脆い心臓に絡み付いている
あのデクの個性を前に、逃げ切れるはずもないことくらい分かっていた。見知らぬ通りを走りながら、段々と薄暗くなっていく街路灯にこのまま紛れないだろうかとも考えるけれど、彼は見逃してはくれないだろう。
背の高いマンションをいくつか通り過ぎ、住宅街に入ったところでガタついていたコンクリートにパンプスの先を引っ掛けた。盛大に転ぶであろう衝撃に備えてぎゅうと強く目を瞑ると、後ろから伸びてきた太い腕が腹に回された。
「あ、ぶな! …心臓に悪いからそんな靴で走らないでよ…」
ふう、と溜め息に似た息をこぼされる。
言わずもがなその腕はデクのもので、殆ど浮いているような状態の足ではどう足掻いてもこの腕から逃れようもない。
不安定な身体を起こすようにして抱き留められると、向かい合わせになるほかなかった。身体は依然と触れ合う距離にあるというのに、デクは少しも離れようとはしない。あの夜半にあったような不安に駆られるような熱さは何処にもなく、ただただ、彼の静かな呼吸ばかりが頭上で続いている。
「逃げないで」と小さく呟かれた声音にだろうか、足はすっかり縫い留められていた。
――言葉を重ねることの期待を捨てていた。共感などできようはずもない他人を前に、と思考しては向き合うことを避けていた。他人の意見に同調して笑う。否定されても誤魔化して笑う。本人のいない粗悪な評価を曖昧な返事で濁して笑う。隣人の感情を模倣して、相槌を打ったふりをして、中身のない言葉を吐き出して。
そうして、息を続けていた。彼と出会う前はそうやって、自分のものなのか他人のものなのか分からなくなるほどに薄ませて馴染ませた思考回路で擬態し続けていた。これからだってそうしていけば良かった。だというのに、そうするためには彼と過ごした日々が邪魔をする。
「…っなんで、」
肺が引き攣れて上手く呼吸が続かない。離してほしいとその胸に両手を押し付けても、ピクリともしなかった。
「…名字さ、」
「関わりたくないって、言ったじゃないですか…!!」
声が震えるのは随分と久しぶりに走った所為だ。不出来な肺で息を吸うたびにあの家のリビングにあった空気を思い起こしてしまうからではなく、彼のどうしようもないほどに温かい右手に安堵を覚えたからでもない。
この一週間で、いとも容易く有り触れた他人になった。デクという人はニュースで見る大勢のヒーローのうちの一人で、毎日の通勤電車の広告に載っている人で、もう一生、名前の隣に立つこともない人になったはずだった。
「――それは、名字さんの本心?」
――そういう一つ一つが、名前の心臓に渡る血管を潰していくようなものだと彼は露ほども知らないのだろう。
「っ……あなた、が、無責任なことばかり、いうから…!」
デクの吐く言葉の全てが、まるで呪いのように降り掛かる。
生きることも死ぬことも、デクにとっては繋がりのないものであるはずなのに、名前のふらつく足を叱るように其処にいるのだ。生きていてほしいなどという言葉が心臓の裏側でどれだけ細い枝を伸ばしているのかも知らないくせに、またこうして薄らとした期待を擡げさせて小綺麗な言葉を並べたくる。
ひどい猛毒だ。清廉で綺麗な見た目をした、遅効性の毒。
「――貴方の、せいで、苦しい。知らなかったら、貴方に、会わなかったら、こんなに…っこん、なに、苦しく、ならなかった…!」
突き放したがっていた手が、ぐしゃりと白いシャツを掴んでいる。目の縁から堰を切ったように溢れ出した涙など零したくもなかった。貴方の所為だと言ったところでどこも全然、痞えなど取れないどころか、より一層胸のしこりが嵩を増す。
しとどに濡れた袖口で拭ったところで頬を擦るばかりで、夜の住宅街に馬鹿みたいな嗚咽だけが落ちている。
「名字さん」
「っ、何です――!!?」
