※ 『綻び、溶けた』の沖田目線となっています。
四ヶ月程前だっただろうか、陽光を照り返す緑の葉が眩しく、彼女が左耳に新しく赤い小さなピアスをつけてきた日のことだった。去年と変わらず明るい髪を高く結いあげ、両耳に突き刺さる赤と金のピアスたちを隠そうともせず、手首にぶら下がる細いブレスレットに指先で煌めく指輪と、所謂ところの不良と呼ばれる類の格好で堂々と登校する彼女は既に、全学年で知らぬものはいないほどの有名人だった。
勿論そんな行為はすべて校則違反で、教師との論争を繰り広げている光景は最早日常茶飯事となっている。
――それもすべて、四ヶ月程前までは。
元々要領のよかったせいかテストで赤点をとることなど殆どなく、彼女は涼やかにーーとはまだ言い難いが、二学年へと進級した。
そうして、あくまで彼にとっての悪夢のような苦い日々が始まりを告げたのだった。
「はよー総司、ほんと朝から騒がしいよな!」
「おはよう平助君。僕が騒がしいみたいに言わないでよね」
下駄箱から上履きを放り出し、爪先を慣らしながら歩いていれば後ろから聞き慣れた声の所為で溜め息が零れそうになる。振り返れば彼より背の低い――というと必ずむくれるのだから精神年齢もまだ幼いと思う――今年入学したての藤堂平助がそこにいた。
腐れ縁だろうか、同じ道場に通っていた彼とは昔馴染みで、偶然にも口裏を合わせたわけでもなく同じ学校に入学してしまった。
一応先輩ではあるものの、そんなものさえむず痒く感じる程の長い時間を過ごしてきた気がするので、いまさら敬語だの呼び捨てだのと押しつけるつもりはない。
総司と呼ばれた彼ははあと朝から重たい溜め息を零さざるをえなかった。
「溜め息しても不幸は出ていかないぞー」
「はやく隣の家の子が越さないかなって考えてたらつい」
「あらまあ、そんな暴言お母さん教えた覚えなくってよ」
「何を教わった覚えもないけどね」
にょきと出てきた手首やら指やらに飾られたそれらが、朝日に反射して思わず彼は目を瞑る。
彼の首に巻き付いた細長い腕は、そのまま後ろに締めあげた。
人より身長が高い部類に入る総司であるにも関わらず、その首に巻き付くだけの差を考えると突然現れた第三者もなかなかの長身だ。息苦しさなど感じさせない涼しげな表情で総司はくるりと反転して彼女と向き直る。
鼻と鼻とが拳一つ分の距離をおき、彼女はすっとその双眸を細めた。
派手なアクセサリーの割に厚すぎない化粧が、酷く不釣り合いなように思われた。
――化粧などしなくとも、充分だと思うのだけれど。
総司は片眉を釣り上げて、皮肉を吐いてやろうと口を開けた。
しかし、それは二人の間に伸びる腕によって遮られる。
「暑苦しいんだってば!」
「なに赤くなってるのさ平助君」
「べ、べべべつに赤くなんか……!」
彼女はするりと離れて二人と距離をおき、光る耳を撫でる。けらけらと高二女子とは思えない笑い声をあげ、指輪の所為でごつごつとした手で平助の頭をかき回した。
「っガキじゃねえっつの! てか名前も毎朝懲りねえのな」
ぱしんとささやかに見せた後輩の反抗心に名前は薄く微笑み、右手の薬指にはめていた指輪を総司の頭の上に置いた。
それから左耳につけた見慣れないピアスを指差し、
「せんせーが楽しくってつい。若気の至りだよって笑ったら怒鳴られちゃった。あ、それあげる。ねえ見てこれ、最近赤好きんなっちゃって」
「僕部活やってるからって毎年言ってる気がするんだけど。あと赤が好きなのは前からでしょ」
返品と突き出した拳を押し返され、薄ピンクのグロスが瑞々しい唇はにこりと弧を描く。
「大丈夫、似合ってるから」
隣に並ぶ平助が吹き出して、そういう意味じゃないと声に出そうとしたところで予鈴のチャイムが鳴る。一番クラスが遠い彼女は、ひらりと身を翻して昇降口とHR棟を繋ぐ通路をスキップまじりに歩きだした。
丸いシンプルで赤いピアスの残像が、笑ったような気がした。
六限が終わり、一日の解放感に廊下が一気に騒めく。
彼はカーディガンのポケットに手を突っ込み、指先に触れたそれを握り締めた。
名前は、総司の誕生日には決まって自分が身につけている何かをくれる。別に高価な物をくれとせがんでいるわけでも不満があるわけでもないが、仮令それが幼なじみだとしても自分の物などあげるだろうか。
(……嫌いじゃないからいいけど)
彼女が選ぶアクセサリーの類と自分の趣向とが割に合うらしく、なんやかんやと休日身につけてみたりしていた。――それも殆ど机の上の飾りの一部となってしまってはいるのだが。
