誰の所為で泣いているのか
※ 番外編(24話の緑谷目線)
プロヒーローデクこと緑谷出久が右顔面や四肢の裂傷が治るまで休業するということについては、ヒーローネットワークやネットニュースなどでも知られていた。元A組の面々からはそういった情報元から知ったのかメッセージがいくつか届いていて、とりわけ直近でも会っていた麗日や飯田からはいの一番に心配を伝える連絡が来ていた。
午前中の間に病院に行くと包帯とガーゼが取れて、抜糸して日も浅い生々しい傷痕を晒しながらタクシーに乗り込んだ。調子はだいぶ良くなって、と静かな車内で個々にメッセージを返して、役所に寄ってから漸く戻ってきた事務所で休業期間中の報告書などを含めた事務作業をしていると、不意に玄関ドアが開く音がした。
書類から顔を上げてパーテーションの方に近づくと、比較的小さな足音が聞こえてきてどきりとする。いや、時刻は十七時を回った頃で、彼女が帰ってくるには早すぎる。――そうして、今朝方に渡した鍵を思い出す。彼女はきっと、自分の意思では使わないだろう。分かっていながらも、彼女の手元に収まる鍵に安心を覚えていたかっただけなのかもしれない。
「デクくん、大丈夫?」
「麗日さん!」
ひょっこりと顔を出したのは緩いパーカーを着た麗日で、手には紙袋を提げていた。
お見舞い、と頬を緩める彼女は紙袋を差し出して、上目で傷痕を見つめる。
「ひどい傷やね…明日から仕事に?」
「見た目がアレだけど、もうほとんど痛くないし明日からまたやっていこうと思ってて」
テーブルに紙袋を置いて、ティーセットを用意する。開業祝いに麗日からもらった一式は、シンクの下の戸棚に並べられていた。戸を引いて、鯨のカップの隣にある緑谷の物と奥にあるそれを一つとる。ポットで湯を沸かしながら、ここ最近立て続けに起こっている敵犯罪で気になっていることがあるという彼女の話に耳を傾けていた。
資料を見ながら話し込んでいれば時計の針も随分先に進んでいて、麗日はそろそろお暇をと腰を上げた。
「――さっきの話、一応飯田くん達とも共有してるんだ。何かあったらまた連絡するね。それじゃあデクくん、お大事にね。無理しちゃあかんよ」
「ごめん麗日さん、ありがとう」
彼女を玄関先まで送り届ける。帰宅時間のせいか前の通りを歩く帰路を急ぐ人たちの雑踏の中で、靴が砂利を踏む音が聞こえた。急いで方向を変えるような不自然なそれに麗日も気になったのか、彼女の丸い瞳がその音がする方に向けられる。身を道路側に乗り出してその視線を辿ると、スカートを揺らす女性の背中が一つあった。背中ほどに伸びた緩くウェーブのかかった髪。俯いているのか背筋は丸まっていて、だというのに踏み出す足は速い。駅とは反対側に角を曲がったあたりで、おそらくは無意識に言葉を転がしていた。
「――名字さん」
「……デクくん、知り合い?」
「え、あ、知り合いというか…」
まるで逃げるような背中だった。
もう姿が見えなくなった角を彷徨わせていた視線を麗日に引き戻す。――目の前にいる彼女がウラビティだと、知っている。同じ雄英高校ヒーロー科として過ごしていた日々を知っている。同い年で、あの体育祭をテレビ越しに見ていたのだと言っていた。
「デクくん、何かあった…?」
「ごめん、麗日さん、今日はありがとう!」
安心していた。勝手にそう感じていた。ヒーローである緑谷とそうではない名字と、突き崩せないほど隔たっていた壁に僅かな隙間ができたのではないのかと思っていた。――本当に、そうだったのだろうか。俯いている後姿。泣いては、いないだろうか。
麗日を置いて走り出した。駅とは反対の通りを進む。彼女のあの足取りではそう遠くに行っていないはずだ。左手にはガードフェンスが続いている。ややしばらくして信号のない十字路に差し掛かると、脇道に入る手前のあたりで何やら二人の人影を見つけた。街灯もなければ建物の灯りも乏しいが、明らかにそれは見知らぬ男と名字だった。煙草の赤く燻る灰が地面に落ちる。人好みのするような愛想のいい笑みを浮かべる男に、胸の奥で何かが蠢いた。こんな薄暗がりに不用意に立ち止まる名字を、あの近さであればすぐにでも引きづられてしまいかねないと思った。おねーさん、と軽薄そうな男の声が耳を通り抜ける。
咄嗟に踏み出した一歩は大きく、ついで彼女の細い腕を勢い掴んで引いてしまった。
「何してるんだ、こんなところで」
思いのほか、固く責めるような声音であったことを後悔する。小さな体躯が胸に収まって、見下ろした先で瞳の縁から頻りに溢れる粒をみた。
