後日譚 3
翌日、朝から南海生物が上陸したとの知らせがあった。ヤムライハの魔法で仕留められたアバレウミヘビは、喧嘩をしながらもシャルルカンが捌き切っていた。
午前中はいつも通りの訓練を終えたら、武官の半数は謝肉祭の準備に引っ張られる。半年以上空けた謝肉祭に皆が沸き立っていて、ナマエも途中まで櫓用の木材を運んだりテーブルを並べたりと手伝っていた。粗方セッティングも終われば後は自由行動で、三隊も今回は警備がなく赤蟹塔で皆と別れて部屋に戻っていた。
日もだいぶ傾いてきて、中央通りのランプが灯り始める。どこからともなく聞こえる打楽器の音に、人々の喧騒に、目を瞑った。
謝肉祭ではシンドバッドに挨拶に出向かなければならない。そうすれば八人将はその周囲にいるので必然的に今日が先日の弁解をするチャンスである。
――昨日のセレスタの言葉を思い出す。ジャーファルはそういえば武官を続けることにどう思っていたのだろう。それも市街地警備ではなく海兵に属したことも、ナマエの口から彼に話してはいない。
有耶無耶にしていることはよくない。時間が空けばあくほどに、二人の間に積もっていくものは別物になってしまう。それはいやだった。
ベルトから外した長剣をテーブルに置く。
剣を持つことは、重い。前線に立つことはもっと重い。それでも、魔法使いとして生まれ落ちたことも合わせて、きっとこれは責務なのだろうとそう言っている声にも頷ける。
君はどうしたいんだと、この国の人は一様にそう問うのだ。
コンコン。
ノックの音に次いで現れたのは、ピスティとヤムライハだった。
にししと悪い顔をしているなと思えば、ピスティが背中に隠し持っていたものを胸の前に広げる。
「さあ、約束の日ですぞ!」
彼女の顔と声に、強張っていた顔が一気に緩んでいったのを感じた。どんな時でも、柔らかく穏やかな二人の声が好きだった。
けれど、それとこれは別物である。
緩んだ顔を了承のサインと見た二人はぱあっと笑ったが、すかさず胸の前で腕を交差する。非難の声が飛んできたが、ぶんぶんと首を振り続けた。
「減るものじゃないのにぃ…まあ、でも、先にナマエに見せたいものがあるんだ。ね、ヤム」
「ええ!」
そう言って二人はナマエの両手を掴むと、紫獅塔の方にまで連れて行った。レームという国に行ったことのあるシンドバッドが好んで造らせたという浴場に詰め込まれると、彼女はその奥の湯舟を指差した。
そこにはなにやら赤い実と葉がぷかぷかと浮いている。湯は白く濁っていて、吸い込んだ香りは甘い。
「東方で果実風呂っていうのがあるみたいで、この間の献上品にあったからもらってきちゃった」
「疲れた身体にいいと思って」
「すごくいい香り、ありがとう、二人とも」
やったねとハイタッチする二人に、折角なので三人で浸かることになった。紫獅塔の浴場は広いので、三人でも十分足を伸ばすこともできる。食客たちの共有の浴場は広いが湯舟は大きくはないので、こんなにゆっくりと浸かることもなかった。
どうやら実というのは乾燥した桃のようで、水分を含んだそれを抓めばじんわりと薄桃の汁が滲んだ。
「こういうの、ナマエ好きだろうなあって話してたの」
「ピアスとかそういう装身具、よく見ちゃうって前聞いてたから」
「ヤムは魔法にかまけて興味ないけどねー」
「……」
けらけら笑うピスティに返す言葉もないようで、なんとも言えない表情を浮かべるヤムライハに思わず笑った。
「うん、なんだか、海兵に紛れると、こういうのは良くないのかなあって思ったりするときもあって」
「どうして?」
「だって、女々しいって思われそうじゃない?」
ただでさえ荒くれ者の集団だ。女性性を思い浮かべるようなものは毛嫌いされそうで、だからこそ、傷ばかりの身体にも安心を覚えるのかもしれない。彼らに比べれば細すぎる体躯が、少しでも屈強に見えるように。
