バルバットの政変以後、煌帝国へ出向いてから早半年が過ぎようとしていた。今や東大陸の大部分を制圧し統治下におく煌帝国を相手に、戦争といった軍事行動にまで発展させずにバルバットの共和制への転換を認めさせた七海連合の長は、漸く自国へ帰れると安堵の溜息をついていた。
長い航海に自国、シンドリアで待つ件の国の王子を思えば、早く今回の会談の結果について知らせてやりたいと逸る気持ちもありながら、海路を進む鈍い船ではまるで焦らすかのようにその道はまだまだ遠い。
先程報告に来た文官によればあと一週間ほどでつけるとのことで、彼は珍しく真面目に執務に取り掛かっていた。というのも詰まる所あまりに休憩を取りすぎたが故のことで、シンドリアで待つ有能かつ口うるさい政務官を思い出しては右手に持つペンが重みを増していった。
そんな、ある昼下がりの事だった。


「シンドバッド王!」


自身の名をそれはもう声を大にして呼び扉を勢いよく開ける文官は、息を切らし指をまっすぐ外へと向けていた。その動作だけで何らかの出来事が起こったのだと彼、シンドバッドはペンを置いて席を立った。


「何があった?」
「人が、そ、空から人が落ちてきました!」
「……は?」


大方南海生物が現れたのだろうと踏んでいた彼にとってその報告はあまりに想定外であり、思わず止めそうになった歩みを早足へと切り替える。
人が空から降ってくるなど、あり得るわけがないだろう。――その"あり得るわけがないこと"に、少なからず湧いてくる好奇心に彼は内心小さく笑った。もしこの場に政務官の姿があったのなら、鋭い目つきで睨まれていたことだろう。
甲板には既に八人将のシャルルカンとスパルトスの姿があり、騒ぎに駆け付けた武官十数名が二人を取り囲むように集まっている。
シンドバッドは彼らの隣に並ぶと船の縁に手をかけ、見遣った少し先の海上で飛沫をあげる一点を見つけた。


「……っ南海生物か!」
「ちょ、王様飛び出さないで下さいよ!? この船じゃあ海面とあれまで距離もありますし――!」


見捨てるわけじゃありませんから、と彼の肩を掴んだシャルルカンは眉根をひそめて視線を海へと放った。飛沫を上げる一帯が赤黒く染まっていることから、その人は相当な深手を負っていると容易に推測できた。それだけでも急を要すというのに、手を伸ばすには遠すぎる南海生物の影に拳を握った。
せめて、空を行き来できるヤムライハがいれば容易に届くというのに。
人間の何十倍とあるアバレウツボの頭部が海面から顔をだし、その鋭く揃った牙を剥いた。このまま食いちぎられる様でも眺めてろというのか。見ていられない。剣の柄を握りしめ、飛び込む覚悟で縁に足をかけたその時。


「っ揺らめく焔の猛追、ファイアボールッ!」


眩しい程の赤い陣が人間を中心に浮かび、突如として現れた火の玉に思わず声が上がった。


「魔導士か!」


アバレウツボは炎に包まれ、海中に沈み遠くへ逃げていったようだった。
荒い呼吸だけが、微かに彼らの耳にも届く。頭に思い浮かんだ既知の魔導士とは少し雰囲気が違うような気もするが、大凡そのような類と見て間違いはないだろう。
ひとまず緊急事態は避けられたところで、隣のシャルルカンが身を乗り出して叫んだ。


「生きてるか!? 今ロープ下ろすから掴まれ!」


いつの間にかスパルトスが抱えて持ってきたロープの先端に括り付けられた浮き輪を放れば、人の影はゆっくりと動いてそれを掴む。自身で浮遊できないほどにはかなり消耗しているようだ。
魔導士はこちらに手を振るような仕草をしたので、ゆっくりと引っ張ってやる。シャルルカンが存外軽くロープを引っ張り上げている様子を見るに、その魔導士は女性なのかもしれない。濡れた手が縁を掴み黒い頭が見えたところでロープを引っ張るのをやめ、彼はその腕を勢いよく引き摺り込んだ。甲板に滑り込むようにして膝から崩れた彼女の左肩から右脇腹にかけて、深い一太刀の傷を受けていた。夥しい血液が海水と混ざり彼女の足元に広がっていく。シャルルカンがその肩を掴んでしまったことで、その口から苦悶の声がにじんだ。


「っぅ、い゛――!」
「ひでえ怪我…! おい、誰か手前の部屋開けてこい!」


傍観していた文官数人が急ぎ船内へと走り去るのを横目見て、シンドバッドが彼女のもとへ歩もうとしたとき、スパルトスが制止をかける。彼は口を開かずにこちらをちらりと一瞥した。――彼が考えていることを、シンドバッド自身既に可能性として考えていた。
それでもあの状況すべてを加味したとしても、その可能性は限りなく低いと結論付けたうえでの行動だ。
無言の圧に笑おうとしたとき、えづいた彼女の声を聞き振り返ると何かに眩しそうに目を細めてからどさりと倒れこんでしまった。慌てて生死の確認をするべく手の甲を口元に近づければ、か細いながらもしっかりと呼吸をしていた。
ほっと息を吐いて、シャルルカンが彼女を横抱きする。
ぼたぼたと相変わらず血と水の混じったそれは、彼女の左腰に提げていた剣を這っては零れ落ちた。
――剣? 既に船内へと消えた二人の背を見つめ、もう一度血だまりを眺める。
剣士と魔導士は決して相容れぬものだという、それはおそらく万人共通の常識であろうと思っていた。実際にシンドリアで暮らす食客の内の二人はこと自身の獲物の話となると、幼い子供の喧嘩のように互いの言い分を譲らなかった。シンドバッドが暫しの思案に耽っていると、視界の端で何かが光るのが分かった。血だまりの中に、何かが落ちている。
拾い上げればそれは、いくつもの切り瑕が刻まれ錆びれた銀のペンダントだった。もしかしたらそれなりに身分のある人物かもしれない。
固く接着してあるのかその蓋を開けることはかなわなかったが、振るとからからと僅かに音がした。


「シンドバッド王、どうかしましたか」
「――いいや、何でもないさ」


スパルトスに笑って振り向けば怪訝な顔をされたが、シンドバッドは気にせず方々へと指示を飛ばした。はい、と一様に皆同じ返事を返して仕事へ取り掛かる姿を眺めてから、彼も船内へと歩を進める。
あの深手ではどのみちシンドリアへ着くまでに目を覚ますことはないだろう。もしかしたらこの船で看取ることだって考えられる。
仄かに香る潮の匂いごと、手の中のペンダントを握りしめた。


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