮においても、モストロ・ラウンジにおいても、アズールの次に権力を持つ存在だ。そしてアズールにとって、一番に使い勝手のいい駒。馬車馬のごとく働かせる予定のそれが木偶の坊になってしまってはいけないから、早いうちに悩みを聞いて解決してやろう、と。なるほど、それは何とも『アズールらしい』考え方であった。
それを理解したらしいジェイドは、くすりと笑みをこぼしてアズールに答える。
「そう言われてしまうと、隠す理由も無くなってしまいますね」
眉を下げて一度唇を閉ざした彼は、1秒の間も置かずに再び言葉を紡ぎ始めた。軽く伏せられた視線はどこか憂いを帯びていて、声色も気落ちしたものに様変わりしている。
「……実は、少し前から僕が手塩に掛けて育てているキノコの調子が悪くて……」
「うげ、ジェイドまーたなんか変なの育ててんの? 調子が悪いならもういーじゃんそのまま放置しとけば。自然に還った方がそいつも幸せだって」
「なんて酷いことを言うんですかフロイド。僕はあの子のことを思ってこんなにも胸を痛めているというのに……」
アズールもフロイドの言に賛成の立場なのだが、あえてそれは口にせず、先程と同じように目の前で巻き起こされる双子のやり取りを静かに眺める。ただし、その視線がとらえているのはただひとつの存在だけ。
キノコを思って悲しげに眉を下げるその表情は確からしく真に迫っていて、その言葉は疑う余地などもたない、ただ一つに『正しい』ものであるのだと世界へ訴えかけているかのようだった。いや、きっとそれは正しく彼の『本音』ではあったのだろう。
──けれど、違う=B
アズールはほとんど直感的にそれを理解した。
キノコの調子が悪いという事実は確かに存在し、ジェイドも確かにそれを気にかけているのだろう。しかし、それはつい先ほどアズールがジェイドに感じた『違和感』の原因ではない。もっと別の『何か』がそこにはある。
嘘を吐く時にはひとかけらの真実を混ぜよ。アズールとて他人のことはあまり言えないが、ジェイドという男は嘘を吐くために嘘を吐き、嘘を守るために真実を鎧として身に纏うことを誰よりも得意としているのだ。そんなことぐらい、もちろんアズールも理解している。伊達にこの双子と時間を共にしているわけではないのだ。
「……それだけですか?」
アズールの問いかけに、黄金と鈍色がゆるりと綻んだ。
隙のない、ジェイド・リーチという存在を象徴するその微笑み。
「ええ、はい」
なるほど。
アズールの眉が再び微かに顰められる。
──この男はその『何か』を、アズールから隠し通す腹積もりらしい。
***
隠すということはつまり、それを知られたくはないということ。
アズールだってジェイドやフロイドたちに隠しごとぐらい幾らでも積み重ねてきているし、ジェイドがアズールに隠しごとをすることも別に今回が初めてのことではない。
それなのに、何故今回に限ってアズールはこんなにもジェイドの『隠しごと』が気になってしまうのか。その理由がアズール自身にも明確に分からないことが、さらにその苛立ちを助長させていた。
「フロイド」
夜、時刻はもう22時を回った頃。モストロ・ラウンジのVIPルームに備えられた執務机に向かっていたアズールは、同じくVIPルームのソファでごろんとだらしなく横になっていたフロイドへと声を投げた。ジェイドの姿はここにはない。恐らく今頃、モストロ・ラウンジの厨房やホールで後片付けの指示を飛ばしているはずだ。
「ん〜? なぁに?」
ゆったりと持ち上げられた顔が、ほんの少しの眠たさを引き連れながらアズールを見やる。恐らくつい今しがたまで微睡んでいたのだろう。くあ、とこぼされた大きな欠伸がその証拠だ。
その呑気さに思うところは多々ありながら、それを飲み込んでアズールは用件を手短に伝える。とはいえ、それはモストロ・ラウンジについてでも、オクタヴィネル寮についてでもなく、ジェイド・リーチという男ただひとりについての話だ。
「最近ジェイドの様子がどこかおかしいようですが、貴方、それについて何かご存じありませんか?」
あの昼食時から、もう2週間ほどが経とうとしていた。アズールがジェイドに対する違和感を初めて覚えた日のことだ。