胸の奥からすっと冷めていく感覚がした。ぐ、と握りしめそうになる手を緩く掴んで、男を見遣る。何もしていないとばかりに両手を上げる男の顔は、苛立たしげな表情から次第に探るようなものへと変化していった。お前、と言いかけた言葉に何を察してか、名字が唐突に背中を押して歩き始める。懸命に大股で歩くパンプスの音に紛れないように、何ともなかったのかと首を捻りながら問い掛ければ、喋っていただけだと掠れた声で返ってきた。
無言のまま足を進めるほかなかった。彼女の腕を止めることなど容易いけれど、そんなことを望んでいないことくらいわかる。一体誰の所為で、そんな声で大丈夫だと言わせてしまっているのだろう。
事務所のある通りにまで戻ってくるとそこには麗日の姿はなく、忙しない見送りを詫びるべきかと頭の隅で考えているとふっと背を押す力が弱くなった。
足音も消え、くるりと半歩だけ足を引く。未だに乾き切らずに頬に流れる涙を親指で拭った。
「…じゃあどうして、泣いてたの」
――ひどく傷ついた顔だといえばいいのだろうか。
緑谷の指先を避けるように首を引いて、それから再び背を押して歩くことを促した彼女に閉口する。もしかしたらと、喉の奥が渇いていく気がした。
事務所に詰め込まれるなり、名字は一切こちらを見上げようとはせずに頭を深く下げて言い放った。
「金曜から…アパートに、戻れるんです。今までご迷惑をおかけしてすみません。本当に有り難うございました」
荷物を整理してすぐに出ていくという彼女は金曜までの三日間を熟考していない。兎にも角にもここから立ち去りたいがための言葉の羅列に、どうしようもなく――これは、裏切られたというには一方的すぎる。淡いほどの期待というような、このたった数日の空気感の全てを無かったことにしたいと言われているような気分だった。
そう言っておきながら、止めどない涙にカーディガンの袖を湿らせている。化粧の色が袖に移っていくのを、混線する思考回路の中で見ていた。
「…どうして、泣いてるの」
もしかしたら。先程感じていた猜疑が確信に変わっていく。一体誰の所為で涙をこぼしているのだろうと他人事めいた疑問が砕けていく。それに気がついてしまって、伸ばしかけた手が止まる。その指先に透明な雫が落ちた。
「っ……ウラビティ…いました、よね。彼女も、よく笑う人で、やっぱりこういう人がヒーローなんだろうなって思います」
――言わないでほしい。その後に続くであろう言葉を堰き止めたい。名字さんと呼んだところで下ばかりを見ている彼女には何一つ伝わっていない。
「彼女も、貴方も、ヒーローです」
殴打された脳が揺れる。これ以上関わりたくないのだという拒絶に一瞬にして心臓が凍えた。
冷え固まった指先に金属質な何かを押し付けられて、脇を通り過ぎていく名字にどんな声をかけられるはずもなく立ち尽くした。
――遠いものにしないでほしい。ヒーローであろうと、そうでなかろうと、緑谷出久を構築する何かが名字とは全く異なるものであるはずがないのだ。彼女の思考の全てを理解することはできない。だからこそ、一端を知りたい。名字が心のままに涙をこぼして穏やかな夢を見ることができる居場所になりたい。彼女を構成するあらゆる思考を理解することができないからこそ、そうでありたいと願ったのだ。
手のひらに収まる金属片を見下ろした。
『帰ってきていい場所に、入れてくれませんか』
涙の跡が、指先に残っている。
これは紛れもなく、緑谷の所為だった。そうだというのだから、これ以上どんな言葉が吐けるというのだ。思いながらも、彼女がこの先たった三日といえどふらふらと定住できる場所もなく彷徨うことになる方が嫌だった。何かあってからでは遅いだろうという言葉を選べるほど、今の緑谷は名字にとって何とカテゴライズできる人間ではなくなっている。――いや、元々そうだった。ただ、敵犯罪の被害者とヒーローだっただけだ。それ以上でもそれ以下でも無かった。こんなふうに彼女の一端に触れたいなどと思うことすら、間違っていたのだろうか。
心配だから、せめてもの三日はこの部屋に留まっていてほしかった。
ひどく重たい足で階段をのぼり切り、ドア越しになった言葉に安堵した事実に目を瞑る。このドアの先で名字は泣いている。分かっていても、その原因に緑谷がいたとするならばその涙を拭うことなど出来るのだろうか。涙の訳も知り得ていないというのに。
翌日の朝に出勤すると、ドア横のポストの口から何かが飛び出しているのが見えた。近づいてみるとそれはオールマイトの左手で、引きずり出せば案の定名字に渡していた事務所の鍵だった。
その鍵を使って解錠し、中に入る。受付を通り過ぎ、パーテーションを抜けて自分のデスクにカップが置かれているのが目に入った。
白磁にたゆたう鯨。底に溜まっていく涙を、思い出す。
『今まで有り難うございました。どうか貴方の傷が良くなりますように』
ポケットで振動した携帯を取り出す。新規メッセージを告げる一覧画面の中央あたありに、宛先不在のボックスが一つできていた。