口を開けて待ってたの(フロジェイ)





「アズールゥー」

 時刻はもうすぐ日付も変わろうかという頃。モストロ・ラウンジの本日の営業も無事終わり、自室に戻ったアズールがようやくひと息ついたところだった。
 ノックも遠慮も無しに開かれた部屋のドアと、同時に聞こえた自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声。ドアの鍵をかけ忘れていたことへの後悔を内心に芽生えさせながら、アズールは視線を部屋の出入り口の方へと向ける。来訪者の不作法と面倒ごとの予感に思い切り顰めた表情の先にあったのは、やはりというかなんというか、アズールの腐れ縁でもあるウツボの双子の片割れ、フロイドの姿で。
 開け放したままのドアにぐったりと体重をかけて寄りかかっただらしない体勢をした彼へ向けて、アズールがまず一番に吐いたのは勿論この言葉。

「フロイド、ドアを開けるときはまずノックをしろと何度言えば分かるんだ」
「あ〜はいはい、ゴメンナサイ」

 まあ、いくらそんな説教や苦情を並べたてたところで相手はフロイドだ。馬の耳に念仏、暖簾に腕押し糠に釘。相手の心にこの言葉が決して響かないことぐらい、アズールだって承知のうえ。それでもやはり言っておかなければ気が済まない。
 めんどくさいとでも言いたげな表情を隠すこともせず、フロイドは心など一切籠もっていない謝罪を並べてみせた。その姿にアズールもそれ以上は食い下がらず、フロイドがここへ来た用件を視線だけで問いただす。そうすればフロイドも自らがアズールの部屋へこんな時間に足を運んだ理由を思いだし、かぱりと締まりのない口を開いて言葉を紡ぎあげるのだ。

「そうそう、ジェイドがさぁ」

 飛び出したその名前に、やはりかと思うと同時、面倒ごとの予感が的中したことを理解してアズールは内心に頭を抱える。ジェイドとフロイド。この破天荒な双子が揃った時に巻き起こされることなんて、十中八九厄介事でしかないのは経験則から痛いほどに理解している。そしてそんな経験則が成立してしまう程にはアズールもその厄介事に巻き込まれることに慣れ切ってしまっていて。
 ひとまず話だけは聞いてやろうと、ため息をぐっとこらえてフロイドを見据えた。


「──人魚に戻っちゃたんだよねぇ」


  ***


 フロイドを数歩後ろに従えて、アズールは足早にオクタヴィネル寮内の廊下を歩いていた。時刻が時刻であるため、周囲に他の寮生たちの姿は見当たらない。変な噂をたてられる心配がなくなるためそれはいい。のたりのたりとご自慢の長い脚から生まれる広いコンパスでアズールについて来ているフロイドの呑気さについても、今に始まったことでは無いし何かを言ったところで意味がないことは理解しているのでそれもいい。

 問題はただひとつ。

 辿り着いた一室の扉を、ノックも遠慮もなくアズールは叩き開けた。少し派手な音を立てて蝶番が軋んだけれど、これぐらいで壊れるような柔な造りはしていないため気にせずそのまま部屋の中へと足を踏み入れる。そこは、他でもないジェイド・リーチそのひとにあてがわれた寮室だ。
 事前にある程度の経緯をフロイドから聞いていたため、一望できる部屋の中にジェイドの姿が無くともアズールは首を傾げなかった。
 そのままの足で向かう先は、部屋の奥に備え付けられているシャワールーム。副寮長のために拵えられたひとり部屋は、他の寮室に比べてやはり幾らか豪華な内装になっている。洗面所を抜けて、シャワールームの扉を開いた。

