昔話を、しようと思う。これはまだおれが、何も知らないガキだった頃の話。おれが犯した、古い罪の話。ひとりの女の子を、殺してしまった話。

初めて彼女を目にしたのは、確か雪の降った次の日。多分一月頃のことだったのだと思う。彼女の真っ白なコートが、雪の中に溶け込んでしまいそうだったのを、おれはよく覚えている。場所は、冬の閉鎖されたクチバ港の奥。普通の人はまず来ない――おれのような寒さ知らずのガキがかくれんぼにやってくるような場所でのことだった。鬼のカウントが聞こえる中、おれはクチバ港の桟橋へと駆け込んだ。ぐるりと辺りを見回し、目星をつける。…あ、あそこがいい。絶対見つからないような場所を、向こう岸に見つけた。

親から借りたモンスターボールを地に叩きつけると、現れたのはゼニガメ。そしてなみのりを命じる。本当はジムバッジ制限のある技だが、ほんのちょっとの短距離だし、一人だからばれないだろう。それにおれはまだかわいいガキだった。「ごめんなさい、もうしません」という魔法の言葉で、なんでも許してもらえる。そんなお得な特権を利用しないわけにはいかない。大人を騙しこの世をいかにあざとく生き抜くかが、デキるコドモの美学である。

さっと向こう岸に渡りつけると、目星をつけていたトラックの元へ駆け寄る。なんでこんなところにぽつんと置いてあるのか少し不気味だったが、一時のことだ、使えればなんでもいい。トラックの裏側に駆け込もうとする、が。…かすかな人の声と気配に、駆け足が止まる。なぜこんなところに、人の声が。そおっとトラックの裏を覗き込んだとき、だった。彼女を初めて、この目に捉えたのは。

――……なんだ、あいつ。

最初は幽霊か妖精か、そういう類の何かかと思った。一目見て、空気が違うのだ。おれらのような、べったり地面に這って生きてるような感じがしない。地面から、ニンゲンの俗世から1センチ浮いていて、御伽噺の中に生きていると言ったほうが彼女には似合う気がした。実際、彼女はきちんと地面にぺしゃんと女の子座りをしているし、背中に羽や翼の類もない。彼女とおれはたった数メートルしか離れていない。なのに、その間には明らかな世界の違いがあった。彼女は、おれたちの世界にいない人物だった。

今思えば、あの瞬間からおれは、彼女に心を奪われていたのだと思う。立ち尽くしたまま、呆然と彼女のちいさな背中に、なびく亜麻色の髪に、見惚れていた。見惚れていたことにも気付かぬほど、見惚れていた。

そんな彼女が海に向かって、何かを話しかけていたものだから、おれは思わず息を潜めてトラックの影に隠れた。…彼女の、声。期待が全身を駆け上がる。

「…今日はね、本をもってきたの。あんごうかいどく、したくって…!」

…ああ。胸が、熱くなる。想像よりもずっと高くて愛らしくて、冬の空気のようにりんと澄んだ声。暗号とやらに余程わくわくしているらしい、高揚したように話す彼女だけど、その話し掛ける方向はひたすら、海の中。…イマジナリー・フレンドとかいうヤツ?それとも本当に、幽霊が見えているとか、そういうヤバイ奴、だったりするんだろうか。変な妄想を巡らせていたが、そんなもやつきはすぐに消え失せ、代わりに驚愕がおれの頭の中を占拠した。

「みゅう、みゅうみゅう…」

「えっと…『やさしいABC』。こういう文字のことを、アルファベットって言うんだって」

「みい〜。みゅ、みゅみゅみゅ?」

「うん。あれは、ひらがなとかカタカナ。アルファベットは、外国の文字なんだよ」

何だ、これ。おれにはみゅーみゅーとしか言葉を、彼女は解している、かのような会話。覗き込んでも、ちょうど彼女の陰になってしまっていて、彼女の話し掛ける方向にいる生物は分からない。だが、ただ一つ分かることは、"彼女は人間以外の誰かに話し掛けている"。それは、ぞわりとおれを鳥肌立たせることだった。再び息を殺しながら、彼女の姿を覗き込もうとしていたときだった。