ピスティは両手で水を掬って、ばしゃりとナマエの顔にかけた。驚いて目を瞑れば芳しい香りが鼻腔いっぱいに広がって、水滴が顎を伝って落ちる。
「じゃあ今日は、女の子の日だね。好きなものはちゃんと好きって、言える日があったっていいと思うよ。だって、剣を握るナマエはかっこいいけど、かわいいもん」
そういうものは、水に流してしまおうね。
そういってピスティはもう一度水を掬った。ばしゃりと跳ねた水は、ランプの光に反射して、煌めきながら落ちていった。
それから他愛もない話をして、ピスティが顔を真っ赤にして先に上がっていった。
次いでヤムライハが出て行って、少ししたら上がってきてねという言葉に頷く。広い湯舟に一人浸かりながら、逡巡して気付いた。
――服を回収されるくらいは、しているかもしれない。ピスティはそういうところは考えそうな気がして、浴槽から上がって脱衣所まで行けば、二人の姿はあったけれど、案の定服はすり替えられている。
「や、やられた」
「ふふん、甘いよナマエ!」
タオルを巻き付けてぐぬぬと言葉のない言い合いを繰り広げていれば、ヤムライハがとんと肩を叩く。
「ほら、今日は女の子の日だから」
そう言われると、どうしようもなくなってしまって、結局あの露出だらけの服を着ることになってしまった。二人の好意半分、面白半分なんだろうなあと思うとこれ以上言葉を重ねるのも気が引けて、最後にとピスティが髪をいじり始めたのを微苦笑しながら眺めていた。
外はどっぷりと暗くなっていて、そうだというのに櫓から燃え立つ炎の明かりで夜とは程遠い。
ヤムライハたちは先にシンドバッドがいるところに向かっている。ジュリィに声をかけてから行くからと言えば確かにそうだと頷いて、別行動を許してくれた。
――本当は、彼女も学校で知り合ったという子たちと動いているようで、部屋にはまだ戻ってきていない。こういうところの女々しさは要らないだろうと思いながらも、白羊塔まで歩いてきてしまうところが逃げ道のような気がした。ここにはいないとは知りながら、彼の背中を追いかけてしまっているような罪悪感。
ぺたりと素足が石造りの床を踏むたびに、冷たい温度が少しばかり痛かった。
白羊塔の入り口まで歩みを進めた。昼中の喧騒とは程遠く、謝肉祭独特のこの王宮内の静けさが心地よかった。
「…ナマエさん?」
赤蟹塔から小走りで向かってくる影は武官の姿をしていて、声からしてそれがアルサスなのだと知った。
「ーー人違いだったらどうしようかと思ったよ。三隊は休みだったね」
「はい…。アルさんのところも、休みだったのでは?」
「俺のところは、まあ、色々。人数少ないと隊動かすのも都合いいんだよ」
そう言って頬にできた片方の笑窪を指で掻きながら、彼は視線を上に向けた。
「なんだか、見慣れないとどうしていいか…。あ、ナマエさん、城下の方にはいかないの?」
「それが――」
こつん、と背後から音がした。硬い靴が床を踏む音は、たった一つだけ上がったきり続かない。アルサスは目を眇めてナマエの奥を見遣り、それから少しだけ前に踏み出して拳を包んで頭を下げた。
「ジャーファル様、今日もお忙しいようで」
「いえ、少し中の様子を見ていただけですよ」
呆けたままのナマエをちらりとアルサスは横目見て、名前を呼んだ。武官も女中も、彼らにはそう挨拶することが正しい。彼女が拳を包もうとした時、ジャーファルが薄く笑った。
「こんなところにいたんですね」
その一言で、アルサスははっとした顔をした。それからナマエの中途半端な姿勢を見遣って、にこやかに笑い顔を作ると自分は警備の方にと足早に立ち去っていった。セレスタが彼はよく周りを見ている人だと言っていたのを思い出した。
