波立つ水槽だけが残っている
「そういえば、海月って最期は消えてなくなっちゃうんですよね」
手のひらよりも小さな海月が天井で右往左往している様子を眺めながら、彼女はそう言った。
羨ましいだなんて、言葉が続いてしまいそうだった。本当にそう言っていたのかもしれない。
名字はただの一般市民で、たまたまホームで話をして、駆け付けた敵犯罪の被害者で、そうして上階に住んでいる同居人とも言えない人だ。それだけの関係性であったとしても、思う。
「……どうしたんですか、急に?」
彼女の手首を思わず掴んでしまってから、はっとした。何度も瞬きを繰り返しては苦味を隠すような微笑みをこぼすこの表情は、ホームで見た顔と同じだ。あの時と同じ、緑谷も名字も、全くの他人。
それでも、離してはいけないのだろうと思った。
「……名字さんが、突然二階から消えてたら、寂しいと思う」
流れ始めた人混みに紛れながら、彼女はそっと手首を振りほどいた。
「……そんなの、
* * *
日も沈み始めた夕方頃に帰りの電車に乗った。
丁度帰宅時間と重なってしまった車内には平日の比ではないにしろ、いつもよりも近しい距離感でデクの隣に並んで手すりに掴まっていた。
見上げると車内広告にデクの顔を見つけてしまった。隣に立つ人物像と少しもぶれないヒーローがそこにいて、そして名前と懲りずに関わり合いを続けていく姿はどこも揺らがない。
デクはマスクが暑いのか、時折息継ぎをするように細く長い息を吐いていた。
彼も同じように今生きているのだなと思うと、どうしようもなく苦しくなった。
事務所に帰るなり、デクは手に提げていた紙袋から白い箱を取り出した。
「どうぞ」
「……?」
両手で受け取ってみると、それなりの重量感がある。つまみを外して蓋を開けてみれば、そこにはクジラが揺蕩う白を基調にしたカップが入っていた。尾鰭が平面から飛び出して緩やかな曲線を描きながらカップの持ち手になっていて、縁にあしらわれた金箔が水面のきらめきに似ている。
「いつも紙コップじゃ味気ないかなって」
頬を指で掻いて照れくさそうに笑うデクから、視線を逸らす。
――あと、三週間だ。ここを出て行くまでに、たったそれだけの日数のために、彼は名前と向き合おうとしている。
あと敬語やめよう。継ぎ足された言葉に、息が詰まる。
「……私、いなくなるのに」
「でも、名字さんの物は増えたってかまわないだろ?」
「……増えたら、」
増えたら、捨てることが怖くなる。
折角機会を得て捨て置いてきたというのに、消えてなくなるためにと最低限を持ち運んだというのに。なんて、ひどいことをするのだろう。一つずつ捨てていく痛みを、また抱えろというのだ。また、心臓の裏側を掻きむしれというのだ。
胸の前で箱ごと抱えたまま唇をかんだ名前に、デクは声を零すようにしていった。
「……海月を見ながら、何を、思い出してたの?」
――痛いから、忘れようとしていたものだ。ふいに思い出して、何重にも羽二重を重ねて飲み込んだ。だというのに、彼の声は容易にその重ねを引き裂いて中身を暴いてしまう。腹の奥底にしまい込んでいたはずの声が、あぶくのようにあふれ出た。
「――浮気を、されたんです。好きだった人に、初めて。そうしたら、私は別に、いてもいなくても変わんないなって、何だか、私全部、否定されたような気がして」
もう何年も昔のような、たった数日前のことのような、そんな曖昧な記憶とともに喉がおさえつけられていく。
――たかが、たった一度の浮気程度。結婚を約束した仲でもなく、それでも、相手と名前と、同じだけのベクトルを向け合っていると信じていた。信じていて、そうではなかったのだと殴りつけられたのだ。大嫌いだった自分ごと、同じだけの目に見えないそういうものの分だけ、自分の事を好きになれていたような気がしていたというのに。
明確な第三者に初めてつけられた、傷というには一方的すぎる鋭利にして鈍痛。血を分けた母でも父でもなく、全くの他人によって否定されたような、いや、否定された全てに、こんなものかと気づいたのだ。
相手の女の子は綺麗な子だった。容姿を一つ、否定された。
優しい子だったという。落ち着くことができる相手だったという。中身を一つ、否定された。
残された名前がここにいた理由は、何だったのだろう。
そんなものをと笑う人もいるだろう。実際、彼女たちはそんなこともあると笑っていた。そんなことだ。そんなくだらないことを思い出して、掃き溜めを腹の内に溜め込んで笑った。未だにこんなものを引きずっていたのかと自覚した。馬鹿馬鹿しい自分。こうして誰かに吐き出したところで毒にしかなれない自分。
何のために一体生きているのだろう。デクのように、ウラビティのように、チャージズマのように、誰かのためにすら生きていない自分が、彼らと同じように生きている意味が、一体どこにあるというのだろう。
「死にたいとか、そういうのは全然、分からなかったけど、それなら少し、多分、分かる気がする」
中身のなくなった紙袋を畳んでデスクの上に置いた彼は、握りこむ白い箱の中からカップを取り出して、名前の両手におさめた。顎から落ちた水滴が、カップを伝って底に溜まる。
――廃材にまみれたコンクリート片の中に、あの日の記憶も埋もれている。
「きっと、それは、悲しくて、すごく寂しいね」
光を反射するあぶくが浮いていた。