「みー!みゅみゅみゅみゅ、みゅみゅー!みぃ、みゅ、みゅ!」

「そうだね!…よし、じゃあ、いくね。えっと、GEで、"げ"、NNは、"ん"、……、げん、がは、なか、はし、こう、よ、う?えええ、どういうことかわかる、ミニリュウくん……、ミニリュウくん?」

「…みゅっ!!」

しまった、と咄嗟に思ったが遅い。目にも留まらぬ勢いの衝撃波がおれの足元を狙い飛んでくる。反射的に一歩後ろに避けたおかげで怪我はなかったが、当たっていたら擦り傷では済まない威力だ。コンクリートにつけられた傷跡を見て、おれはごくりと生唾を飲み込んだ。

そこにいた生物、彼女と話していたポケモン――ミニリュウは、海面からおれを未だ睨みつけ続けている。今にもまたあの凶悪な攻撃を繰り出そうと狙いを定めているようだ。…おれ、こんなところで殺される気はねーよ。ゼニガメ、と呼び立て、応戦しようと構えたとき。ぴりりと張り詰めた空気に合わない彼女の澄んだ声とブーツの足音が徐々に近づいてきて、

「な、なに?どうしたの、ミニリュウくん…そこにだれか、ポケモンでも、……!!」

ちょうど角のところに潜んでいたおれは、彼女の死角から突然飛び出してきた外部の敵だと思われたらしい。彼女の瞳はおれの姿を捉えた途端、はっと大きく見開かれる。声にならない悲鳴をあげると、彼女は即座に方向を翻して駆けてゆく。違う、おれはおまえを追い出したいわけでも、何かしようとしているわけでもない。ただ、おれは、…おまえに、惹かれてしまっただけなんだ。無意識のうちに、逃がしたら駄目だと思ったらしい。気がつけばその背中を追いかけて、そのか細すぎる手を掴んでいた。はっと彼女が息を止めた音で、ようやく我にかえる。……沈黙。まさかそのまま離すわけにもいかなくて、おれはぎこちなく、遅すぎるセリフを口にした。

「おい!ま、…待てよ、」

彼女の返事は、ない。ただ掴んだその手の微かな震えと、異常なまでの冷たさとが、まるで拒絶するようにおれを凍らせていく。…でも、離したら、もう二度目はないと思った。ぎゅっと縛るように、手に力を入れなおすと、びくんと大袈裟にちいさな背中が跳ねる。そして背中を向けたまま、本当に聞こえないほどの僅かな声量で、彼女は背中を向けたまま恐々と呟いた。

「やめて…っ、はなして、くだ、さい…」

「それは、い、いやだ」

「……、」

おれの何とも奇妙な宣言に、彼女も諦めたのだろうか。黙って、ただ、そこにいる。おれも、彼女の背中を覆う明るい薄茶色をした髪をじっと見つめていたけれど、やがては沈黙の連続に耐え切れなくなって、ぐっと勇気を振り絞って、声を放つ。

「お…おまえ、ポケモンと、しゃべれるのか?」

あからさまに、わざとらしいほどに、彼女の躰が飛び上がったのが視覚からも触覚からも分かった。それでも彼女は、かたくなに口を閉じたまま。決して言葉を使おうとしなかった。どぎまぎと視線の定まらないおれに、彼女はゆっくりと振り返り、重い眼差しを向けた。伏せがちな長い睫毛が、瞳に影を落としていて、年齢に合わない妖艶さをも称えている。ごくりと、思わず生唾を飲み込んだ。

彼女はその暗い面持ちのまま、スローモーションのような遅さで、首を横に振る。それは深い、おれには触れられないほどの、深い拒絶を表しているようだった。

「…でも、おれ、見たんだよ。おまえが、ミニリュウとしゃべってたところ。おまえ、ほんとうは、しゃべれるんだろ」

だが、それでも食い下がった当時のおれも、なかなか諦めが悪かった。彼女が怯えるのにも関わらず、もう一歩分ずんとさらに彼女へ踏み込んで、じっと痛いほどの視線を送り続ける。最初はどこかに逃げ場はないかと俯いたままあちこちを視線で探っていたが、やがてその逃げ場がないことを悟ったらしい。はたりとその動きは止み、足元だけを見つめ続けていた。つられておれも、繋がった手のひら越しに、彼女のブーツとおれの長靴、それから薄っすら積もった雪をぼんやりと眺めていると、ふとそこに、雫が一滴。雪に穴が空いて、溶けてゆくのを見て、ああ、雨でも、と思ったのは束の間。一滴、二滴、と次々に降ってきた粒は、空からやってきたようなものではなかった。彼女の、震えるまつげからしたたる、それは、少女の涙だった。