あれ以来、その違和感は薄れるどころか、むしろじわりじわりとその濃度を増してアズールにまとわりついて来るようになっていた。ジェイドと顔を合わせる度に、言葉を交わす度に、アズールは得も言われぬ不思議な感覚に襲われる。何かがおかしい。何かがおかしいのだけれど、何がおかしいのかが分からない。募っていくのは疑問と苛立ちと不快感。恐らく、その違和感の原因はジェイドがアズールから隠したがっている『何か』であるのだろう。そこまでの検討は容易についた。だがしかし、問題はその先だ。
ジェイドの様子から考えるに、アズールがいくら観察したところで、直接正面から問いただしたところで、ジェイドはその『何か』を決してアズールに打ち明けようとはしないだろう。涼し気な表情をしていながら、あの男はなんだかんだとひと一倍頑固なところがあるのだ。そんな彼が一度隠すと決めたのなら、余程のことがない限り彼が自ら口を割ることはない。
それを理解しているからこそ、アズールはフロイドという切り札へ手を伸ばしたのだ。
あの日あの場所でアズールと共にジェイドの『嘘』を聞いていた彼。世界でただひとり、ジェイドという存在の内側を余すところなく知る男。もちろんアズールだって他に比べれば十分すぎるほどにジェイドの生態について理解している。けれど、生まれてからこれまでの十七年間をひとときも離れることなく共に生きてきた彼以上になどなれる訳がない。まあ、なりたいとも思わないが。
そんな彼が、アズールでさえも察知したジェイドの『嘘』に気付いていないなんてことがあるだろうか。その答えはもちろん否。けれど、彼はあの時その『嘘』を指摘することなくジェイドが吐いた言葉に合わせた対応を取った。それは何故か。考えられる理由はひとつ。
──フロイドは、ジェイドが『嘘』に隠した『本当』を既に知っている。
ただその時の気分だったという理由も考えられてしまうフロイドであるが、アズールはその可能性も全て加味した上でその決断を下した。何故なら、アズールがそうだと感じたから。
「え〜? そう?」
「しらばっくれるのはやめてもらえますか。僕が気づいていてお前が気づいていないなんてこと、世界がひっくり返ってもあり得はしないでしょう」
率直なアズールの言葉にフロイドがぱちりと瞳を瞬かせた。その表情はジェイドのそれと酷く似ているはずなのに、アズールにはもう全くの別物にしか見えない。似ているようでその実全く似ていない、けれどもやはり似ているこの双子の全てをアズールが理解できる日は、きっと永遠に訪れはしないのだろう。
そして理解なんてする必要はないと、確かにそう思っていた。はずなのに。
「……んふふ、アズールも結構オレたちのこと分かってきたよねぇ」
「毎日毎日見ていたら否が応でも慣れますよ。どれだけの付き合いだと思っているんです」
にやにやと楽しげな表情を浮かべるフロイドの姿に、少しの嫌な予感が背筋を駆け抜けていく。このフロイドという男は、その自由奔放な気質も相まって、アズールにとっては時にジェイド以上に理解不能な存在であった。
「ん〜〜〜そっかぁ。アズール、気になるんだ。ジェイドのこと」
どこか意味深なフロイドの言葉に、今度はアズールが瞳を瞬かせる番だった。ぱちぱちと二度瞬きを繰り返し、そして次に、嫌そうな表情を隠そうともせず顔全体に張りつける。例えるならば、それはしいたけを前にしたフロイドのよう。
「気になっているのは確かですが、その言い方は誤解を招きかねないので止めてください。……それで、何か心当たりは?」
「心当たりねぇ……ま、あるにはあるけどぉ」
少し響きを固くしたアズールの声色に、フロイドもそれまでの嫌な笑みを片付ける。そして視線をゆったりとVIPルーム内に巡らせ、アズールへの返答の言葉を探し始めた。まるで、そこに泳ぐアズールからは見えない魚の姿を追いかけるかのように。
3秒、4秒と沈黙が積み重なる。
