明日の話をしよう
身体が宙に浮いた様な感覚に、深い水底を漂っていた意識が薄ぼんやりと浮上する。音を出すまいとした静かに立てられたドアの音で、次いではっきりと目を覚ました。
ソファの肘掛けにこめかみを預け、両脚は揃えて反対側の肘掛けの方へと伸びている。足先から肩口まで丁寧にかけられた毛布を眺めていると、ふいに壁を隔てた先からシャワーの音が聞こえてきた。
テレビボードの上にある木目調のデジタル時計は数字の七とゼロを並べている。
土曜日の朝はどこも静かで、水滴が床を叩く音に混じって緑谷のくしゃみがやけによく響いた。
昨夜のうちに身体に溜まっていたアルコールのせいで足の先まで重だるい。ここしばらく摂取していなかった物質に内臓も悲鳴をあげるらしい。
小さく息を吐き出した。沈んでいく胸に合わせて吸い込んだ無色の息は、矢張り、軽かった。
こうしてリビングで朝を迎えたのは緑谷が怪我で休業していたあの日以来だ。瞬きを一つしてから起き上がると、風呂場の引き戸が開かれる音がした。
酒を飲んだ翌日特有の冴えない頭をソファの背もたれにもたれさせていればそれからややもせずに、恐らくは忍足でドアに近づいてくる気配がした。
開かれたドアの先にいた緑谷はまだ寝ていると思っていたのだろう名前を捉えると、少しだけ驚いた顔を浮かべてから目元をすっと細めて笑った。
「おはよう、名字さん」
もたれていた首を持ち上げて、あげかけた声の嗄れ様に一瞬だけ躊躇った。
彼は濡れた髪をタオルでぐしゃぐしゃと掻き撫でながら歩み寄り、ソファ越しに名前の髪を梳くようにして撫で始めた。
ひどい声だね、と眉尻を下げて笑う表情に目を伏せる。彼の指先が額を掠めていくたびに、不思議と瞼が重くなっていく気がした。
「気分は? 気持ち悪くない?」
「……だい、じょうぶです」
おはようございます。
眠そうだねと梳く手を止めて笑った彼は「うん、おはよう」と確かめるように同じ言葉を繰り返した。
彼の右目は、柔らかく目を細めながらも未だ僅かに傷口を引き攣らせていた。
世間的には休日にあたる今日も仕事のようで、家主不在のまま居座ることなどできるはずもなく彼と同じ時間に家を出た。
まだ寝ていても、という優しさに首を振り、化粧がこびりついた目元を覆う。涙と乾燥でひどくよれているだろう顔面を、日差しが眩しいですねと言って誤魔化した。
エレベーターに乗り込んで一階のボタンを押す。機械音だけが響いていて、手持ち無沙汰に垂れた髪を耳にかけた。
「――明日は、休み?」
「? はい、休み、ですね…?」
エレベーターが三階で停止して、ドアが開かれる。スーツ姿の男性が一人乗り込んできて、そこで会話は途切れた。
――明日。
緑谷の顔をを覗き込もうと頭をわずかに持ち上げるより先に、左手の指先に彼の手が触れた。中指の爪の縁をなぞり、それから指の腹を重ねるような、辿々しい手つきに上げかけた頭を急いで下ろす。
「明日、どこに行きたいか、考えておいてほしい、な」
少しばかりこちらを伺うような言葉が耳のそばで囁かれ、意味を理解するよりも先に反射的に頷いた。
安堵に似た吐息が頭上で落ちる。
明日、と飲み込みかけた言葉が舌の上で転がった。
明日。事務所は隔週で日曜日を休みにしているのだと、そういえばいつだかに話していた夜を思い出す。そうしてようやく、弾かれるように彼の顔を見上げた。
「約束」
緑谷の声に重なって、ロビーに到着を告げる音がなる。
目の前の男は携帯から顔を上げると、スタスタと足早にエントランスを抜けていった。
重ねられた指先が名前の指と指の間にするりと入りこみ、柔く手を引かれながらエレベータを降りる。
「み、みどり、やさん」
「ごめん、嬉しくて」
マスクや黒縁の眼鏡をしていても、緑谷にはあまり意味がないのかもしれない。
駅までの長くはない道のりでこぼしていく会話はとても些細なものばかりで、それらを取り零さずに言葉を返してくる彼の手がこれから冬に移ろう気温に反してひどく熱かった。
「帰り道気をつけて。仕事が終わったら、連絡するね」
改札を前にしてそれだけいうと、彼は人混みに紛れていった。
――ごめん、嬉しくて。
愛想とは違う、純粋に本心からするりと落ちてきたのであろう彼の言葉が、喉の奥を通っていくのが分かる。熱いものを飲み込んだ時に似たその少しだけ苦しいような熱に息を吸った。
電車の広告に映る“デク”の姿。アルコールでぼんやりとしていた脳内に酸素が巡っては晴れていく。
『名字さんが好きだから、これからも隣にいたい』
今更になって、彼の言葉を噛み締めている。
――下を向くには、目頭が熱い。
どれだけの何が、日々に振り積もろうとも明日というものは漠然としていて不鮮明で不安定なものだと思っていた。それらは潮のようにとぷりと喉のあたりまで満ちていて、多少の満ち引きはあれどどう踠いてもそこからは抜け出せ得ないものであるのだと、思っていた。
足早にホームから降りて自宅への道を行く。そうして家になだれ込むように駆け込んで、絡れるようにして玄関先で膝をついた。
充電の切れかかった携帯を握りしめる。
水を飲んで今日はゆっくり休んでねと、見計らったかのように送られてきたメッセージに視界が僅かに揺らいだ。
――隣にありたいのだと、願っている。あの高く阻まれたフェンスの向こう側に、足を投げて座るような夜ではなく。例えるならば、陽だまりにあるベンチに並ぶような、そういういつかもあるのかもしれないと薄らと夢を見ている。ゆっくりと静かに潮が引いていくような、そんな気が、している。
息を吐く。パンプスを脱ぎ捨てて膝を持ち上げ、キッチンの先にある部屋の窓際に腰を下ろす。柔らかい日差しが冷たい床を仄かに温めていて、安心した。
延長コードから伸びる充電ケーブルを手繰り寄せて差し込み、メッセージ画面を開く。
無機質な画面の奥に、確かに緑谷がいる。
――息を吸う。早く明日になればいいのにと、言葉の羅列を目で追いながら彼の柔らかな眦を思い出していた。