この目に映るものを

土曜日も、日曜日も、絵を描いていた。
美術部の顧問は部活の終わりと始まりに思い出したように時折顔を出してくる。週に一度か二度、それも平日の日に限るので、土曜日と日曜日は基本的に名前以外の生徒は余程熱が入っている時でないと集まることはなかった。それをどうとも思ったことはない。何せ絵を描くことは一人ですることだ。ただただ黙々と、目の前のキャンパスと向き合う行為。この腹の奥で燻るような、捕まえることなどできない熱量を色彩に変換していく。一人で、重ねていくのだ。
換気のために開け放たれた窓から漏れ聞こえるおそらくはサッカー部の声と、葉の擦れ合う音、鳥の囀り、大小の車が通り抜けていく排気音に振動。初夏というには暑すぎる日差しに焼かれながら存在しているそれらを傍に、手を動かし続けていた。
夏休みが明けたら展覧会がある。十月に提出する作品の構想はすでに頭の中にできていて、今描いているものはその下地となるもの。誰にも見られずに、それでも確かに次に進むために必要な工程だ。人の目に触れる一枚はその積み重ねの先にある。誰もが想像もし得ないような色の重なりの先にあるものだ。少しずつ、少しずつ。この重なりに近道はない。

「侑ー!! ペース落ちてんでー!」
「かんにんしてや!!」

――穏やかな昼下がりを、掠れた怒声に近いような声がかき消していく。
美術部の部室は一階にあり、メイングラウンドと正面玄関に近しいところにあるので、ランニングを行うときは大半の部活が正面玄関を通っていく。今まで、聞こえてくる声がどこの誰だろうが気にも留めたことなどなかったというのに。
後ろに置いていた木のスツールに首をもたれさせて天井を仰いだ。
――侑という名前で思い起こされるのはあの日のことだ。あの宮兄弟のどちらがかは忘れたが、片割れを侑というらしい。流石にもう青筋立つほどそもそも該当生徒との面識もないのだけれど、それでも多少の蟠りが残っている。いや、蟠り――。
パレットの縁が床に落ちる。指揮棒のように絵筆を虚空で振りながら、いや、と漏らした。
蟠りとは違う。確かに思い出せば多少言動に腹も立つが、彼が人でなしであろうがなかろうがそんなことには興味がない。
――ただ、そうだ。バレーボールを宙に浮かすその指先が、頭に焼き付いているだけだ。
そういえば、いつだったかにスポーツは芸術たるか、という趣向の概説を読んだ覚えがある。その著者は、なんといっていただろうか。もう覚えてはいないがそも美しいものはことごとく芸術だと言い切っていた時代もあったくらいなので、暴論ではあるがそれに理解が及ばないこともない。そういう類を、あの瞬間に感じていたのかもしれない。
かざしていた絵筆を握る手を腹の上に置いた。もう、誰の声も聞こえなくなっていた。

それから虚空を眺める時間と絵を描く時間とを交互に挟みながら、気がつけば外は夕陽も沈みかけて暗くなっていた。黒板の上にある時計の短針は五と六の間を指していて、慌ててキャンバスを乾燥棚に滑り込ませて片付けを始めた。
休日の部活は完全下校が六時までなのだがどうしても気がつくとギリギリになってしまう。下校時刻を過ぎてしまうことが何度か続くと最悪部活停止処分を言い渡されかねない。窓の施錠と備品の整頓を確認して、最後に電気を消して部室を後にした。
メイングラウンドも消灯されていて、校内は昼間とは打って変わって静まり返っていた。珍しく階段の電気も消されていていたので、今日は本当に校内に残る生徒が少なかったようだ。
なんとなく、いつもよりも足早に階段を降りていた。やけに静かすぎるくらいの学校に、飲まれそうになる。自分だけのはずの足音に何かが混ざっているような気がする。――いや、それは気のせいではない。階段を降りる上履きの音。それから、廊下を歩く、明らかに別の音。