アズールの予想通り、やはりフロイドはその答え──まではいかずとも、少なくともそれに至る手掛かり──をその手の中に持っていた。ならば早くそれを開示しろとアズールは思うのだが、どうやらフロイドにも何やら考えるところがあるらしく。ジェイドから口止めをされているのか、それとも他に何か理由があるのか。アズールはどうやってこの双子の片割れに口を割らせようかと静かに思考を走らせ始めた。
しかし、
「オレが今言っちゃうと面白くねーから教えなーい!」
ぱっと表情を明らめそう言ってのけたフロイドの姿に、これは自分が何をしても無駄だとアズールは反射的に理解する。楽しいか楽しくないかの二択以上の行動原理など、この男には存在しないのだ。
「てかさぁ、そんなに知りたいなら聞けばいいじゃん本人に」
「聞いても答えない相手だから貴方に聞いたんですよ」
「あ〜違う違う。オレが言いたいのはぁ」
ウツボの人魚が笑っている。それはもう楽しげに、愉快そうに。
「無理やりにでも吐かせればいいじゃん? ってこと!」
まるで遊びの提案をする幼子のような無邪気さで、男はけろりとそう宣った。
***
「──アズール、失礼しますよ」
こんこんと律義なノックが二度響き、次いで落とされた声は、アズールももう随分と聞き慣れたもの。どうぞと簡素な応答を返せば、すぐに扉は開かれた。
「貴方の自室への呼び出しなんて珍しいですね。一体どうされたんです?」
アズールの部屋の中へひょこりと姿を現したのは、もう2週間以上にもわたってアズールを苛立たせ続けている男、つまりはジェイド・リーチであった。モストロ・ラウンジの店休日である今日、寮服ではなく授業終わりそのままの制服を身に纏った彼は、それでもやはり一切の隙を見せない佇まいで穏やかに微笑みを浮かべている。相変わらずいけ好かない奴だ、と感じるよりも先、やはりアズールの神経を撫でていくのは、いっそ不快感にも似た違和感。それはピースの欠けたパズルを見た時の不足感にも、上手く空を飛べない時の歯がゆさにも似た感覚だった。
喉元に引っかかったその何かを飲み下すように、アズールもまたにこりと笑みを浮かべてみせた。商売相手を前にした時のような、完璧な営業スマイルを顔に張り付けて。
つまりそれは、アズールが内心で何か良からぬことを考えているという証拠。それを知っているためだろう、ジェイドの笑みがさらに深まった。刹那、アズールはようやく違和感の一端を確かな言語として胸の中に理解する。
自分へ向けられるジェイドの笑顔が、『完璧』すぎていたのだ。
それはもう、お手本のように。完璧な口角と目元と眉の角度、静かな瞳。そこに宿る穏やかさは、不必要なもの全てをそぎ落とし腹の底に隠した末に完成したもの。ここでさらにアズールは気付く。このジェイド・リーチという男、どうやらアズールやフロイドの前では随分と表情豊かな存在であったらしい。今更過ぎるその事実がすとんと落ち込んできたのは、ひとえに表情を殺しきったジェイドのその姿が今、アズールに向けられているから。
じくり、心臓のあたりが痛みにも似た不快感を訴える。どうやら自分はそれが気に食わないらしい。それは一体何故だろう。それの一体何がそんなにも気に食わないのだろう。アズールの駒でありながらアズールに嘘を吐いて隠しごとをしていること? アズールへ作り笑いを浮かべていること? それぐらい、別に今までにもあったことだ。それぐらいで気を悪くするほどアズールは短気でないし、ジェイドという男に不信を拗らせてはいなかった。それならば他にどんな理由がある。自然なぐらい不自然に距離を置かれたこと? まさか、友人でもあるないのにそんなこと。頭の中に浮かび上がったひとつの想定を鼻で笑って掃き捨てるが、心臓を襲う不快感はさらにその濃度を増していた。どうやらアズールの苛立ちの本当の対象は、隠しごとをするジェイドではなく、自らがジェイドに対して覚えているその訳の分からない感覚、感情だったらしい。自分の感情だというのに、それへつけるべき名前が分からないだなんてことは、自律心の強いアズールにとってストレス以外の何物でもなかったのだ。
だから、アズールはその感情を理解するために。ついでに気に食わないジェイドの嘘と隠しごとを暴くために、今日、ここに彼を呼びつけた。