作りそびれた拳を下ろして、ゆっくりと彼の方に近づいていく。
「…ジャーファルさん」
恐る恐る見上げれば、彼は困ったように笑っていた。
「ーーピスティたちに?」
ピスティが編んだ髪に飾られた花を撫でられながら、こくりと頷く。彼の前でこの姿は二度目だ。それでも、以前とは違う緊張感がある。
「ナマエ」
責めるわけではなく、思案しているわけではなく、柔らかくそれでいて今までとは違う何かを孕んだ声音で呼ばれた名前に心臓が跳ねた。
頭の先から足先まで、熱が走る。冷たすぎた床も温いくらいで、逸らすまいとしていた目線は最早合わせることもできなかった。
無意識に左肩を隠そうとした手を止めて、その手で彼の袖を掴んだ。
「…っいや、じゃ、なかったんです。私が汚れていたので、それがいやで、」
すみません、とこぼした声は震えていた。緊張と紅潮と耽溺で、どうにかなりそうだった。
ぎゅうと掴んだ裾が今の精一杯で、意を決して顔を上げようとした刹那。引き寄せられた身体が、彼の広い胸に収まっていた。
インクの香りがする。温かい熱と、脈を打つ音。外の声が遠ざかっていった。
「良かった。どうしていいか、分からなかったから」
耳元で零れた声はほっとしたような音をしていて、ただ無性に縋ってしまいたくなって、開きかけた唇を噛んだ。
もうこのまま夜が明けるまでだって鼓動の音を聞いていたいけれど、王宮内である以上ここも誰かに遭遇するかもしれない。人が、とからからに渇いた口の中で言葉を漏らせば、彼は暫しの思案の後、ひょいとナマエを抱き上げた。言葉にもならない声を気にも留めず、彼は目と鼻の先にあった執務室の鍵を袂から取り出して解錠する。人工的な明かりのない部屋は、ドアの上にある明り取りの装飾から漏れる月の光に照らされて、柔らかく部屋の輪郭を縁取っている。彼は後ろ手に鍵をかけ直すと、机の上に下ろしてくれた。ナマエの方ばかり光が当たっていて、彼の顔が逆光で分かりづらい。なんだかそれも悔しい気がして、もう一度彼の胸に頭を埋めてみた。
「……ひとつ、聞いてもいいですか?」
彼の胸から額を離す。
迷いはあるけれど、聞いておかなければならないとは思っていた。
「……私が武官を続けることを、どう思いますか…?」
心配だと言っていた。けれど辞めてくれとは言わなかった。魔力切れを起こした時も、それが正しいと思ったなら謝るなと言ったのはナマエの矜持を守るためだ。
ジャーファルの左腕を掴みながら見上げた表情は、ナマエには推し量ることができなかった。それでも、眦が眇められたのを見て思わず身構えた。
「貴女が決めたのなら、したいようするべきだと思う」
「……私、三隊付け勤務になったんです。海兵の仕事はーーいろんなことがあって大変でしたけど……でも、やっぱり私は、誰かを守る剣でありたいです」
侍女の仕事でも楽しかった。けれどそれは、騎士の背を見て育っていたナマエの本音を押さえつけていなければできそうにはない。
「そう言うのだろうと思ったよ」
ため息混じりの言葉を薄く笑んで零すと、彼は右の頬に手を添えた。
花の飾りを撫でるように、耳の外郭を辿る指の感覚に腰のあたりがざわついて目を瞑る。熱に浮かされた吐息を飲み込んで、降ってきた柔らかな唇に肩が震えた。
シンさんのところに行かないとと言った声ごと噛みつかれたそれに、為す術もなく、目を開けることも叶わなかった。
少しだけカサついた唇が首筋を伝って左肩の痕を食む。増え続けていく傷を一つ一つ撫でていく彼の熱は、余すところなく愛しんでくれているようだった。こうして傷痕さえ飲み込んでくれるのであれば、悔恨のこの痕ごと、好きになっていけそうな、そんな気がした。
(後日譚 3 了)
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