降り積もる沈黙の正体
名字から飲み会に行くのだというメッセージを受け取ってから二時間を越えたあたりで、携帯が振動した。知らぬ間に椅子の上で器用に転寝をしていたようで、肩が震えたことにすら驚いて目が覚める。慌てて携帯を取り上げれば、新着メッセージを告げるポップアップが表示されていて、詳細を確認するより先に事務所を飛び出した――ものの、寝起きの所為で鍵を忘れて一度デスクに戻ってから、戸締まりを確認して最後に施錠した。
駅までの道すがらにメッセージボックスを開けば案の定それは名字からで、頬が緩みそうになるのを下唇を噛んで堪える。
『もう終わるので、電車で帰ります』
文面は至って通常運転で、酒には呑まれないタイプのようだ。それはそれで安心もするのだが何となく残念な気も湧かないわけではない。否、湧かない。断じて。
最寄りはと聞けばすぐに知った駅名が返ってきた。こういう時、駅を使うよりは空路を選んだほうが早いのだが彼女の周囲がどうなっているのか予想もつかないので、大人しく改札を通り抜けた。幸いにして事務所の最寄り駅からそう遠くはない。帰宅時間も相俟って電車の本数もまだあるので、急いで返信を打った。
『危ないし、迎えに行くよ』
『ありがとうございます、駅で待ってますね』
思いも寄らない即時的且つ肯定的な返信に、キーボードをタップする指が止まる。脳内では一度断られるまでが正直なところセットになっていた。
――何となく、察しがついた。
十五分としないうちに表示通りの駅名で降り、ひとまず大きな改札口を出てから通話ボタンをタップするより先に『東口のコンビニの前にいます』と見計らったように現在地が送られてきた。降りたこともない駅に手間取りながら東口の階段を降りて首を左右に振らせると、正面ロータリーの奥にコンビニが見えた。
近寄ると、店内の眩しすぎる照明を背に女性二人が柵に腰をかけていて、その脇に上背のある男性が一人立っている。
――帽子のツバに指をかけて、直前まで外すか悩んだ。照明の明るさに尻込みをして、目深に被り直して会釈をしてから歩み寄る。名字にとって自分自身の立ち位置を、この顔を見せることによる不利益を、測りかねている。
「今晩は、名字さんを迎えに――」
「わ、本当にお迎えだったんですね」
女性が口元に手を宛てがいながら言った言葉を飲み込みそびれて、曖昧な母音を落としてしまった。
名字は彼女の肩口に凭れるようにして俯いていて、一瞬眠っているのかと思いもしたがゆるゆると持ち上げられた頭にそうではないが近しい状態ではあることを知った。
「てっきり私たちに気を遣ってるのかと」
「大丈夫です……ほんと、すみません」
「名字さん同期会久しぶりだったから、つい飲まされ過ぎちゃったみたいで」
同期の芹澤だという彼女は、自力で立ち上がろうとする名字の肩をやんわりと支えながら腰を上げた。彼氏さんが来たなら安心ね、と目を細めて笑った芹澤に否定も肯定も出来ずに名字の背中に手を当てた。
すみません、と小さな謝罪に大丈夫だよと微笑めば、ず、と微かに鼻を啜る音がした。
「それじゃあ名字さん、また来週ね」
「…はい、今日はすみません」
「大丈夫ですよ、おかげで私も早抜け出来たもの」
芹澤は隣に立っていた男の腕を引きながら、ひらりと手のひらを振って踵を返した。仲睦まじげな大小の背中をぼんやりと映していれば、不意にまた、鼻を啜る音が一つした。
「…名字さん、気持ち悪い?」
「そうじゃ、なくて」
名字の手にあったペットボトルを攫って、顔を覗き込むようにして屈めば彼女はより深く首を曲げていく。そうして、恐る恐ると言った風に緑谷の服の裾を掴んだ。
「…おしゃべり、したいです。緑谷さんと」
聞いてくれますか。
そろりと持ち上げられた頭に、胸が空いた。
彼女はいつも、怯えている。彼女が硬く結んだ言葉を解くように吐き出す言葉を受け止める相手に、拒まれる不安を抱えている。そんなこと、あるはずもないのに。
いつもより血色の良くなった顔に乗る双眸は今にも溢れそうなほど膜を張っていて、喉がひきついた。
服を摘む名字の手を取って、駅前の通りに向かって歩き始める。半歩後ろを歩く彼女の足取りは、まるで実態のない雲の上を踏んでいるようだった。
「何か、あったの?」
コツン、とタイルを打ち鳴らすパンプスの足音は、この場を歩く誰よりも遅い速度で繰り返される。当て所なくタイル張の道を進む。駅から離れていくのを知りながら、事務所に向かうべきか結論を出しそびれていた。
名字は何処を見ているのか分からないがひたすらに頭を下げていて、ハイネックと下ろした髪の隙間からうなじが見え隠れしている。肩が僅かに震えていて、それが寒さからではないことは分かっていた。
沈黙が二人の隙間を埋めている。彼女が腹の奥底で積らせた言葉を探すには、夜は長く、先行く道に行き止まりはない。
「わたし、思ってること、言えなくて」
何処となく眠気を孕んだ声は硬さを帯びていた。
「そうじゃないのにとか、そうだなあとか、思ってたのに、言えなくて…ちゃんと、わたしも、思ってたのに」
「うん」
「緑谷さんは、待っててくれるから、下手でも、聞いてくれるから、喋るのが、怖くないです」
そんなことはないんだよと、本当は言ってしまいたかった。彼女の周りにだってこんなに怯えずとも沈黙を待っていてくれる他人は存在しているのだと、緑谷だけではないはずなのだと言ってしまいたい。けれどそうは言ったところで彼女自身がそれに気がつかなければただの否定に終わってしまう。――緑谷出久が隣にいる理由も、薄まっていく。
うん、と少しばかりの間を置いて打った相槌に、名字は足を止めた。
「緑谷さんだったらって、思って、たら、話がしたくなって…すみません、忙しいのに」
擡げていた頭は一向に上がらない。段々と舌足らずになっていく。
立ち止まった名字の前に踏み出して背中を向けると、彼女の腕を引っ張って背負いこむ。わ、と短い悲鳴が耳元で弾けるが、すぐに体重がもたれかかるくらいには名字の意識は薄ぼんやりとしているようだ。
「大丈夫だよ。僕も名字さんと話がしたかったから」
――名前のない関係性に、安堵と僅かな焦燥を覚えている。
橙に染まる街灯を二本、通り過ぎた。
「名字さん、あの――」
肩口に、頭の重さを感じた。
首を捻らせて背を見やれば、瞼がぴったりと閉じている。目尻に乗った小さな粒が、街灯の灯りに反射していた。