不形成な胚だった

次の朝も変わらず六時に目が覚める。身支度を整えて、コンセントの電源が切れていることを確認して家を出る。陸橋を渡り、昨日と変わって雲の多い空を眺めると、向こう側の欄干の先に見える川面には雲間に差し込む青空が映っていた。
日常のどこかに変化を求めたこともある。日々のルーティンと呼ばれる生活の順番や、新しい資格や勉強。ただ、それらに手を加えようと考えるたびに、死んでしまってもいいと思っているのに生きることをしていることがなんだかひどい矛盾に思えて、やめる。


『――線路、落ちちゃいますよ』


いっそ、落ちてしまったほうが気が晴れたのではないだろうか。どのみちあの時間では線路から持ち上げられて怒鳴られる可能性の方が高かった。いや、別に第三者に諭されて叱られたいわけではない。命の重さやら生きることの尊さやらと、そんなことを押し付けられて引き留められたいわけではない。
ただ、あの冷たい軌条に頬を触れてみたかった。
仮令そのあと現実に引き戻されようと、その感覚が死から遠ざけてくれるのではないかという期待が、あったのかもしれない。
ホームドアが開かれる。スーツや制服姿の人でごった返すホームから押し出されるように車内へと詰め込まれる。昨日と同じように空気を求めて見上げた先で、またあのセキュリティ会社の広告と目が合った。
――最近人気が急上昇している、若手実力派のヒーロー"デク"。あの平和の象徴であったオールマイトに匹敵する派手な個性と物腰柔らかな態度で、老若男女問わず人気を博している。誰もが思い描いたヒーロー像に近い期待の新人と謳われていた。
ヒーローは、万能ではない。オールマイトが引退をした神野の悪夢から十年ほどが経ち、彼だけが背負っていた社会の均衡が破られてからそんな空気が漂っている。万能ではないから、努力をしている。ヒーローは努力の人だと、テレビに出演する評論家もそう言っていた。
完璧で完全な人間などこの世にいない。不完全な人間が集まることで、よりよい社会を目指すための文明が発達するのだという。
社会のヒエラルキーのトップに君臨する――政治的立場というわけではではなく――ヒーローという職の人たちでさえ不完全であるというのなら、その下々を生きる名前など、不完全どころが不形成をきわめて最早未成熟な胎児だ。成程確かに、そうであるならばこの精神のちぐはぐさも笑えるかもしれない。


「――こういうのってさ、まじかまってちゃんだよね」
「うわ、なにこれ。痛そー、てかきも」
「なんか元芸能人? とかが上げてる裏垢らしいよ」


電車に揺られながら、今日も誰かが言葉を吐いている。
隣に立つ誰も彼も、たった一人では生きていけない、皮膚一枚を隔てた他人なのだ。



 * * *

午後六時を少し回った頃、丁度帰りの電車に揺られていた。携帯が頻りに着信を告げていて、ただ通話をすることは憚れたので画面だけ確認をすれば、間隔を置いて入っていた着信通知十件のすべてが大家からだった。
最寄りの駅に降りて、改札を抜けてすぐに折り返すと、いつになく慌てた様子の声と、大勢の話し声が入り混じっていた。


「あ、名字です。すみません、仕事で――」
『あ、良かった連絡がついて! 実は、一時間前にアパートの周りで大型の敵が暴れてて』
「――は、い?」
『それで、アパートの一部と付近の送電線とか水道とか結構壊されちゃったのよ!』


駅の階段を下りていく。アパートはここからそう遠くはないところで、救急車やパトカー、消防車が大通りを何台か走り抜けていった。


『今、名字さんどこにいらっしゃるの?』
「ちょうど駅について、これから十分もしないうちに着くかと…」
『詳しくはお会いしたら話すわね。ただ、二週間以上は工事とかで住めないと思うのよ……電気も水道も止まっちゃうみたいだし』


また後でと切られた通話音に、思考が分断されていく。
敵が、現れた。分かる。大型であった場合、もしくは攻撃性を有していた場合、周囲の器物、住居の損壊は著しいことが多い。それが、自宅アパートで起こるとは思いもよらなかった。
救急車のサイレンが続く大通りを抜けて、陸橋を越えていつも通りのはずの帰路に着く。進めば進むほどに人混みが増して、立ち込める砂埃に咽た。足元に細かなコンクリート片が増えていく。倒れた電信柱を踏み越えて、立ち入り禁止テープの脇に立つ警察官にこの奥のアパートの住民だと言えばテープを持ち上げられた。


「あっ名字さん!」


右手の五階建てアパートの公共の階段部分と、バルコニー部分が引き剥がされて鉄筋が見えている。その隣にあったはずの一軒家も、外壁は引き剥がされてリビングと思しき空間が屋根に押し潰されていた。向かいの家も同様にそんな状況で、むしろ全壊でないだけマシだとさえ思える。
呆然とそんな光景を眺めていると、パトカーの脇に立っていた大家と数人の住民、それにヒーローと警察が加わって話し合いをしているようだった。


「大家さん、お怪我は……」
「大丈夫よ、それよりも、名字さん四階だったでしょう!」


大家が指さした先には、四階の自宅と思われる部屋があった場所だ。バルコニーがなくなった分、部屋の中の様子がよくわかる――。


「…随分、開放的に」
「電話でも話したけど、諸々の修繕に一月くらいはかかっちゃうから、申し訳ないんだけどどこか住めそうな、ご実家とか、」


――実家は、会社から遠すぎる。頼れる友人もいない。仲のいい同僚もいない。


「……なんとか、考えます」
「ごめんね、うちも貸し出せる物件はもうなくって……」


そうして呆けている間にやってきた警察官に簡単な身分証明と、あと敵犯罪における保障手当だなんだという申請書類を受け取った。夜も遅いことから、撤去作業や回収作業はすべて明日に回るそうで、今週中に引っ越し業者の手配をお願いしますと一言残して去っていた。
今週は、あと三日で終わるなとそれだけは頭が回った。
――周囲で事を見物していた野次馬が減っていく。残された住民も、最低限のものならば自室から運んでもらえるようで、どこに行くのか知らないが、皆よたよたと時間とともにいなくなっていった。


「……どうしよう」


検分を行っていた最後のパトカーが立ち去る。私物が多く残るせいか、警備の警察官が数人残っていた。
無常に張られたキープアウトの黄色いテープが、風にはためいている。
――遺品を、残さないで済むのかもしれない。
僅かによぎった思考に思わず下を向いて笑った。
急転直下でホームレス。
明日も仕事はあるが、有給を使えば休みにはなる。とりあえず上滑りする思考に疲れて、のそのそと宛もなく歩き始める。ちょうどすぐ先にあった公園のベンチに、ふらつく身体を置いた。
鞄を膝の上にのせて、ワイドパンツの隙間から入り込む少しばかり冷たい風に身震いした。