この空虚の正体を知っているか

二人掛け用の大きくはないソファの上で目を覚ました。窓から差し込む朝日はブラインド越しで、隅に置かれた観葉植物の緑が白地の壁を背景に枝を伸ばしていた。
化粧をしたままに眠っていた顔はひきつっている。ダウンライトをぼんやりと眺めて、いつも通り鳴り始めたアラームを止めた。


「……最悪」


出逢って間もない相手に、こうも迷惑をかけながら呼吸をしていた。ベッドで眠ることの罪悪感からソファに埋もれた身体は浅ましく眠りについていて、だというのに、頭は一向に冴えていなかった。
だらりと、携帯を握る手がソファから落ちる。ゴトンと派手な音を立てて、携帯が床を滑った。拍子に画面が明るくなり、一通のメッセージを報せている。表示されている名前を見て、目を閉じる。
昨日、定時に上がれていたらと想像する。丁度敵が巨大化して暴走した頃には家についていただろう。大抵すぐに窓際にあるテーブルで、味のしない夕飯を胃に詰め込んでいる。暗がりでみた開放的な部屋の光景に、見慣れたそのテーブルはなかった。
――そんな、想像をして、息をつめた。目は覚めている今では、ただ酸素に喘ぐ心臓が早鐘を鳴らして、結局息を吸いこんだ。

外に出ることさえ人目を気にして、このままではいけないだろうと風呂に入った。ユニットタイプの簡易なビジネスホテルのような風呂場で馬鹿みたいな嗚咽を吐き出して、昨日と同じ服を着た。皺だらけのワイドパンツを気にしながら、カバンを肩にかけて部屋を出る。細い階段を下りて、短い廊下の奥にあるドアを押し開いた。朝七時の事務所はまだ静かで、デスクの並ぶ部屋を抜け、受付を通り過ぎて曇りガラスのドアを開ければ日差しに浮いたコンクリートが目に飛び込んだ。
渡されていた合鍵で施錠する。
丸裸の鍵を、キーケースにしまうこともできなかった。



一時間とかからずについた我が家は相変わらず窓枠さえ残っていない。既に一台の引っ越し業者のトラックが止まっており、どうやらその部屋の住人は無事次の住処が決まったようだった。


「……おはようございます。名字です。急で申し訳ないのですが、自宅が敵被害に遭いまして――はい、ですので、有休をとらせていただければと……あ、いえ、明日からは通常通り出勤いたします――」


悲惨なアパートを見上げながら会社の上司に連絡する声は至って平静だった。三、四日くらい休めばいいのにとの進言を断り、通話が切れる。
幸いに残してきた仕事も締め切りにはまだ日もあり、尚且つそれは名前でなくとも内容の精査はできるものだ。
階段があったであろうところに立っていた警察官に声をかける。聞けば、上がる手段がないということと倒壊による二次被害に巻き込まれないためにヒーローを必ず連れ立って整理しなければならないそうだ。警察官が指さした方向に三人ほどヒーローがいて、その中には昨晩のヒーロー――デクも、そこに立っていた。
基本的に同性のヒーローが立ち合ってくれるそうで、彼の隣にいたボブヘアの女性が視線に気づいて近寄ってきた。


「あ、ウラビティ……」
「わっ知っててくれとるん? ありがとうございます!」
「朝早くから、大変ですね」
「いえいえ、そんなー。お手伝いできることがあれば、なんでも言ってくださいね!」


にっこりと笑う彼女は、記憶よりも大人っぽくなっている。それもそうだ。最後に見たのは、名前が高校二年生の頃だ。
彼女の個性は触れたものの重力をなかったことにするというもので、彼女の肉球のような指先が肩に触れるとふわりと足元が浮いた。
宇宙飛行士はこの感覚を何年と続けるせいで、帰還してしばらくは歩くこともできなくなるそうだ。
確かに、身体は軽かった。
瓦礫にまみれた部屋は、本当に辛うじて原型を留めているようで、土足で上がったフローリングは砂埃とコンクリート片によって踏むたびにじゃりじゃりと音がした。
窓際から三十センチほどはえぐられている。ベッドも半分ほど引きずられて最早使えそうにもない。
跳び散らかったガラスに、テレビの破片。倒れこむ三段ボックスに、下敷きになるクッション。ワンルームの奥にあるキッチンでは、衝撃で冷蔵庫上の電子レンジが玄関まで吹き飛んでいた。正面の壁に凭れる冷蔵庫はドアが外れかかっていて使えそうにもない。そんな光景を横目見ながらクローゼットを開ければ、締め切られていたせいか比較的綺麗だった。


「もう家具は使えそうにあらへんね」


あちゃ、と窓際の方で部屋の状況を見渡す彼女が独りごちた。そうですねと何となく返した言葉に、彼女は慌ててごめんなさいと小さく謝った。思い入れなどあったわけでもない。
大丈夫ですよと笑えば、ウラビティは苦笑いをこぼした。
支給されていた段ボールを組み立てながら、朝に見たメッセージを思い返す。
部屋に荷物を置いていいと、今日のこの整理を見越して先に送られてきた言葉は優しい。一か月近く見知らぬ人間が上階にいるというのに、仮眠室であったならこれからはそこで休めなくなるというのに、たかだか線路で、そうしてここで出逢った縁だと笑った彼の心情が分からない。ヒーローとはそういうものなのだろうか。職業としてのヒーローではないというのなら、この優しさは毒だ。彼の足元からじわじわと染みていく崩壊。それに甘んじようとしている名前もまた、毒だったといえよう。
防塵用のマスクの下で、吐くように小さく笑った。最低だ。こんな毒。

クローゼットの中から服を段ボールに詰め込む。もとからそこまで多くはない。真冬用と夏用に分けてしまいこむ。スーツケースには一週間分の衣服。そのほか細々とした雑貨を入れて、できた段ボールの数は片手で足りる数だった。


「……残したものは、瓦礫と一緒に処分されてしまうけど、いいの?」
「はい」
「断捨離?」


――なんて耳障りの言い言葉だろう。
そんなところですと笑って、立ち上がった。
生きたくないのだと涙なんて耐えてみせる癖に、こうして服を詰めている。使えそうな日用品を集めている。家電が壊れている様に落胆する。明日からどうするかと算段を立てようとしている。同時に、もうこのままいっそと思う声が沸く。
段ボールと名前の身体が浮く。地面に下ろされて、整理を終えた住人と話すデクと目が合った。


「ウラビティ、すぐそこのコンビニまで、段ボールを運びたくて」


それならばと申し出た彼女の個性は離れすぎると解除されてしまうそうなので、二人で何の重さもない段ボールを抱えてコンビニまで持ち運んだ。住所を書き込もうとして、手が止まる。店員の急かすような視線に、携帯を取り出した。
事務所の最寄にあったトランクルームの住所を写す。吐き出しそうな唾液を飲み下した。