「――お」
「――っ!!!?」

踊り場に差し掛かろうとしたところで、低い声が弾けた。思わず最後の一段を踏み外しかけ、手すりを勢い掴んで座り込む。両手に抱えていた鞄は急いでいたせいでチャックが甘く、見事に中身が踊り場に散乱した。

「大丈夫か――ってなんやアンタか」

心臓を鷲掴んだまま立ち上がらない名前に、背後から軽快に階段を降りてきた男は呆れるような声音でそういった。少なからず彼が不穏な雰囲気で突然現れたことでこうなっているのだから、もう少し謝罪があってもいいくらいだろうに。
彼――宮侑は、踊り場にまで降りてくると腰に手を当てながらさも面倒そうに一度だけ溜息を吐いていた。

「……ドーモ」

相変わらず出会い頭は最悪だ。寧ろ被害を被ったのはこちらだというのに何故彼にこれみよがしにわざわざ溜息を吐かれなければならないのか。
手すりを支えに立ち上がり、ようやく落ち着き始めた心臓に名前とて盛大な溜息を吐いてやりたいくらいだったがそこはひとまず飲み込んだ。
スカートの埃を一度叩いて、鞄を拾い上げる。休日仕様で大して何も入っておらず軽かったために、スケッチブックが宮侑の方まで飛んでいた。色鉛筆も数本が転がっていて、少しばかり先も欠けている。ケースを開けて拾い上げ、適当に入れ直して最後に彼の足元にあるスケッチブックを拾おうとしたが、すでに床には落ちていなかった。

「……かえして」

彼はあろうことか中身を広げて見ていた。友人にも見せたことがない中身を見られている気恥ずかしさに語気も強くなるが、どこ吹く風と気にも留めないふうにペラペラと捲っている。まるで品定めでもしているかのような視線が、ぴたりと止まった。

「――これ、廊下のやつと一緒か?」

廊下のやつ。
そう言いながら彼は目にしていた画用紙を表にして、名前に手渡してきた。
黒鉛筆でただひたすらに描き殴った海と島影。大橋をまっすぐに描き足してから、練り消しで綺麗には消すことができなかったことを覚えている。そうして衝動に駆られるようにそのままキャンバスに描き起こしたものが先日の展覧会で何かの賞を受賞し、顧問が廊下に飾ってもいいかなどとそういえば話していた。どこに飾られたのかは知らないが、それを宮侑は見たのだろう。
思い出されるのに時間を要したことで曖昧な母音が間延びした。彼はどっちやねんと口をへの字に曲げてから、興味が失せたのか踊り場を横切って階下に向かう。

「なんで?」
「別に。おんなし景色、見たことあるよーな気ぃしたから」

――おんなし景色。
名前の描いた絵に、既視感を覚えたという。描いた場所も知らず、今まで話したこともないようなこの男が、だ。

「……っふ、はは」
「あ? 何がおかしいねん」

彼は不機嫌さを隠しもしないで、一段おろした足のまま、体を半身捻らせて名前を見た。見上げるどころかまだまだ目線は上のままの彼を、横目見てから追い越すように小走りで階段を駆け降りた。

「じゃあ、おんなし景色やったのかもね」

はあ、と生返事の声を置いて、振り返らずに下駄箱まで急いだ。
昇降口を過ぎて正門までの緩い坂を降っていると、門の横に屯していた男子生徒の集団の中に宮の片割れを見た。なるほど彼は月に似て、もう一人は太陽でも模しているのかもしれない。
宮の隣にいた細目の男と一瞬視線が噛み合ったが、知りもしない相手だったのでそのままふいと前を向き直して家路を急いだ。
夕日も随分と暮れて深まった夜がキャンバスいっぱいにあったとしたら、今なら星でも描くのだろうなと頬が一瞬緩みそうになったのを咳払いをして隠した。

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