「……っ、ごめんなさい、」

「え、…あ、」

「ごめんなさ…っ、どう、しよう、私、また、……!」

狼狽えるおれをよそに、彼女はぼたぼたと俯いたまま地面に雨を降らせ、雪を溶かし続けているけど。…なにを、どうしたらいいというんだ。おれは何も知らなかった。そもそもの、理由すらわからなかった。なんで、目の前の女の子は泣いてるんだ?何が彼女を悲しませたんだろう。辺りを見回してみても、今彼女に言動を与えているのは、おれしかいない。ミニリュウはまた攻撃をしようとおれを睨んでいるが、彼女との距離が近すぎて巻き添えにする可能性を考えてか、まだ手出しはしてきていない。おれのゼニガメは、おれの足元で「あーあ、ばかだなあ」とばかりに、彼女とおれを交互に見上げているだけ。彼女の涙の理由がおれであることは、こいつからしても明らかな事実のようだ。

「…なあ、おい、おまえ」

「ひ……っ、」

「な、なんもしねーよ!だから、その…なんで、泣くんだよ…」

気まずくて、目を逸らしながらでしか、そう言うことがでしなかった。なんとか視線を戻すと、彼女はやっと伏せた睫毛を小刻みに震わせ、静かに持ち上げた。その振動で落ちた雫は彼女の頬にほたりと落ちて、滑り落ちてゆく。きれいだ、という、素朴な感動がおれの胸の中にひろがる一方、彼女は戸惑っているようだった。視線の行き先をあちこちへ、覚束無く惑わせている。けれどふと、彼女の目とおれの目がぱちりと嵌ってしまった瞬間、その動きは止まる。そして少し瞼を伏せて、また、無言。

「…おれが、知ったらマズイこと、なのか。もしかして。おまえが、ポケモンと、話してること」

その空間に耐えきれなくなっておれが言ったことだったけど、彼女はそれを耳にした途端ばっと弾けるようにその顔を上げた。そして、切なく訴えるような目で、ちいさく頷く。初めての、彼女からのサインだった。それをきっかけに何か箍が外れたのか、彼女はぽろぽろと、あやうい言葉をこぼしはじめる。

「…私、あの、このこと知られたら、なかまはずれにされちゃって、おかあさんに、めいわく、かけちゃうの」

「…おかあさんにめいわくって、なんでおまえの話がおかあさんに行くんだよ」

「だ、だって…!私のせいで、おかあさんがみんなに、わるく言われちゃうから…。ちゃんと私をだいじにしてないって、そんなこと、ないもの…。おかあさんは、私を、ちゃんとたいせつに、思ってくれてるもの…!」

まるで自分自身に言い聞かせるみたいなその羅列された言葉が、妙にちくりと胸に刺さった。おれが大人嫌いを公言しているからなんだろうけど、そこまでおとなを盲信する彼女の声色が、単に気に入らなかったのだろう。そんなおれの心中は露知らず、彼女はまたうるうると大粒の涙を瞳に浮かべ、独り言のように言葉と涙を地面に落としはじめていた。

「なのに、私、また、おかあさんを怒らせちゃって、私、またうまくできなくて、まだここに来たばっかりなのに…!どうし、よ、どうしよう…っ!」

ああもう、ばかやろう!なんで、そんなに泣くんだよ。オンナってわかんねえ、一人で感傷に浸って一人で泣き始めて、目の前の男は置いてけぼり。でも男が泣いてる女の子を放っておくわけにはいかないというのが世間の常識らしいから、さらにわけわかんねえよ。やがて静かながらも嗚咽を漏らしながら泣き始めた彼女に、おれもおれのことがわけわかんなくなってくる。だからいつの間にか口走っていた言葉に一番驚いたのは、彼女よりも、おれ自身だった。

「あああもう!そんなの、おれがだまってればいいんだろ、ヒミツにしておけばいい話じゃねーか!」

「…え…?」

「え、あ、えっと…おう!」

作る表情に迷ったおれは、とりあえず適当に、胸を張っておいた。

やがて、うららかなるあなた2
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