薄氷を往くから
通勤快速の止まる駅から大通りを歩くこと五分、信号を右手に曲がってさらに小道に入ったすぐに、そのビルはあった。一階がデクの事務所であり、二階は事務員等が使えるように部屋がある。主要ヒーローがデク、他事務員が二人だけのまだ小さな事務所で、中古のビルの一、二階層を買い取ったというそこは、確かに、まだまだ発展途上さを窺わせた。
曇りガラスのドアを押し開ける。白とナチュラルブラウンを基調とした明るい無人の受付を通り過ぎ、奥の部屋へと繋がる引き戸を引いた。手前に応接セットが並び、パーテーションを越えた奥のデスクで、物影が動く。
「――お疲れ様、名字さん」
「お疲れ様です、デクさん。もう、事務員の方は帰られたんですか」
「うん。今日も平和だったからね」
パーテーションを越えて顔を出すと、窓際のデスクで伸びをするデクがいた。ブラインドはしっかりと閉じられているので、今日の業務はおおかた終了したようだ。
ここの事務員は定時にはほぼ帰っている。夜の緊急時には事務所の電話がそのままデクに直通で流れるようになっているそうだ。この一週間、事務員を見かけたのは朝の二回ほどで、名前のことはヒーロー関係者だということにしてあるせいか特に何かを言われたことは今のところない。
上の部屋を間借りしておいて日中顔を見せにも来ないヒーロー関係者というのも甚だ疑問しか浮かばないが、デクがそれでいいというのであればそうなのだろう。
名前は空いているデスクに鞄を置くと、水道で手をすすいでからポットに水を張りスイッチを入れた。
――彼是、一週間が経つ。
あの公園で出逢った夜にそのまま事務所へと案内されて、シャワーも完備してある二階の仮眠用だという部屋を一つ間借りしている。六畳ほどの一部屋に簡易なベッド、ソファに小さなデスクがあるのみではあったが、まだソファで寝起きしていた。
胸にあるのは柔らかなベッドで深く眠ることへの後ろめたさのような思いで、既にこうして厚かましくも居座っているのだから意味などないと分かっている。
ポンと小さな音と共にお湯が沸き、デクのマグカップと適当な紙コップを並べる。急須に茶葉を入れて、マグカップにお湯を注いだ分を急須に戻した。デクは静岡出身のようで、ここにある茶葉は基本的に静岡県産の上等な茶葉なのだそうだ。品名を調べたら、デクの出身までヒットしたのはつい一昨日の話である。
「どうぞ」
「あ、ありがとう」
ことん、と湯気の立つマグカップを彼の前に置けば、目線をわずかに泳がせた後に笑って受け取った。
――二階に住み始めた翌日からだ。
名前がぎこちなく入り口のドアを開けて顔を覗かせると、彼は中扉を開け放ったまま待っていた。そこに漂うのは緑茶の香りで、デクはお疲れさまと急須を片手にそう言って笑っていた。
次の日も、彼はそこにいた。
手持ち無沙汰で落ち着かなく、急須を半ば奪うように受け取ったのはそのさらに次の日で、そうして、事務所に着いたあとにはこの青い香りがほのかに漂う茶会が始まった。
紙コップを両手で持ちながら、息を吹きかける。まだ熱くて飲めそうにもない。諦めてデスクの上に置けば、こちらを見やっていたデクと目が合った。
「うあ、えっと、ごめん、」
「――…すみません、あと三週はかかるそうで」
「いや全然! それは大丈夫!」
歯切れの悪い返答を返されるも、いつものことなので次いで出てくる言葉を待った。
デクというヒーローは、活動をしていない間はコミュニケーション能力が下がるらしい。オンとオフの切り替えが激しいというのか、気が抜けているというのか、彼のそういったところを的確に表現する言葉は持ち合わせてはいないのだが、それがひどく人間的な気がして、何となく居心地がよかった。
「……会社から少し遠くて、大変だよね」
ライトに照らされる髪は、光に当たると少し緑がかって見える。まるで新緑の鮮やかな夏を想起させるその色は、デクというヒーローのイメージ性にぴったりだと思った。
ふわりと癖毛が揺れて、彼の丸い目がちらりとこちらに向けられる。
「…住む場所をこうしてお借りできているだけで、幸せだと思います」
幸せ。口をついた言葉は、誰にとっての幸せだったのだろう。ホームレスにならずにいること、こうしてヒーローに手を差し伸べられたことで、少なくとも他人より恵まれていただろう。そういう意味での幸せだろうか。
「どうして、荷物を殆ど置いてきたの?」
――荷物整理を終えた日から数日、不意に始まったこの時間。当たり障りない自分自身の話から、仕事の話、好きなものの話、取り留めのない話を広げては核心を突くことを、突かれることを避けてきた。
軌条を眺めていた名前を図り損ねていたデクにとって、今までのこれらは名前という人間性を知るための時間だったのかもしれない。
見上げる瞳はいつものように幼げで、それでいて鋭い。そばかすの散った頬は少しだけ緊張していた。
「……、断捨離です」
腑に落ちない顔だった。彼の表情は、考えていることをよく物語る。
「……前に、ホームで言ってましたよね。話をしようって」
「うん」
「話せることなんか、ないんです。だって、理由がないから」
簡易なキッチンに寄りかかる。
パンプスを履いた足はむくんでいて、濁った血液が足先にぐずぐずと溜まっているような気がした。
デクは顎に指を置いて考えようとしているようだけれど、自分の中にない感覚なのか、唇を尖らせただけで思考が止まっている。
不完全な人間だ。彼も名前も。そして、皮膚を隔てて交じり合えない他人。共感という言葉は存在しているが、実際に他人と共感することは得てして不可能だ。共に感ずることは、隔てられている以上成しえない。自分の中に積もっていく感情を言葉にしたところで、理解とは遠く及ばない。分かっている。
それでも、言葉にしてしまいたがるのは、誰かと生きていたい気持ちがどこかしらにでも残っているからなのだろうか。そんな自己矛盾が相変わらず気持ちが悪かった。
「……置いてこれる気がしたんです」
過去を追憶するためだけの品も、明日のために思考する本も。捨て去った分だけ、これから進む先はより薄氷のようになっていくのではないだろうか。
それがいい。そのほうがいい。いつ軌条に頬を預けてもいいほどに、追想するものはあぶくでいい。
デクはマグカップから立ち上る湯気を見つめていた。
こんな話を聞いたところで疲れるだけだろうに、本当に、彼の優しさというものは――。
「――名字さん」
「はい、」
「今週の土曜は、空いてる?」
やはり、彼は笑っているのだ。こんな無関係な他人のために、心を削って笑っている。それが、名前には分からなかった。