彼は突然ひょいと軽々そうに名前を抱えると、目の冴えるような光を僅かに迸らせながら地面を強く蹴った。電信柱や家屋の屋根、配管の凹凸、壁と壁の間を器用に駆け上がりながら地面との距離を離していく。
上昇する景色に目を閉じることさえ忘れて見入ってしまったのは、ここしばらく足元ばかりを見ていたからなのかもしれない。デクのいつも見ている世界はこんなにも目まぐるしくて、小さな光に溢れている。一つ一つの光を追いかけることさえ難しく、そうだというのに、彼の踏み締める足も腕も揺らがない。それだけ多くの誰かを抱えて守って、こんなふうに傷を負って、それでも彼は笑うことを選んでいる。関わりたくないと身勝手な我儘に振り回されても怒るどころかこうして話をしに歩み寄ってくる。――不特定多数の誰かに笑っていてほしいと言った貴方のその恐ろしいほどの優しさに、眩んでいる。ウラビティだったら、こんな彼になんというのだろう。対等で在れる彼女だったら――。
すとんとようやく降り立ったのはこの辺りで一番高いマンションの屋上で、彼は冷たいコンクリートの上に名前を下ろすと同じように目の前にしゃがみ込んだ。マスクを顎下にまでずり下げて、黒縁の眼鏡を尻のポケットに差し込む。
名前の後ろに月があるおかげで、彼の傷が夜に浮かんでいた。皮膚の引き攣れで瞬きのたびに瞼が震えている。彼は名前の何も言うこともできずに見上げるばかりの視線に眉を垂させていた。
三十センチもない足場で、下から吹き上げる風に髪を揺らしながら座り込んでいた。まるで音のない夜に放り投げられたように、月明かりだけが青白く世界を染めている。
彼は数度瞬きをしては名前と地面とに視線を泳がせている。それも三度は繰り返したあたりで、デクはへたりと顔を崩した。
「…僕、緑谷出久って言います」
「――え、?」
「僕の中では"デク"も"緑谷出久"も何も変わりはないんだけど、この方が遠くなくなる?」
遠いものにしないでほしい。
いつだかの朝の音に溶けてしまいそうな本音だった。敵から受けた傷に"ヒーローでも"辛いんですねとそういって彼を違うものにした名前に、そうではないのだと怠さに消え入りそうな声で否定した。それでも、デクは――いや、"緑谷出久"は、遠くて然るべきだと飲み込んだ。名前にはその遠さに少しも近づくことさえ許されない者だと、自分自身で線を引いた。そうなれるだけの資格を持つウラビティを羨望が滲む目で見ておきながら、別の世界に追いやった。目の前でこうして笑い、痛みに涙を僅かにこぼしながら、生きるために食事を飲み込む姿を知っていたのに。
「…デクさんは、」
「出久」
「……緑谷さん、は、とても、立派なひとです。優しくて、それが少し怖くもあって、でも、貴方はきっと、ずっと、笑ってるだろうって、思ったから……それは、私には、分からない。自分が辛いことで精一杯なのに、貴方方みたいには――」
「…僕は、名字さんにはなれないし、名字さんの考えてることは口にしないと分からないし、貴女になりたいとも、思わない」
そんなことなど分かり切っていたのに、ガツンと頭を殴られたような衝撃が走った。まるで突き放されたようにも思えて、まとまらない矛盾に唇が歪む。
だからね、と彼は眦を緩めて言葉を続けた。
「僕みたいにとか、誰かみたいにとか…そんなの必要ないのに、そういうふうにしちゃうのは、貴方を追い詰めるだけの脅迫だよ。――えっと、……だから、何が言いたかったかって、名字さんがいなくなって、事務所に戻るたびに、寂しいなって思って、て…僕はあの時間が好きだったから…ヒーローとか、関係なく、僕の話」
名字さんは、とそろりとこちらを伺うような瞳が霞んでいく。冷えたコンクリートに濃い色の染みが落ちていくのを見ていた。緑谷のあの穏やかな双眸から逸らしたくはなかったのに。
「…わ、たしも、」
好きでした。その言葉だけが、吐き出せない。吐き出すべきではないのだと、頭の中で自分自身を引き止めていた。