そんなことを思いながらもう一度ポケットのなかにしまい込んで鞄の片手を背負い、雑然とする教室をあとにした。
(そういえば、去年は名前に何あげたっけ)
ぶるぶると震えた携帯に手を伸ばし、目線を僅かに左にそらした。右肩越しに、赤い髪がすれ違う。
後ろで女子特有の高い声が、"誰か"の名前を呼んでいた。
『帰り髪の色直すやつ買ってきて! 私今日バイトだから、終わったら家取りに行く』
相変わらず絵文字もなんの飾りも一切ないメールを眺めながら、総司は下駄箱からローファーを放り投げた。返信のボタンを押そうとして、ゆっくりとポケットの中に仕舞い込む。最後の行にあった言葉に笑う、自分自身の声を聞いた気がした。
『真っ黒にしたら、驚くかなー先生』
買うつもりなんて毛ほどもなかったのに、自転車をこぐ足はコンビニが近づくにつれて緩くペダルを踏んでいた。
駐輪場で片足を地面におろして、迷う。
――彼女が髪を染めた時から、その色は似合っていないと思っていた。そんなことをぽろといつぞやに口にしたとき彼女は笑って、
『私はこの色がいい』
あの時、自分はなんと言っただろうか。
ふらふらと白髪染め用のそれを手にして、携帯を取り出す。カメラボタンを押して写真を撮り、添付して返信した。
どのみちもう仕事に入っているだろうから返信など期待はしていない。
レジに並んで会計を済ませれば、空はもう橙と紫に染め上げられていた。
夜の十時を回った頃だっただろうか。
部屋のベッドでいつの間にか転寝していた総司は、携帯のバイブ音で目が覚めた。寝ぼけ眼で画面の暗証ロックを解除し、アイコンをタップしてメールを開く。家の前にいるよとまるで都市伝説を彷彿させる本文を確認してから携帯をベッドに放り投げて、階段を下りながら前髪をかきあげる。
三和土で靴を引っ掛けると忘れ物に気づき、リビングに置きっ放しのビニール袋を掴んだ。
扉を開ければ生ぬるい風が頬をなぜる。
門灯に照らされた口元は、ふにゃりと歪んでいた。
「寝起き?」
「おはよう」
「バイトお疲れ様、私」
いーっと暗闇に浮く白い歯を剥いて、名前は手を出した。
彼は門扉に寄りかかり、上から袋を手渡しした。その中身を確認すると、彼女は眉尻を下げる。
「白髪染めって勇気いる」
「年取ったって自覚するから?」
「殴るよ。次が染めにくいからに決まってるじゃん」
ぐと拳を固めた彼女をなだめるようにそうなんだと頭を撫でる。ふくれっ面した名前は総司の手を振り払い、鞄から財布を取り出そうとする。
それを手首を掴んで止め、ひらりと踵を返して階段を一段上った。
「べつにいいよ。誕生日プレゼントにしてあげる」
「え、だったら違うのちょうだいよ」
「わがまま言わないの。ほら、明日も学校なんだから早く寝なよ」
「総司」
玄関までの階段を一段残して振り返る。彼女は嬉しそうに笑っていた。
「黒いほうが、似合ってるんでしょ」
ひらりと右手を振った名前は、一歩後ろに下がる。
「――その色が、いいんじゃなかったの」
「飽きちゃった」
嘘でしょ。
そう言いたくなるのを飲み込んで、瞬きを一つする。名前はいまだに顔の横で右手を挙げたまま、苦い笑顔を一つ。
右手の薬指あたりで、なにかが反射した。
――今朝、総司にあげた指輪はそこに収まっていた。
「ありがと、また明日」
「――うん、じゃあね」
門灯の影に、隠れて消える。
足音だけが住宅街の暗闇に埋もれて、しばらくすると門扉の蝶番が軋む音が聞こえた。
部屋に戻って、もう一度今日の朝もらった指輪を手のひらに転がす。
シルバーのリングに緑のような青のような色の細いラインが控えめに輝いていた。
――彼女が、こんな色のものを買うわけがない。
それは。
去年彼が名前にあげた指輪と色違いのものだった。
ふと、さっき挙げていた右手の薬指に嵌めていた指輪を思い出した。
総司は携帯を掴んで、ため息をこぼす。そこにあるのは紛れもなく、一方通行すぎるものであると、知っている。
どさりとベッドに倒れこみ、固く目を閉じた。
次の日の朝に、見た光景を。
いつまでも覚えている自分が女々しいとは思う。そう思うたびに、あの指輪は机の引き出しの奥深い場所に潜り込んでいった。ただ、彼女が身につけるものを外していくたび、最後まで残るそれを見つけては苦笑する自分が少しだけ腹立たしかった。
繋ぎ、止めて
結局はそれもすべてなかったかのように外されて、飾りっけのない細く白い指だけが残る。その指に、もう一度あの輝きが戻った頃には。耳のピアス穴は殆ど塞がり、すこし見ないうちに色違いのそれはひどく錆びれたように見えた。
『左之せんせ』
あの声が紡ぐ、呼び声も。そういえば聞かなくなっていた。