虚を重ねた模倣の果て
カチカチと刃が滑る音。カッターの鋭いとは言い難い刃が手首を撫でる。裂けた皮膚の下からあふれ出る赤い血も、白く光る脂肪の塊も。それらは生きていくために必要ではないけれど、死なないためには必要な行為だった。
死にたい。生きたくない。リストカット。傷跡。滴る血。屋上からの景色。穏やかな波。高架下。すべて、生きてはいたくないと表現するためのファッションだっただろうか。
手首を切るという行為は昔に一度だけした。あれは恐らく、浮気を知って別れてから一月が経った頃だったように思う。
唐突に傷をつけたかった。いてもいなくても変わらない自分がそれでも死なないために温かな血を流し続けて、痛みを訴える神経回路に自分という存在を肯定したかったのかもしれない。二度目をしなかったのは、傷跡が目立つことに気づいたからだ。"死ぬため"により深く手首を切る勇気はなかった。
構ってほしいだけなんだろうと誰が言ったかはもう忘れたけれど、そんなわけがないと吐き出した言葉さえ突っ返されて反論することはもうやめた。
――死なないためだ。生きてはいたくないと常々吐き散らしながら、死なないための道を選んでいた。
羽二重を重ねることに慣れた頃、社会人になった。
手首の痕は皮膚の皺のようになっていた。たった一本の細い傷は癒えて薄くなったというのに、その頃から生唾を飲み込む癖が増えた。
仕事先は人生が楽しいという風な小綺麗な人たちばかりで、非の打ちどころもないような同僚上司の集まりで、自分の不出来さに言葉を吐くことさえ躊躇われたのだ。
「うわ、この間の映画に出てた主演の俳優、自殺したらしいよ」
帰りの電車の中は疲れ切ったサラリーマンに、携帯の画面に釘付けの高校生やOLと、年齢も性別も統一性のない集団で溢れている。同じ方向に揺られながら、四方から漏れ聞こえる会話のうちのひとつを拾ってしまったのは、無意識だったのだろうか。
「つい先月? くらいにアイドルの誰かと熱愛報道出てたよね?」
「えーなんかうまくいってなかったらしいよ? そのせいとかなのかな」
「そんなので自殺する? 重すぎでしょ」
次回作とか決まってたのにね。楽しみだったのに。てか明日どうする?
駅名のアナウンスの声に紛れていく過去と未来の話。
誰かの自殺も、他殺も、病死も、災害も、携帯一台分の軽さしか持ちえない。
――他人には、その最期など到底計り知れるものでもないというのに。
『きっと、それは、悲しくて、すごく寂しいね』
他人だ。皮膚と皮膚を隔てて、交わることのない人。そんな彼が揺ら揺らと今にも鮮やかな無色の雫を零してしまいそうな瞳をさせながらそう言った。
言葉をいくら重ねたところで、共感とは程遠いはずだ。所詮、デクと名前は全くの別個体であるというのに、彼はそんなふうに言ってのけた。デクの言葉はまるで、カップの白を揺蕩うクジラのように、奥深くに沈み込んでくるようで、息ができなくなった。
だから、あの場から逃げた。逃げたところで行く先は自分の住処でもない二階の一室だというのに。逃げ込んだ扉の先でうずくまりながら、声も押し殺してただただ無意味に涙ばかりをカップの底に沈めていった。
あれから三日間、顔を合わせていない。仕事を終えた後は事務所の電気が消えるまで、どこかで適当に時間を潰した。どんな顔をして何を言えばいいのか、分からなかったのだ。
――そんなこともあると笑った彼女たちにも、そうだよねと笑って返した。幸せそうな顔をした誰かを、幸せそうな名前に擬態して祝福した。
模倣、擬態、積み重なる本心とは別物の言葉。どれが自分自身だったのか、分からなくなった。
悲しいよね。寂しいよね。彼の言葉は、浮気をされた当初の名前にとって最適解だっただろう。そうだというのなら、今は何を求めているのだろうか。他人に正解を求めてばかりだ。
――死にたい。減速していく電車の甲高い音に紛れて、息が漏れた。
改札に定期をかざして、残高をちらりと確認した。まだあと二週間はもつだろう。そうすれば、あの家にも戻れるはずだ。家具も家電も何もなくなった真っ新な部屋に。
腕時計を確認しながら、あと二時間程度の時間をどこで費やそうかと手首から駅前のカフェに視線を上げたところで、足を止めた。
「……お疲れ様」
ジーンズに白い無地のカットソーを被った彼――デクが、出口の短い階段を下りた先でぎこちなく手を振っていた。マスクをしていても分かるほどに表情は歪んでいるが、それは名前も同じであっただろう。
階段の最後の一段で足を止めたせいで、後ろからくる人の波に肩を押されてぐらつく。デクが伸ばした手に支えられるよりも前に、パンプスが地面を踏んだ。
「……どうして、」
「……謝りたくて、でも、事務所じゃ会えそうにないと思って」
往来を避けるように壁際に移動してしまってから、逃げ場がないことに気付いた。逃げようと算段していた思考にも、気付いた。
デクはいつもの度の入っていない黒縁の眼鏡の奥で、瞬きを何度も繰り返していた。
「帰って来ないんじゃないかって、思った」
行き交う人の目が突き刺さる。デクの目を見上げてから、ゆっくりと歩みを進めた。
「……すみません……仕事が、長引いて。この間は、ありがとう、ございます」
「無神経なことをいって、ごめん」
斜め後ろで弾けた声に、曖昧に笑ってしまったのは最早ただの癖だった。
歩道の脇を走る車が赤いランプの尾を引いて走り抜けていく。前を歩く四人の集団から漏れ聞こえる会話が、二人の隙間に降り落ちる沈黙を埋めていた。
彼が私服を着ているということは、今日も終業間近での出動要請はなかったのだろう。五分袖のシャツから伸びる腕は傷だらけで、腕時計の下に隠れる一筋を思わず握りしめた。
「……私は、貴方にここまでしてもらえるような人間じゃないんです」
「――それ、もうやめようよ」
デクの身体が後方で止まった。右足を引いて振り返れば、駅前の電光の逆光で見えづらい顔が顰められているのだけは分かった。
「僕と名字さんは確かに違うけど、だからって僕の方がすごいとかすごくないとか、そんなのあるわけないだろ」