全ての人への最善手

※ 番外編(25話の緑谷目線)

毎朝、鏡を見るたびに傷痕が変わっていく。引き攣れるような痛みを伴って、治っていく。毎夜魘される夢は見なくなったが、夜半にふっと目が覚めた時、無意識に彼女の姿を探していた。絶えず巻き起こる敵犯罪に駆けつけるたびに、ネットニュースの文面で顔面の傷に触れられる度に、手首の傷を思い出す。
水道から流れ続ける水を両手で掬った。


「…いって…」


冷たい水が、傷に染みた。

彼女が事務所を出ていって三日目の金曜。そういえば今日にはアパートに戻れると言っていたなと、寝起きの頭がカレンダーを目にしてふっと思い出す。だからといって、緑谷にできることはもう何もない。こうして漸く住処も整ったのであれば、当初の家が直るまではという約束さえも消え去った。もとより果たされもしなかったのだが。
連絡先もブロックされれば残された繋がりなど何もない。住所先を知っているからといって足を運んだところでそれではただのストーカーになるだけだ。本当に、これで彼女とのか細い縁は絶たれたのだ。
朝の気配が漂う事務所でマグカップに茶を注いで息を吐いた。シンクの下の戸棚の中に眠る白鯨のカップは、もう一生だって使われない。
彼女と茶を飲みながら次は一体どんな話題を提示しようかと考えていた時間すらも最早懐かしく感じていた。こうして日々は褪せていくのだなと思うと、どうしようもなく息が詰まった。
それでも一分一秒と変わらずに時間は過ぎていく。午前中のパトロールはいつものように迷い子やら交通事故やら忙しない事象に追われて気がついたら空腹もピークを越えた昼が終わる。事務員が適当に出前などで用意してくれていた昼食をつつきながら、午後三時から登下校を見送りながら市中を見回っていた。
夕方の人出が増えてくる時間になると、不意に広域無差別な無線から連絡が入った。
どうやら大通りで徒党を組んだ敵五人が暴れているそうだ。避難市民も多いことから至急応援をとのことで、急いで駆けつけると其処には見知った姿があった。


「インゲニウム!」
「デク! 良かった、南西方向に敵一人が逃走中だ! 頼む!」
「了解!」


避難誘導と敵の対処に当たっている飯田の頭上を駆け抜ける。周囲は騒然としてるが、大きな倒壊も見受けられず、被害者も少ないようだ。逃走中の敵は白のバンに乗り込んでいるとのことで、いくつかのビルを越えたあたりで異常な走行を見せるバンを発見した。対向車線に時折はみ出しつつ信号無視を繰り返している。電線に黒鞭を括らせながら追いかけて、射程距離に入ったところで車を絡め取った。同時に周囲の交通環境に目を配らせながら、それぞれの衝突を回避させるために黒鞭をコントロールさせる。急ブレーキ音が続いたが、玉突き事故は起きてはない。


「デクだ!」


交差点の手前で敵の捕獲をし飯田に報告していると、徐々に人集りができ始めていた。敵の対応がひと段落すると、今度はこうして集まってくる一般市民の対応に追われる。警察のサイレンが響く中、飯田とともに損壊した現場の後始末をしながらヒーローとしてのそういう仕事もこなしていくのだ。この辺りは上鳴の方が上手なのだろうなと、いつも思う。


「デクの傷、生で見たの初めて」
「やば、ネットのやつより結構悲惨じゃん」


ひらひらと手を振りかえしながら、時折紛れるそんな声に笑ってみせる。


「デクさん大丈夫ですか」
「有り難う、大丈夫ですよ」


かけられた心配の声に目尻を垂れさせれば、気をつけてと返ってきた。


「…緑谷君、後は警察に任せて俺たちは行こう」
「うん、そうだね」


現場に集まったヒーローたちに挨拶を済ませて、飯田とその場を後にした。


 * * *

「なんだか、元気がなくないか?」
「え?」


報告書の作成を終えて役所への提出を飯田とともに済ませてから、半個室のある食事処に寄っていた。米飯を腹に流し込みながら互いの近況と最近麗日から聞いていた事件の話をしていると、唐突に彼がそんなことを言い始めたのだ。


「そうかな…?」
「君はいつも気がついたらなんでも背負ってしまうからな。俺の気のせいなら、それがいい」


こんがりと焼かれたサバをほぐしながら飯田は言うが、確信があってのことなのだろう。口の中に残っていた米粒を飲み込んで、水を喉に流した。


「……飯田君、結構前に、屋上から飛び降りた人を受け止めたって言ってたよね」
「ああ、もう半年か、一年か前だったな」
「その人、今はどうしてるとか知ってる?」


飯田は手を止めて箸置きに戻すと、少しばかり苦い顔をして微笑んだ。


「生きているといい…としか、言えないな」


店内のざわついた声が酷く遠く聞こえた。


「…飛び降りたところを救けたからといって、救えたことにはならないのだろうな。その方の生活を、知っているわけではないからな。ただ、緑谷君がもしも同じ思いで悩んでいるのなら、俺たちにできることは、その方がまた何かしてしまったとき、最速で駆けつけること以外にないのだろうとも思う」


手首の傷が、脳内にこびりついて離れない。屋上から飛び降りる姿がやけに鮮明で、届くことはないのではないかと猜疑する。たった一度だけですよと彼女はいっていたけれど、一度だってしてしまったのであれば、二度目の抵抗は薄らいでしまうのではないのだろうか。
――こんなこと、彼女だけではない。飯田でさえ経験していて、そしてその答えは最善だ。最速で駆けつけること以外、できることはない。何処までも寄り添えるわけではない。遭遇したその全ての人に、同じだけの心を配れるだろうか。そうでなければならないと分かっている。
――分かっている。
――彼女は今、何をしているのだろうか。生きていたくないと泣いているのだろうか。生きることを遂行していたくはない彼女にとって、ほんの少し先の未来を見ることはあっただろうか。やりたいことなどと、少しでも思考することはあったのだろうか。


(…名字さんがしたいこと、知らないなあ)


生きていてほしいと願うばかりでその先にある願いをそういえば聞いたことがなかったなと、今更になって気がついた。