「ご足労ありがとうございます。ラウンジで出す新しいドリンクの試作が完成しましたので、貴方からのご意見を頂きたいと思いまして」
部屋の中ほどに備え付けられた一つ足の丸いテーブルに、アズールはひとつのグラスを置いた。細身のそれを満たすのは、透明から下へと向けて深い青にグラデーションを形成した涼しげな印象のドリンク。氷を浮かべたそれには小さな気泡がぱちぱちと弾けているから、恐らくそれは炭酸を孕んだものなのだろう。シンプルながらも品があり、モストロ・ラウンジの雰囲気にもこれからの暑い季節にも合う一品だ。
新商品の試作をジェイドが試食する、ということ自体はそう珍しいことではない。ただ、今日のように「アズールの自室で」、「アズールとふたりきり」の状況でそれが行われるということは今日が初めてであって。アズールという存在の本質を知るジェイドがそれに警戒を抱いてしまうのも、そう可笑しくはないことだ。
にこりと笑みを浮かべ「そうですか」と頷いたきりグラスへ一向に手を伸ばそうとしないジェイドに、まるでそんな彼の反応もお見通しだったと言わんばかりに、アズールはその口角をさらに持ち上げてみせる。
「おや、飲まないんですか?」
「ふふ、意地の悪いお方ですね。……一体、何をお考えで?」
それ、何か入っているでしょう。グラスを指差して、ジェイドはくすくすと笑う。
ジェイドが持つこの警戒心の強さも、賢しさも、アズールはもちろん承知している。だからこそ、こうしてジェイドの警戒をこのグラスへと向けさせたのだ。
「別にこれには何も入っていませんよ、失礼ですね。僕はただ、貴方が最近何やら僕に隠しごとをしているようですので……それを、教えて頂こうと思いまして」
これには、何も入っていない。その言葉の意味をジェイドが理解した瞬間、ぐわんと突然ジェイドの視界が大きく揺れた。どうやら自分はまんまと罠にかかってしまったらしい。そんなことを思考の隅に考えながら、ジェイドは平衡感覚すら失った身体を膝から床へと落とす。揺れる視界の気持ち悪さに、浅い呼吸ばかりが唇からこぼれた。
「おや、少し効きすぎましたかね。他へ使う時は量に気をつけた方がよさそうだ」
片手で胸元を握りしめ、もう片手を床に突き何とか上半身を支えるジェイドの前に、アズールの革靴が奏でる足音が響いた。荒れる呼吸と覚束ない視界に奥歯を噛みしめながら、ジェイドは自らを見下ろすアズールに視線を向ける。普段の余裕を壊され苦しみに喘ぐジェイドのその姿に、アズールは自らの心が微かに震えるのを覚えた。
「一体、何を、」
「俗にいう『自白剤』を、お香として無味無臭な気体のかたちで相手へ処方できるように、僕なりに新しく調合してみました。因みに、事前に解毒剤を飲んでいるので僕には効きません。……ただ、これは少し失敗ですね。身体的苦痛が大きすぎるばかりで肝心な大脳への影響が少ないようだ。効果が遅れているだけ、もしくはお前の精神力が強すぎただけ、ということも考えられますが……まあ、ついでです。もう少しこれの効き目についても観察させてください」
つらつらと悪魔のような言葉を天使の笑みで述べてみせるアズールの姿に、ジェイドはもう悪態を吐くことすらできない。本当に、我らが寮長はいい性格をしている。
苦しさに頭を落としたジェイドの顎が、突然伸ばされてきた誰かの手に掬い取られる。もちろん、その誰かとはアズール・アーシェングロットそのひとに他ならない。ジェイドの正面に膝を曲げてしゃがみこんだ彼の影が、ジェイドの影と並ぶように落とされる。無理矢理持ち上げられた視界に、淡い銀藍の色彩が瞬いた。
「さあジェイド、質問です。貴方は僕に一体何を隠しているんです?」
自白剤本来の効果が出始めたのだろう、霞がかかったようにぼんやりとしてきた思考回路に鞭を打って、ジェイドは毅然とした口調で応えてみせる。
「……っいいえ、何も?」
眉根を寄せて、それでも口角はゆるりと上に。絶対に吐いてなどやるものか。そんなジェイドの意地がそこに見え隠れしていた。
その姿に面白くなさが募ったアズールは、さらに容赦なく問いを連ねていく。