 刹那、アズールの視界を彩ったのは、これもまたもう随分と見慣れた深い浅葱の色。
 ぴちゃん、とどこからかこぼれた水滴がタイルに跳ねる水音が響いた。

「ああ、アズール。すみません、こんな時間に態々ご足労頂いてしまって」

 シャワールームに備え付けられたバスタブに、ひとりの人魚が狭苦しそうに収まっていた。陸に生きる人間とは随分とかけ離れたその姿は、まさに海の中に生きるために作り上げられた身体。本来の姿であるそれに戻ったジェイドが、アズールの姿を見て眉を下げ困ったように微笑んだ。
 いつもと同じその表情であるが、今回は普段に比べて幾らか『困りましたね』の感情が真に迫っている。それだけ、この状況が彼にとっても予想外で困惑を呼ぶものだったのだろう。実際、アズールにとってもそうだった。フロイドにとっても、恐らく。

「本当に人魚の姿に戻っていますね……元に戻るための魔法薬は飲んでいないんですよね?」
「ええ。僕の意志とは関係なく突然戻ってしまいました」

 アズールが自分たちのためにと特別に拵えた『人魚が人間の姿になる』魔法薬の効果を解く方法は、ふたつ。元の姿に戻るための魔法薬を飲むか、強い意志で「元の姿に戻りたい」と願うか。時間経過による効果の薄れということもあるが、それについては魔法薬を定期的に飲み続けていれば関係のない話であるため今は除外する。
 そして、それ以外に魔法薬の効果が切れてしまう要因など、アズールは想定していなかった。自分と彼らに処方しているその魔法薬は、アズールにとっての最高傑作とも呼べるもの。痛む頭を抱えながら、ひとまずは事の顛末を明らかにしなければ原因の解明にも至れないとアズールはさらに口を開く。

「……その原因が、恐らくフロイドとの、その、……口づけ、だという話も?」

 少しのどもりを引き摺りながらアズールが問いかけたその言葉にも、目の前の男、ジェイドはにこりと微笑んで応えてみせる。因みに、当事者のひとりであるフロイドはシャワールームの出入口に立ってくわ、と欠伸をこぼしていた。

「……口づけなんて、貴方たち日常的にしてますよね」
「そうですね、フロイドが甘えたなもので」
「はぁ〜? ジェイドだってオレとキスするの大好きじゃん」
「今はそういう話は要りません! それなのに、今日に限ってどうしてかこうなったと」
「はい。一度人魚に戻ってしまったあと、もう一度魔法薬で人間の姿になってフロイドとキスをしたみたのですが、やはり結果は同じでして。なので、恐らくそれが原因かと。ちなみに、口以外へのキスでは特別変化はありませんでした」

 アズールの口から本日何度目かになる深いため息がこぼれ落ちた。
 ジェイドとフロイドの兄弟らしからぬ距離感も、スキンシップも、もう数年来の付き合いであるため慣れてしまっている。一般常識も倫理観も、彼らに説いたところで意味などない。せめて公衆の面前でそういうことをするのは控えろとアズールが口酸っぱく言い含めてきたため、最近は人前でキスなどの過剰なスキンシップをすることは控えられていたが。まさかその延長線上にこんな面倒ごとが待ち構えていたなんて。ひとまず、こうしてジェイドが人魚に戻ってしまう事件が巻き起こされたのが彼らの自室であって良かったとポジティブに考えることにした。

「ちゅーする度に人魚に戻っちゃったらめんどっちいじゃん。だからアズール早く何とかしてよぉ」
「ゴーイングマイウェイは少し黙っていてください。ジェイド、ここ最近で何か変わったことはありませんでしたか?」

 アズールの問いかけに、ジェイドは思考を巡らせ記憶を辿って、原因となりそうな要因を探し始める。けれど、錬金術で変な薬を浴びただとか、恨みを買った相手から魔法をかけられたとか、山で採ってきたきのこを食べただとか、そういった出来事はここ最近ひとつも起きていない。つまり、ジェイドの身体的な面での原因に思い当たる点はないということだ。
 魔法薬の調合については一切変化も加えられておらず、失敗ももちろんなかった。つまり、魔法薬に何か不調があるということも考えられない。

