閑話 夜に溶け込む
薄暗い夜にポッカリと浮かぶ人影を見れば、身体が強張っていくのを知っている。ヒーロという職についてから、夜を少しだけ恐ろしいと感じるようになった。人の目は夜には馴染めない。薄ぼんやりと掴んだ輪郭線を明瞭にすることはできない。その人が目に見える形で殺意をひけらかしてくれれば、あるいはそんな目があれば、夜をこんなにも恐ろしいと思うことはなかったのかもしれない。
ソファで横たわっていた身体は平時より確かに浅い眠りの呼吸をしていた。リビングのドアが開く音でぼんやりと意識が浮上を始めたが、この場所が紛れもない自宅であったために目が冴えるまでには至らなかった。気配はやがて緑谷の前にまでやってきて、それから、温度の低い手が身体に触れた瞬間、意識とは真逆に瞬間的に自分の手が動いた。その冷たい手を捕らえ強く握ってから、何者であるのかを冴えない両目で睨め上げる。か細い高い声を聞いて、夜の中に潜んでいたのがひどく怯えた目をした名字であったことに気がついた時にはもう既に遅かった。
彼女の手も肩も震えていて、振り絞る声さえ出ていない。急いで手を離したところで、亀裂の入った隙間が埋まるはずもなかった。
――逃げるように、とそう思われても仕方のない程に、目を逸らして、部屋を出ていった。僅かでも恐ろしいと思った男が目の前にいるのは堪え難いだろうととってつけた理由を飲み込んで、自室に戻る。
畳まれた布団。縒れたシーツ。何処となく彼女の纏う香りが漂っている気がして、ドアに背をもたれて片手で顔を覆った。
彼女の前で繕った顔や言葉に打算がないかと言われれば、名字に向ける欲を自覚してからというもの否定できない。
無償の――いや、これではなんとなく崇高すぎる。宛先の要らない優しさとでも言おうか、そういったものに疎くなった彼女の器の中を満たしていく途中であった。張り詰めていた眦が緩み始めていることに正直なところ優越を感じていた。それが、一瞬にして瓦解した。
名字の目の淵から溢れ出たものが気のせいであったなどと誰が頷くだろうか。
(何やってんだ…)
本能的に感じる夜の恐怖と、鷲掴みされた理性的な恐怖を前に、彼女が今までと同じ目を向けてくれるなどというのは期待をしすぎている。それほどまでに、覚醒し切らない意識の中で睨め上げたという自覚はある。細く息を吐きながら、指先が右顔面の傷に触れた。
――精悍な顔つきに、もしくは少しくらい強面の方が舐められなくていいと、励ます周囲の声を怪我をしてからというもの聞いてきた。こんな傷など今に始まったことではないが、それでも、名字だけは痛くはないのかと不安がる。痛みなどと、疾うに捨てさえした感覚を、彼女は忘れるなと言っているような気がした。
「……緑谷さん」
ドアを挟んだ向こう側で、くぐもった声が弾ける。
――怖くないと、無理を言わせてしまったら。彼女は優しい人だ。他人と馴染ませるために自分が分からなくなってしまうほどに。
「い、ままで、緑谷さんが、あんまりに優しくて、だから……さっきはとても、怖かったです」
呼吸が、唇の隙間から漏れた。
「怖くて、良かった」
彼女の声は、まるで胸を撫で下ろすそれに近かった。
「緑谷さん、が、優しいだけの人ではなくて、良かった」
緑谷が躊躇した隔てていたドアを押し開いた彼女は、目を逸らさなかった。
あの瞬間の怯憶と向き合いながら、傷ばかりの緑谷の右手に頬を寄せた。
――名字の瞳はやはり温かな膜を張っていたけれど、その胸の奥に積もる言葉の全てを知るために、この一つの夜のうちに詳らかにさせなくてもいいのだろう。
抱え込んだ彼女の背中は、ゆっくりとした呼吸に合わせて確かに動いていた。
* * *
鼻を啜る音がなくなるまでの間、彼女を抱きしめながら背中を柔らかく叩いていた。
「……名字さん、寒くない?」
ベッドで寝ていいよ、と言いかけた声を遮って、彼女は僅かに頭を動かして漸く顔を上げた。今にも落ちかかりそうな瞼を押し上げて、ふるふると首を横に振った。
こういうところは引かないのだなと思えば、つい笑いをこぼした。少しだけ怪訝そうに眇められた目に、また笑う。
何に笑ってるんですかと口を尖らせた後、息をこぼすように頬を緩めた彼女に今度は泣きそうになって、額に冷えた手の甲を置く。
涙腺はいつも緩み切っている。彼女の眦が細まるたびに、意志とは反して涙が溢れそうになる。
一瞬の沈黙の後、その手をとって、彼女がまごつかせながら言った。
「……眠くなるまで、一緒に、いても?」
そうだねと言った一言に、名字の眉尻が下がる。こんな我儘の一つなど、同意を得ようとしなくてもいいほどに当たり前になるといい。
彼女の手を引いてリビングに戻れば、エアコンの暖かな風に廊下の寒さを思い知った。
電気をつけようとした手を遮った名字は、今度は緑谷を招くようにソファに足を向けてぽすりと腰をかける。つられて隣に座れば、繋がれたままの手が二人の隙間を埋めていた。
片手で抱えていた毛布を互いの肩にまでかけてから、月明かりの眩しい夜に短い会話を落としていく。
ぽつぽつと静穏を多分に含んだ言葉が少なくなっていき、規則正しい寝息を立てる頃には窓の外から生活音がもれ始めていた。
固く閉じた瞼を見下ろしてから、毛布の中で温かくなった彼女の指を握り直す。
沈み始める意識に、最後に彼女に僅かに寄りかかるようにしながらこくりと首をもたげた。