誰か私の呼吸を止めて

毎朝六時に鳴るアラーム。もうすぐ夏が終わるというのに朝日は眩しく、カーテンの隙間から溢れる光で目を覚ました。
今日は朝から雲ひとつもない、快晴だった。


通勤の途中に通る陸橋の、欄干から川面まではおおよそビルの二、三階に相当する高さがある。ここから落ちたところで、運良く致死性の当たりでない限りは痛みに魘されながら生きているのだろうどと考えながら、最寄りの駅に向かう。最近はホームドアが設置されたおかげで、電車の勢いは随分と遠くなってしまった。
混雑する出入り口付近で誰彼の肩がぶつかる。肩にかけた鞄を身体に貼り付けながら、狭い足場でふらつく車内。いつもと同じ時間に、いつもと同じ流れで、時間を浪費していく。
社員とランチに出かける正午を告げるチャイム。午後三時の柔らかい日差し。定時の間際に流れる社内放送。閑散とし始めるデスク。それに合わせて鞄を肩に引っ掛けた。
携帯が時折振動して、家族からのメッセージを報せる。友人のSNSからの通知音。アップロードされた短い動画を眺めて駅に向かうバスを待つ。
やりがいのある仕事。理解のある上司。不意に笑いが起こる同僚。
――恐らく、ここに名前がいなくてはいけない理由などない。同様に、彼女でなければならない理由などない。そんなもの、誰だって同じだと知っている。
数少ない友人は、SNS上で互いに生存確認をしあっている。年に一度旅行に出かける友人との付き合いは小学生まで遡るが、それ以外はネット上だけのものだ。その友人も、もっと親しい友人が別にいて、たまたまいつも通りのそこに収まっていたのが名前であっただけだ。
父と母は昔から仲が悪かったけれど、だからといって家族というカテゴリを崩してはくれなかった。最早その状況に悲観も諦観もしなくなったのは、それが名前にとっての普通に成り下がったからだ。
ありふれていて、それでいて抜きんでた絶望もない日々。現状に満足をしていて、薄く被った向上心と対抗心により踏み留まっている。
――いつも何処かで思っている。生きていきたくない、なんて。
何があれば、もしくは何が欠落していれば、この感情は正当性をもつことができるだろうか。第三者に憂慮される事案は悉くなく、ならばこれは、ただの言い訳で、甘えというもので、所謂ところのメンヘラというもので、頑張れよと常に背を叩かれるものなのだろうか。
欄干から光を反射する川面に飛び込む想像は消えてはくれない。アルコールを飲んだ日の夜は、このまま穏やかに呼吸が詰まって死ねるのではないかと思う。すこんと意識が落ちる臨死に似ている感覚に半ば微笑みながら、変わらずに目覚める悄然を抱えている。
恐らく、生きることに向いていないのだと思う。死にたいという希死念慮が過ぎる強さはなく、漠然と明日が来ることの失望を、あわよくばこのまま墜落していきたい意識とともに腹の底に溜め込んでいた。

バスが終点の駅前ロータリーで停車する。殆ど無意識に腰を上げて足は改札へと向かい、取り出した定期券がタッチパネルの上をかすめた。
五分おきにホームに流れ込む電車はどれも混んでいる。後から乗り込む顔も知らぬ誰かに奥に詰め込まれながら、身動きの取れない揺れの中で空気を求めて上を向く。
車内に貼られた広告の誰もが笑っている。着々とヒーローランキング上位へと食い込んでいく若手ヒーローが、セキュリティ会社の宣伝をしていた。すぐ駆けつけますと笑うヒーローも、死にたくなる時があるのだろうか。この生きてはいたくない感覚はよくあるもので、絶望ではなくて、彼も、たまにはそんなことを考えながら風呂場で洗い流す日もあるのだろうか。
目の際に熱さを覚えて、目蓋を持ち上げる。
今日は朝からよく晴れていて、お昼のパスタは同僚と楽しく腹に収めて、上司に怒られることも大きなミスをすることもなくて。
――ありふれた幸せじゃないかと、笑えるだろうに。どうして、こんなにも胸が空くのだろう。大きさも分からないうろが、埋まらない。
駅をいくつか通り過ぎる。人混みに流されながら押し出されて降りたのは、見知らぬ駅だった。
ぼうと考え事をしていたからか通勤快速に乗っていたらしいこの電車では、自宅の最寄り駅を降りそびれるとすっかり知らない場所になってしまう。
背後でドアが閉まる音がする。
振り返って見渡すと、どうやらここはホームドアがない駅のようだった。間近に感じる風圧にスカートの裾をはためかせながら、乗っていた電車を見送った。
反対側のホームに行かないと、家には帰れない。分かっているのに、黄色い線の上から動けずにいた。
次に電車が来るのは十分後。それまでは、線路から落ちてもすぐに助けを呼ばれてしまう。いや、電車との衝突は運転手に凄惨な死体を見せることになる。枕木を目で追いかける。
――バラバラになった他人の身体が、ここにもあったのかもしれない。その人は、死ぬことで楽になれたのだろうか。こんな思考に絡まれることもなく、笑ってばかりの人生に生まれ変わっているのだろうか。
瞬きを一つした。目の縁の熱さは、未だにそこにいた。


「――線路、落ちちゃいますよ」


強張った声音がすぐ傍で弾けた。手首を柔く掴む手の硬さに驚いて、振り返る。そこにはマスクをして黒縁の眼鏡をかけた男が立っていた。
少しばかり曇りがかった眼鏡の奥にある丸い目は、この場に立ち止まり続けている意図を探るようにして僅かに細められる。


「……すみません」


へらと、癖のような笑い顔を浮かべる。ぼうっとしてましたと、次いで出た言葉に嘘はなく、彼はそうですかと言いながらも手は離さなかった。


「……」


手首を掴む手と彼の目を交互に見れば、少しばかり肩を震わせた後にぎこちなく指から力を抜いていった。


「……突然、すみません」


重力に従って落ちた手がぶらんと揺れる。彼は眼鏡を押し上げて言葉の隙間に空白を置くと、肩を窄めた。


「でも、ほんとに、落ちそう・・・・だったから」
「――そんなつもりは」


続く否定の言葉が、喉の奥で詰まった。どんな言葉も吐き出せなくなって、それでも、比較的常識のある心がとりあえず笑っておけと言っている。


「すみません、帰らないとなので」


踵を返そうとした足を止めるように、彼はあの、と声を上げた。


「――本当に、家に帰りますか?」


正義感や善性が素のままにぶら下がっているような、声だった。ただただ、この先を案じている声。
見過ごせば、取り返しがつかないのではと危ぶむ思考が過っているのだろう。けれどあわよくば死にたいだけで死のうと考えているわけではなく、だからといってそんな言葉を、初対面の彼に語るほど追い詰められているわけでもない。つい答えあぐねてしまえば、彼は少しだけ言葉を閊えさせて、それでも柔らかくて揺らがない眦をたわませた。


「えぇと、僕、で良ければ、少しだけ話でもしませんか?」


大丈夫ですと、首を振って背を向けた。彼はそれ以上、引き留めては来なかった。
胸に詰まっている言葉など、どこにもないのだ。
向かいのホームで電車を待ちながら、間違えて降りた駅ならばもう会うこともないだろうなとぼんやりと思っていた。