 ということは、原因があるのはジェイドの精神面、もしくは相手となったフロイドのどちらかということ。

「……となると、『フロイドと口づけをすること』と『誰かと口づけをすること』のどちらが原因になったのかを確かめなければいけませんね……」

 苦々しいアズールの言葉がシャワールームに落ちる。何故なら、それを確かめるためにはフロイド以外の誰かがジェイドとキスをしなければいけないから。そして、現状それを確かめるための方法と言えば、

「じゃあアズールがジェイドとキスしてみればいいじゃん」

 フロイドの指摘したそれ以外にありはしないのだが。

「フロイド、貴方ねぇ、そう簡単に言ってのけますけど、それでいいんですか?」
「ええ? 何が?」
「だから、自分以外とジェイドが口づけをすることについてですよ。というかジェイドも。笑っていますけど貴方自身のことですからね? 分かっているんですか?」

 アズールの言葉に、鏡映しの二対の双眸がぱちりとその視線を交えた。似ているようで似ていないふたりが、やはり似ているのだと理解する瞬間だ。
 同時にアズールの方へと戻されたふたつ分の視線が、ゆるりと柔らかく綻んだ。

「別にアズールだし?」
「別にアズールですしねぇ」
「貴方たち、プライマリースクールから倫理観の勉強をやり直してきてください」

 兄弟の枠も飛び越えたいわゆる恋びと同士であるはずだというのに、どうもこの双子はその辺りの枠組みがかなり緩い。いや、もちろんそこに挙げられた名前がアズール以外であれば断固として拒否の構えを見せるのだろうけれど。それにしても、だ。
 番のこととなれば、たとえそれが誰であろうと自分以外には決して触れさせまいとするのがウツボの常識ではなかったか。自分と彼らの間に横たわる価値観と認識の齟齬に頭がまたずきずきと痛みを訴えた。全く本当に、こいつらは相変わらず理解できない。
 彼らについて深く考えても意味などないと自らに言い聞かせて、アズールはなんとかその釈然としない思いを飲み込んだ。今するべきことは、彼らに倫理観の何たるかを説くことではなく、魔法薬の効果が何故切れてしまったのかを解明することだ。

「まあいいです。気は乗りませんが僕以外に適任もいませんしね。さあ、さっさと人間になりなさいジェイド」
「はい」

 バスタブの傍に置いてあった人間になる魔法薬を飲んだジェイドの身体が、あっという間に陸で生きるに適したその形となる。ひとつの尾であったはずの場所には、ふたつに分かれた肢が生えていて。その完成度に、やはり魔法薬の効き目に異常が起きた訳ではなさそうだと改めて理解する。
 もしもアズールとのキスでも人魚に戻ってしまっては面倒だからと、全裸のジェイドをバスタブに留めたまま、アズールの方からジェイドに顔を寄せる。

「……ジェイド、じろじろと観察するのはやめろ。マナー違反ですよ」
「ああ、すみません。物珍しくてつい」

 くすくすと悪戯っぽく笑ったジェイドが目を閉じたのを確認して、アズールはほんの少しの躊躇を引きずりながらその唇に自らのそれを寄せる。これはただの実験で、人工呼吸のようなものだと自らに言い聞かせながら。
 触れたのか触れたのかも分からないような浅いバードキスを落として、アズールはすぐさま顔をジェイドから離す。キスはキスだ。そしてその結果は、

「……人間のまま、ですね」
「なるほど。つまりは相手がフロイドだから人魚に戻ったという訳ですか」

 バスタブに浸かったジェイドの身体は、変わらず人間のそれ。陶器のような肌の色に、あの深い浅葱の色は存在しない。アズールではならなかったから、フロイドとのキスが原因とするのは些か雑な考察であるが、まあそれ以外に試せる相手もいないからそう結論付けるしかない。

「フロイド、貴方の方はここ最近で変わったことは?」
「ん〜〜〜? 多分な〜〜〜い」

 飽きたとでも言いたげにシャワールームの出入口でしゃがみ込んでいるフロイドの答えに、アズールはまた思考を巡らせる。フロイドの身体面にも変化がないということは、つまり。