「本当に? その割には最近、僕へ向ける貴方の笑顔が随分と作り物めいていましたけれど」
「気のせい、じゃ、ありませんか?」
「時折僕のことをじっと観察するように見つめていたことも?」
「……被害妄想が過ぎますよ、ただ、ぼんやりしていただけです」
「ならば、何か言いたげにしていたあの表情は?」
なんて手強い男だ。この口の堅さはアズールの部下として非常に重宝される美徳であるが、それがこうしてアズールに向けられてしまうとなるとあまりにも厄介すぎる。ここで『かじりとる歯』と囁くことが出来たならば全ては一瞬にして終わるのだけれど、生憎なことにそのユニーク魔法を使えるのは当のジェイドただひとりだけだ。
そういえば。ふとアズールは考える。ジェイドは確か、自らのユニーク魔法をアズールに預けるなんてことは恐ろしくて絶対に出来ないといつか口にしていた。もしかすると、あれはこの『隠しごと』をアズールには絶対に暴かれたくないという思いの欠片だったのかもしれない。その推測が正しければ、ジェイドはあの時にはもう既にアズールへ隠しごとをしていたということだろうか。なるほど、どうやらアズールが考えていた以上にジェイドの隠しごとは長い月日を生きていたらしい。その事実に、また苛立ちが腹を食んだ。
「お前は相変わらず頑固ですね」
「アズール、こそ」
もう随分と薬が回ってきたのだろう。減らず口が少なくなり始めたのはきっと、あまり多くを話していればいつか口が滑ってしまいそうだという危機感から。
アズール自身、自分のその執拗な執着に自ら首を傾げ始めていた。どうして自分はここまでしてジェイドの秘密を暴きたいのだろうか。それは何度も繰り返し続けてきた疑問の言葉。その答えは未だ見つかっていない。けれど、
「僕のことなんて、貴方が気にすることなど、ないでしょう?」
ジェイドのその言葉に、胸のあたりが針で刺されるような痛みを覚えた。その痛みのどこかにアズールの探し求めていた答えが隠されているような気がして、必死にその感覚を追いかける。頭の中で、微かに警鐘の音が鳴り響いていた。一体、何が危険だというのだろう。この先で、一体何がアズールを待ち構えているというのだろう。
思考を巡らせ、巡らせ、考える。そしてふと、まるで何かに押し出されるかのようにアズールの唇からとある言葉がこぼれ落ちた。崖から足を滑らせたような感覚。ほとんど無意識のうちに紡がれた音。
「──……お前は、僕のことが嫌いになってしまったのですか?」
まるで迷子の子どもが囁いたかのような、どこか弱々しく掠れたその声。あんまりにも情けないその響きに、アズールはしばらくの間、それが他でもない自らの喉からこぼされたものであると理解することができなかった。
ぱちり、視線を交わらせた二対の瞳がそれぞれに瞬く。
言葉を吐いたアズールも、言葉を向けられジェイドも共に、浮かべる表情は驚きばかり。一瞬の差でジェイドよりも先に正気を取りもとしたのはアズールの方だった。居た堪れなさに視線を落とし、アズールは咄嗟に唇を開く。
「……何でもありません、」
忘れてください。そう言葉が続くはずだった。
けれど、その声は誰かの声に儚くもかき消されてしまう。その誰かはもちろん。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
ジェイドの声がアズールの鼓膜を叩く。その語尾が震えていたのは、薬のせいか、それとも他の何かのせいか。
視線を持ち上げて、アズールはジェイドの表情へと再び焦点を合わせる。
そうして、そこに見つけたジェイドの表情に、アズールは浅く呼吸を止めてしまうことになるのだ。
黄金と鈍色のコントラストが、ゆらゆらと儚く揺れていた。困ったように下げられた眉は、困惑と羞恥とどうしようもなさを孕んでいて。目尻を染めた僅かな赤と震える唇に、アズールは自らの視線が奪われて行くのを頭の奥底で理解した。
言ってしまったと言いたげな表情。一度アズールのそれと交わった彼の視線は、逃げるように床へと落とされた。後悔するように引き結ばれた唇は、再び頑固な籠城を決め込もうとしているようで。けれど、もちろんアズールがそれを許す訳もなく。
