名称未設定な関係性
仕事が終わる頃になると、メッセージが入ることが増えた。緑谷出久と名字名前とを結びつけるための関係性に具体的な名称はついていない。否、つけることを恐れている――そのほうが、近いのだろう。その恐れの正体に気づかないふりをしているのは、この左手の痕が事あるごとに視界に入るからだ。
臆病で、それでいて消えかかりそうな自尊心を抱えている。もう傷つきたくないのだと怯えている。雨に濡れる肩を見て、無害な自身の肩に目を伏せていたというのに。
「名字さん、行かないの?」
二月に一度あるかどうかという程度で開催される同期会に半年ぶりに顔を出したのは、ただの気まぐれだった。
酒に飲まれる感覚自体は嫌いではない。寧ろあの眠りにつく瞬間は好ましくも思える。意識がぶらんと放り出されるような感覚を味わったのは、そういえば思い出さなければいけないほどには時間も経っている。その時でさえ自宅のミニテーブルで飲んだくらいなもので、同期会のように人のいる手前話すことと食べることと酒を飲むことを同時並行に進行させてくことが苦手だった。どれかが欠けていても他人の目についてしまうので、擬態するにはいつも以上に最大限の努力を行使する必要がある。だというのに、こうして斜向かいのよくランチに行く同期の芹澤に手を引かれながらも断らない足取りは、最近調子が良いからなのだとも思う。少しだけ、食べることが苦ではなくなった。――彼と食べているときの方が、実のところ美味しい。それでも少しずつ、変わってきているのが自分でもわかった。それに安堵の感覚の方が強く覚えるのは、生きることに向き合っているからなのだろう。そういう思考回路を、今は素直に受け入れられる。――気がしている。
目の前に並々と注がれたビールのジョッキを片手に、乾杯の音頭を取る同期の中でも昇進した男に合わせて、喉の奥に流し込む。
同期で飲み会があるのだと送信したメッセージへの返信に、その時は気付いていなかった。
隣に座る名前も薄らとしか記憶にない男に大皿から料理を取り分けて、話さない分手元を動かしながら時間が過ぎるのを待っていた。酒を適度に煽りながら、ちまちまとした肴を口に運び、馴染むように笑った。
アルコールと揚げ物が腹の奥でぐちゃぐちゃになっていく。同期が仕事の愚痴をこぼすたびに共感の相槌を打つ。――彼女のように、考えていることをうまく言葉にする術がほしい。押し黙ることを選んでいたせいで、自己解決もできないくせいに腹の奥で煮詰めていたせいで言語化する術を失っていた。こういう場で自分の思考を詳らかにさせるためには、辿々しい言葉ではいけない。誰かの共感や否定や肯定を獲得するための相応な会話を成立させるために必要なものが脳の隙間から悉く滑り落ちている。
喉の奥で燻っていた言葉にもなりきらない音を、またアルコールで流し込んだ。
* * *
仕事が終わると、まるで日々の業務連絡のような味気ないお疲れ様と打ったメッセージを送っている。返ってくる言葉はいつもと同じかと思いきや、今日はどうやら同期で飲み会があるとの旨だった。
珍しいこともある、と思いながらそうは言いつつも彼女のそういう交友関係において知り始めた期間は半年どころか二ヶ月とない。気の置けない仕事仲間と話ができていればいいと考える傍ら、内心苦虫を噛み潰していた。
殆ど毎日交わしているメッセージ。それらは世間一般的にも明確な関係性を証明するものにはなり得ない。
二週間と少し前に、彼女は切れ端を寄せ集めるように言葉を吐き出すことを選んでくれた。隣にいたいのだと溢した名字の言葉に安堵して、曖昧にぼかしてしまったことを今更ながらに後悔している。
隣で笑って生きていてほしい。他でもない緑谷の隣で、その他大勢のうちの一人ではない名字に。
崇高な願いのような言葉の羅列にも見えるが、開いてみればただの欲に過ぎないことに気がついた。それも本当に最近の話だ。
雨が傘を叩く中、彼女の手のひらに頬を挟まれて約束だとか細い願いを積み重ねた夜。細い指が、温度のある手のひらが、彼女の意思によって緑谷の頬に触れて瞳を捉えていた。それが、嬉しかった。名字の中に間違いなく緑谷がいるのだと思えた。それと同時に、単純な欲が顔を出していたのにそこで漸く自覚した。
そして、それを未だ彼女に伝えていない。伝えるべきかともあぐねている。もう少し――いや、何が満たされれば伝えるのだろう。そんな基準などないのだろうに、渋っているのは緑谷と名字が向け合っているベクトルが等しいかどうかを探っているからだ。
メッセージ画面を開いたまま、事務所の椅子に深く凭れる。着替えたはいいものの、一向に足が家へと帰りたがらない。
何処で飲んでいるかと聞くのも野暮かとも思いながらも、せめて迎えに行くくらいは言っておきたい。誰とも知れない――緑谷がいうのも可笑しな話だが――輩に連れ添われて歩いている姿を想像するのも腹の奥がざわつく。
一時間、ぐだぐだと椅子を回しながら返信を練ってから、終わった頃に連絡をしてくれると安心すると随分遠回しな文面を送って画面を暗くした。