「では最後に。貴方たち、ここ最近でお互いに対する心情に何か変化は?」

 再び、二対の瞳がその視線を交えて瞬いた。既視感を覚えるその光景を眺めていれば、その結末もやはり先ほどのそれとほとんど同じものとなって。

「特にな〜い」
「特にありませんね」

 なるほど。つまり原因は分からない、と。
 自分を二方向から見据えるヘテロクロミアに、アズールはまた大きなため息を吐いた。


  ***


 結局、その日はもう時間も遅く、内容も現時点ではそこまで危急性の高いものではなかったため、魔法薬の消費を増やさないようにとフロイドにジェイドへのキス禁止令を敷くだけに終わった。その禁止令が本当に守られているのかは知らないが、今のところジェイドから魔法薬が無くなったという知らせは来ていないため何らかの対策はとられているのだろう。
 ひとまず原因の追究はジェイドとフロイドに任せたアズールは、この魔法薬に未だ自分の与り知らぬ性質があるのではないかと考え、そちらを徹底的に調べ上げることに決めた。とはいえ、そもそもで実験対象が少ないこの魔法薬。目に見えない副作用や意図していない効果を解明することはなかなかに至難の業だ。
 古今東西、この世界において魔法が愛する人からの『真実の愛のキス』で解けるというのは常識に近いものではあるが、残念ながら今回の当事者はあのふたり。その常識が最初からこの魔法薬に適用されているならば、この問題はもっと早く明らかになっていたはずだ。
 何故ならあのふたりはアズールと出会った頃にはもうすでにあの距離感で睦みあっていて、キスなんて日常茶飯事。かつ、あの魔法薬を服用し始めてからもその関係性を変えていないのだから。
 全く本当に、お手上げだ。そう言いたいところであるが、問題の渦中に放り込まれているのは他でもないアズール自身が作り出した魔法薬であって。アズールの完璧主義とプライドがその欠陥とも呼べるものをそう易々と見逃すはずもなかった。

 はてさて、そんなこんなで問題発生から早一週間あまり。今日も今日とて特別調査に進捗はなく、校内でジェイドが突然人魚に戻ったなどというニュースも出回らず、日常は停滞した安寧の中に在った。

「おや、アズール。何かの実験ですか?」

 昼休みももう3分の1が終わった頃、ひとり廊下を歩いていたアズールを呼び止める声が背後から飛ばされる。素直に足を止めて振り返れば、そこには相変わらず腹の読めない微笑みをにこにこと携えているジェイドの姿が。歩み寄ってくる彼を待っていれば、ジェイドもまたアズールの目の前でぴたりと足を止めた。彼を見上げる首の角度にも、こちらを見下ろしてくる視線の角度にも、もう随分と慣れてしまっている。
 ジェイドが実験かと問いかけたのは、アズールが昼休みにも関わらず実験着の白衣を着込んでいたからだろう。そして実際、それは正しい事実だった。

「例の魔法薬について調査していたんです」
「ああ、なるほど。お手数をおかけしてしまってすみません」

 困ったように下げられた眉は、彼らしくもない殊勝さを滲ませていて。寮長としての仕事やモストロ・ラウンジでの仕事など、やるべきことは山のように積み重なっているアズールにまた新たな仕事を増やしてしまったことに対して、少なからず申し訳なさを抱いているようだ。
 そんなジェイドの様子にふん、と鼻を鳴らしてアズールは答える。

「誤解しないでください。他でもない僕の作った魔法薬に欠陥があっただなんて、僕自身が耐えられませんからね。これは僕の僕による僕のための行動です。そしてそのついでがお前たちであるというだけの話。心配される筋合いはありません」

 呆れたような声色で紡がれたその言葉に、ジェイドはぱちりと瞳を丸くする。けれどその瞳は数秒もせずにゆるりと柔らかく細められて。
 くすくすと小さな笑い声をこぼすジェイドを、アズールはきっと睨みつけた。