「ジェイド」
「……、」
「ジェイド、こちらを見なさい」
命令を伝えるその声色は、言葉の鋭さに反して酷く優しい温度を帯びていて。まるで駄々をこねる幼子を相手する母親か何かのようだった。
けれど、ジェイドは視線を落としたままだんまりを決め込んでしまう。苛立ったアズールが再び顎を掴んで無理矢理上を向かせようとしたけれど、大きな手のひらがその顔を覆い隠してしまった。純粋な力だけでジェイドに勝つことなど恐らく不可能なアズールは、大きくため息を吐いて自らの手をジェイドから離す。
「……ジェイド」
「……何ですか」
「貴方、僕のことが好きなんですか?」
端的で率直なアズールのその言葉に、ぴくりとジェイドの肩が跳ねた。随分と素直なその反応も、きっと自白剤によって導き出されたものなのだろう。それに対してどうしてか釈然としない思いを僅かに抱えながら、アズールは再びジェイドの名前を呼んでやる。
気が付けば、胸をどうしようもなく侵していたあの苛立ちはいつの間にやらその姿を消していた。代わりに胸を埋めるこの感情に、一体何と名前を付けようか。
「ジェイド」
自分にこんな声が出せたのかと、アズールは心の内に驚愕を転がした。
手を伸ばして、ジェイドの腕をぽんぽんと優しく叩いてやる、まるで固く閉ざされた扉をノックするかのように。そうすれば、ジェイドは恐る恐るといった様子で革手袋を纏ったその手のひらを落としていく。
そうしてその向こうから覗いた彼の表情に、思わずアズールは笑みをこぼしてしまうのだ。
「……なんて顔をしているんですか、お前は」
先ほどの比ではないぐらいに赤く染まった頬と、羞恥のせいか僅かに潤んだその瞳。よくよく見ればその耳や首筋までもがほんのりと色づいていて。アズールを非難するようにぎゅうと一文字に結ばれた薄い唇が、どうしてか酷く愛らしいものに見えた。
どうやらそれらの全てが、ジェイド・リーチという嘘吐きな人魚の秘めごとであったらしい。
190センチの長身に、細身に見えてその実かなりがっしりとした身体。玲瓏な色と光を宿したその短髪と瞳の鋭さと、獲物を見つけるや否や意地悪く笑うその唇。
普段は可愛げの欠片など一切持たない捕食者然とした凶悪なそれらが、今、アズールの前でこうして哀れな非捕食者のように打ち震えている。その落差に生まれた心の響きが、つまりは全ての答えだった。
なるほど、これは随分と厄介な。
ついに名前がつけられてしまったその感情に、苦虫を噛み潰したような感覚が胸の内へ広がっていった。まさかまさか、自分がこんな感情を抱くだなんて。しかもその相手が、他でもないこの男だなんて。
けれど、気づいてしまったそれをなかったことになど出来はしない。ぬるま湯のようなその温度に心地よさを覚えてしまった時点で、もうアズールにも逃げ道など存在していない。許されているのは、ただその感情を持ったまま進むことだけ。
自覚し、それを受けいれた。けれど、だからといって自ら傅いてやることなんてアズールの高いプライドが絶対に許さない。
それゆえに、アズールは再び問いかけた。
自白剤という自らの撒いた種の存在が少し気に食わないが、まあいいとしよう。どんな形であれ、こういうものは先に言わせてしまった方の勝ちなのだ。少なくともアズールの中では。
「ジェイド。お前は僕のことが好きですか?」
悔しげに歪んだ瞳に、震える唇に、アズールの笑みがより一層深まった。
なるほど。どうやらこれを、世界は愛だの恋だのと呼ぶらしい。
こうして始まった、タコとウツボの何とも厄介な恋愛合戦。
それぞれに思惑を持ちながらも、意地を張りながらも、結局は互いに惚れた弱みを握られ合っている同じ穴の人魚たち。そんな彼らの未来は、はてさて一体どこへ向かうのか。それはまた、別のお話。
「お互い素直になっちゃえば手っ取り早いのにねぇ。ほんと、ふたりとも変に意地っ張りで超おもしれ〜の。……かぁいいでしょ、オレの兄弟と幼馴染。ま、誰にもあげないけど♡」
2020/6/20
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