倖せに味はある?
緑谷は少しの間を置いて、「じゃあ、どうして」とゆっくりと言葉を置いていった。
「…だって、私は、貴方にもらっても、何も、返せないのに…」
毒にしかなり得ない。彼は不特定の誰彼からも必要とされるひとだというのに、そんな彼から分け与えられたものを諾々と受け取って消化できるほど強くない。それは正しくないのだろう。そう思っている。あるいは――願っている。正しくないものであれば、彼がこの不適合な人間にかけていた時間から目が覚めた時に、あれらは正しくないものであったのだと息をつくように否定できるのだろう。貴方の優しさ故の気の迷いなのだろう。誰にでも差し向ける善意の宛先が分かりやすく名前であっただけの話だ。分かっている。だから、早く否定してほしい。夢など早く覚めてほしい。
――手元の染みが増えていく。もう既に打ち砕かれたはずの期待が居座り続けている。
「返さなきゃって思うなら、そうだなあ……名字さんは、自分のしたいことを、もっと言っていいんだよ。貴方だけが思ってることを、願ってることを、そういうのは隠す必要も一歩引く必要もない。貴方がどうしたいかを、聞かせてほしい」
――皮膚を隔てた他人。家族であろうと、恋人であろうと、親しい友人や同僚やそのほかなんというカテゴリに大別された相手であろうと、"他人"であることに変わりはない。言葉を重ねるたびに、相手に期待をする。分かり合えるのかもしれないと、縋っている。
緑谷出久は、ただ、名前の言葉を待っていた。彼にとっては度し難い毒であるはずなのに。
「――私、」
下唇を噛み締める。正しくない。分かっているのに、目の前に彼がいる。吸い込んだ息が肺を巡る。大丈夫だよと、笑っている。生きていてほしいと、無責任な願いを吐いて呪っていったひとがこんなにも目の前にいる。
気がつくと、彼の額と頬にまざまざと盛り上がったまま残る傷痕に手を伸ばしていた。
「――…私、…ご飯、食べてももう分からなくって、いつも、ずっと自分だけ足場がなくて、私は、私が許せなくて…でも、緑谷さん、と、一緒にいる時は、息が、苦しく、なくて、ご飯も美味しくて、温かくて、でも、デクさんをすり減らしてしまう、だけだと思ってて…」
堆積していた泥をかき分けるように言葉を選ぶ。手探りに漁っていく砂の中の一体どれを拾い上げればいいのだろう。でも、だから、でも。曖昧な接続詞だけが宙に浮いていて、要領も得ない音の山に、それでも緑谷は小さな相槌を打ちながら、真っ直ぐに名前を見ていた。
もう彼の顔の輪郭さえ朧げで、鼻を啜って息を吐くたびに、彼の指先が目尻を撫でていく。
「生きてほしいって、貴方が、いうから、私、前より死ぬのが、怖くて、でも生きるのも怖くて、デクさんいないのに、息の仕方も、わかんなくて、」
嗚咽ばかりが喉を通って最早何も形成しなくなると、緑谷は名前の腕を引いて抱き寄せた。後頭部を撫でる手つきばかりはまるで幼な子をあやすようで、耳元で白んでいく夜に似た声を聞いた。
「名字さんがいなくなって、貴方がしたいことは何だろうなあって考えてて……それが、もしも、この場所から飛び降りたいってことだったとしても、それでもいいなって思ったんだ。いっぱい泣いて、いろんなことを話して、ご飯を食べて、それでいつか笑ってくれるなら、僕が何度だって一緒に飛び降りるから」
「……っ」
「だから、僕は名字さんが帰ってきたい居場所になりたい」
――生きていたくないに足る理由を探していた。死にたいと願うには絶望が足らず、無味な毎日に透明な自分自身が積み重なっていた。否定された何かを拾い集めることさえできず、ばらばらに散らかっている名字名前という外装を懸命に取り繕っていた。呼吸をするたびに解れそうになるから息をすることさえ苦しくて、次第に霞んでいった自己と他人の境界線に何処か安堵していた。
鮮烈なひと。彼は、何者にも混じることもなくただ一人の他人としてこの場所に立っている。馴染まない貴方の隣に居られるほどはっきりとした色を持っているわけではないけれど。
――生きていてほしい。落ちてもいいよと、あの日に聞いた、鈍くて柔らかな肯定。
「…っいたい、」
手繰り寄せることをしなくても、貴方はこのばらばらになった名字名前のまま、待っていてくれる。細い糸で縫うように、繋ぎ合わせてくれる。
「隣に、いたい、です…本当は、緑谷さんの、隣にいたい…!」
幼い頃から、倖せというものの形を探していた。倖せというものは、はっきりとした形をしていると思っていた。分かり合えるはずのない他人との間には倖せというものは成し得ず、それはいつだって自分の中で完結したものであると思考しながら、そうではないのかもしれないという想いを否定するにはあまりに他人との境界が希薄過ぎてしまっていた。
けれど、そうだ。きっと、今ならわかる。
「――うん。僕の隣で、笑って、生きていてほしい」
静かな薄い月の夜に落ちる彼の声は、名前の願うものと同じ形をしていた。
* * *
ひとしきり泣いた彼女の声はカサついていて、コンビニで買っていた本当なら温かかったはずのミルクティーを差し出した。
彼女は屋上特有の荒ぶ風に乱れる髪を耳にかけて、すっかり温くなっているのだろうペットボトルを両手で挟み込んでから、こくりと一口を飲み込んだ。
泣き腫らした顔でそれでも淡く唇を弛ませた彼女は、緑谷さんともうか細くはない声で呼んだ。
「…美味しいです」
――もしも、倖せというものに形があるのだとしたら。こんなふうに穏やかに柔らかなものとして、彼女に一心に降り積もればいい。そうして埋もれてしまったとしても、もう苦しいのだと涙に暮れることはないように。あの日に見た水面から差し込む光のように、優しく降り注ぐといい。
帰ろうかと彼女の左手をとって、立ち上がる。
星の瞬く海を泳ぐあのカップの鯨のように、彼女の足元にある薄氷がいつかたおやかで温かい海になりますように。
彼女の細い腰を持ち上げて、二人で屋上から飛び降りた。
(了)