「何を笑っているんだ」
「ふふ。いえ、アズールは相変わらず僕たちに甘いですよね」
「……はあ、今更気がついたのか」

 友人なんて甘ったるいものでは決してなく、もちろん家族でもない。関係性にあえて名前を付けるのならば、腐れ縁の共犯者あたりが的確だろう。興味と、愉悦と、損得勘定と、利害の一致。ただそれだけで互いの傍を選んだ二匹と一匹。そんな不安定で曖昧な関係に、それでもいつの間にやら居心地の良さを感じ始めてしまっていることもまた真実で。

 廊下の片隅でふたりくすくすと微笑み合うオクタヴィネル寮の寮長副寮長コンビに、周囲の生徒たちは悪寒を感じて距離を取った。当の彼ら自身が話していることと言えば、特別物騒なことではないのだけれど。そこはそれ、日頃の行いということだろう。

 そして、そんなふたりの間に飛び込んでいける者と言えば後にも先にもたったひとりだけしか存在せず。

「ジェ〜イドォ〜!」

 たったっと軽い足取りでジェイドの背後から駆け寄ってきた大きな身体が、その勢いを殺すこともせずジェイドの背中に飛びついた。190センチを超える巨体から繰り出されたそのタックルを、ジェイドはたたらを踏むこともなくしっかりと受け止める。なんせこれも彼らにとっては日常茶飯事。驚きもなく、ジェイドは背中に飛びついてきた自らの片割れに言葉を返した。

「フロイド、突然飛びついて来ては危ないと何度も言ったでしょう?」
「え〜? だぁってジェイドは絶対オレのこと受け止めてくれるじゃん」
「全く、困りましたね」
「ジェイド、お前にもフロイドを甘やかすなと僕は何度も言っていますが? お前がそんなだからフロイドがいつまで経っても甘えたなんですよ」
「んあ、アズールいたんだぁ。ジェイドに隠れて見えなかった〜」

 ハリケーンのようにあっという間に全てを壊していく彼の自由奔放さに、アズールは頭を抱えジェイドはにこにこと微笑んだ。早くこいつを何とかしなければと思うけれど、それができれば苦労はない。フロイドの手綱を握ることのできる唯一と言ってもいい存在は、御覧の通り自らの片割れに対して砂糖菓子以上に甘いのだから本当に役に立たない。それでもまあ、締めるべきところは締めているだけマシなのだと思う他ないだろう。
 この双子といると、アズールはため息ばかりついてしまう。そのうちため息でビートが刻めてしまいそうなほどだ。アズールの幸せが遠のいたなら、その原因はこの双子に他ならない。その時はしっかりと責任を取ってもらわなければ。
 そんなことをアズールが取り留めもなく考えていれば、目の前でぎゅうぎゅうとくっつきあっている双子が人目も憚らずいちゃいちゃとし始める。ジェイドを後ろから抱きしめたフロイドがジェイドの肩口に顔を埋めて、その頭をジェイドが撫でて。首だけで後ろを振り返っているジェイドの唇に、ふと顔を持ち上げたフロイドが──

「こら、フロイド。キスは禁止だと言われているでしょう?」

 噛みつこうとした、直前。ジェイドの手のひらがフロイドの口を覆い隠すようにして制した。咄嗟のことに制止の声も飛ばせなかったアズールは、ジェイドのその行動にほっと胸を撫で下ろす。流石にこんな廊下のど真ん中で人魚の姿に戻られては大変だ。
 フロイドも不満をその瞳にありったけ滲ませてはいるものの、ジェイドのきっぱりとした物言いにしぶしぶその身を引いた。普段からちゃんとそうやって手綱を握ってくれていれば楽なのだが。そんな文句はそっと飲み込んだ。

「あー、もうほんとめんどくせー! アズール、早くなんとかしてよこれ」
「今調査を進めているところですよ。お前たちの方で何か発見は無いんですか?」
「なんもないってばぁ」
「残念ながら僕の方もですね」

 体勢をずらして横からジェイドを抱きしめ、ぐずる子供のようにジェイドの肩口に額をぐりぐりとしているフロイドに、ジェイドが宥めるように手のひらを伸ばす。ぽんぽんとあやすように背中を叩く様は、まさに親子のそれであって。
 この双子は本当に。
 アズールが海よりも深いため息を吐いた刹那、フロイドがぱっとジェイドの肩口から頭を上げて廊下の向こうへと視線を向けた。そしてその表情が、あっという間にきらきらと輝き嬉しそうな色を浮かべる。まるで玩具を見つけた子どものようだ。

「あ〜小エビちゃんだ〜!」

 その視線の先にいたのは、今年度の初めに突然この世界へやって来たという異方人、オンボロ寮の監督生の姿があった。
 ジェイドから離れて脇目も振らずその監督生の方へと駆けていくフロイドは、どうやら何かと突飛で面白いところのある監督生のことをいたく気に入ったようで。ここ最近の彼は、小エビちゃん小エビちゃんといって何かと監督生に絡みにいくことが多くなっていた。今のように、ジェイドやアズールをほったらかしてまで。
 まあ、気分屋で好奇心が旺盛で面白いものが好きな彼がこうして直情的に行動すること自体はそう珍しいことではないし、アズール自身はフロイドに絡まれる頻度が監督生に移った分減ったことに喜んでいる部分もあるのだが。廊下の向こうから聞こえた監督生の悲鳴に哀れみの感情だけを手向けて、アズールは取り残されたもうひとり、ジェイドの方へと視線を向けた。

 ──やはり、ジェイドにとってそれは少し寂しいことのようで。

 楽しげな片割れの姿に微笑ましさを滲ませた優しい笑みを浮かべているけれど、眉を下げたその姿はどうしたってアズールには寂しげで悲しげに見えてしまう。きっとフロイドとアズール以外には気づくことも出来ないだろうその変化は、それでも確かにそこにあるのだ。そしてそれは、何もこれが初めてのことではない。
 まあやはり、兄弟であり恋びと同士であり番でもあるのだろう片割れが自分を振り返ることもせず別の誰かの所へ行ってしまうというのは、悲しく辛いことであるはず。難儀な奴らだと思うけれど、その感情を馬鹿にすることはできなかった。

「……貴方も苦労しますね。あんな破天荒が恋びとだと」

 けれど、だからといって特別気の利いた言葉をアズールが紡げるはずもなく。慰めになっているのかも分からない同情だけをこぼしてやれば、ジェイドが瞳を丸く見開いてアズールを見つめてきた。
 ジェイド自身もかなり破天荒で気分屋なところがあるけれど、今回についてはジェイドがフロイドにとことん振り回されていることは容易に理解出来るため、せめてジェイドがあんまりにも思い詰め過ぎないようにと慮っての言葉を吐いた。別にただの親切による慰めではない。そのせいで彼が使い物にならなくなっては困るためだ。

 左右で色の違う双眸に、アズールの姿が映し出される。その姿に、はて、とアズールは疑問を抱いた。
 ジェイドは、一体何に対してそんなにも驚いているのだろう。
 その答えは数秒後、ジェイドの言葉によって教えられる。


「……恋びと、とは誰のことですか?」


 ──今度は、アズールが目を丸く見開く番であった。


「……はぁ?」
「え。いや、あの、恋びとというのは一体?」
「いや、お前とフロイドのことですが?」

 お互いの頭の上にクエスチョンマークを飛ばし合いながら、ジェイドとアズールはそれぞれに相手の言葉の意味が分からないと困惑に困惑を重ねた。
 ジェイドはアズールの言った『恋びと』という単語に対して疑問を抱いている。対するアズールは、フロイドと自分が『恋びと同士』であるということを否定するかのような反応をしたジェイドに困惑している。
 つまり、一体どういうことだ?


「……お前とフロイドは、恋びと同士、言ってしまえば番同士なのでは……?」

「……そのような事実は一切ありませんけれど……?」


 え……? 訳が分からないと言いたげな表情同士が見つめ合う様は、はたからみれば酷く滑稽だったことだろう。けれど当事者にとっては本気も本気。何故なら今、アズールにとっては数年来の自らの勘違いが露呈しようとしているのだから。

 さて、ここで確認しよう。アズールが何故ジェイドとフロイドのふたりは恋びと同士であり番同士であると考えたのか。それはこれまでに何度も言ってきた通り、ふたりの距離感がどう考えても兄弟のそれではなかったからだ。
 出会った当時からハグもキスも日常茶飯事。他の奴らなんてこの世界に必要ないとでも言いたげに睦みあう彼らを見て、どうして彼らを恋びと同士ではないと思えるのだろうか。むしろ恋びと同士ではないと言われた方が驚くに決まっている。
 そんな様子から彼らの関係性を察した聡いアズールは、下手に掘り下げてもいいことはないだろうとあえて彼らにその真偽を問いたださなかった。そしてそれが、この馬鹿げた勘違いをさらに後押しして……今日に至る、と。

 え、いや。僕は悪くありませんよね? これ。

 確かに確認を怠り勝手に解釈した点については反省の余地もあるが、そもそもでそんな勘違いをされるような行動をとっていた双子の方に非の比重は大きいはずだ。そうに決まっている。ここ最近で一番酷い痛みを訴える頭を抱えるように額に手を当てて、アズールは何年にも渡って自分の中に植え付けられていた勘違いに終止符を打つ。

「……つまり、お前たちは恋びと同士でもないのにいつもあの距離感で?」
「フロイドは僕の大切な兄弟です。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でもありません」
「……そう、ですか」

 確かに、そう考えれば様々なことに理由はつけられる。先日ジェイドとアズールが調査の一環とはいえキスをすることになった時、ジェイドもフロイドも特別拒絶の姿勢を見せていなかったことにも、――あの魔法薬が、つい最近になって不調をきたしたことにも。
 監督生がやって来て、フロイドが監督生に構うようになって、ジェイドがその姿を見て寂しげな表情を浮かべるようになって、そしてジェイドにかけられた魔法がフロイドとのキスで解けるようになって。そして前提には、アズールも今になってようやく知った、ジェイドとフロイドは恋びと同士ではなく、少なくともこれまでジェイドからフロイドへの恋愛感情はなかったという事実。

 そして先ほど、フロイドは自分の兄弟だと言った瞬間のジェイドの表情。

 ここからはじき出される答えと言えば。


「……お前、無自覚は何よりもタチが悪いですよ」
「え、あの、先ほどから一体何の話をされているんです?」
「この様子では、振り回されていたのは逆にフロイドの方でしたかねぇ」
「アズール?」


 つまり、魔法薬の効果が切れたのは、結局例の常識に倣ってのことだったということ。
 好きな人からの真実の愛のキスで魔法は解けて、ふたりはハッピーエンド。
 とんだ茶番に付き合わされたものだ。自分の勘違いは棚に上げて、アズールはこの厄介な双子の行く末にため息を吐く。


「──全く、本当に手のかかるウツボたちだ」


 はてさて。それでは理由も分かったところで、僕は魔法薬の再調合にとりかかるとしましょうか。柄にもなく困惑しきった様子のジェイドが追い縋ってくる声を無視して、アズールは颯爽と廊下を歩き始める。
 後はそちらで好きにやってくれ。感情が芽生えたならば、後はもう坂を転がり落ちるだけなのだから。坂の下で大きく口を開けて待っているもう一匹のウツボに、頭から全部食べられてしまえばいい。どうせあちらはこれ以上ないほどに飢えている。ひとかけらだって残されはしないだろう。そう考えるといくらか同情も生まれるけれど、アズールの知ったことではない。

 アズールの下に満面の笑みを浮かべたフロイドと、居た堪れない表情に赤く染まった耳を携えたジェイドがやって来るのは、それから数日後のこと。


2020/7/11

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