蘇る薫のいぶせきを
覚束ない足取りを彼方に支えてもらいながら向かった部屋は、人間のための病室。どうやら、彼も人間として扱われたみたいだ。扉に下げられたネームプレートからそれを察した。彼らの身分を証明するものは何もないから、きっとジョーイさんが緊急の判断を取ってくれたのか、それか余程彼方たちがジョーイさんに頼み込んでくれたのだろう。
彼方が頷くのを合図に、引き戸の取っ手を握りしめ、俯く。…大丈夫、どんなことが待ってたって、受け止める覚悟は出来ている。深呼吸をしてから、音もなく扉を開いた。
「……、ヒナリ」
ベッドが、ひとつ。毛布を巻き込み、膝を抱えてそこで座る千紘のつぶやきが、静寂の支配する部屋にぽつんと浮かんだ。ベッドのそばで座っていた理央と漣も、はっと私を振り返ると、顔を見合わせてその場を退いていく。…私に、任せたということだろう。ただ一人、窓際に凭れかかった祐月だけが腕を組み、遠巻きにその光景を観察していた。
一歩、二歩と、磨き上げられたフローリングの上を歩んでいく。両手の指におさまるほどの歩数を歩くだけなのに、まるで時を磔にされたかのようだった。うずくまり、膝に顔をつけたまま目線だけで私を見上げる千紘。僅かな身じろぎで、ふわついた薄黄色の髪ひと束が零れ落ちると、その視線はさらに力強さを増した。虎のような、冴えた琥珀色の眼光。そこに映るのは警戒、怯え。奥にちらちらと、まるでヒトのような葛藤が蠢いているような気がした。相反する千紘の部分が、漏れ出しているような気がした。
「ヒナリ」
「…うん、」
「こっち、来て…」
自らは動かない。まるで試されているかのようだ。ひとつ頷くと、スリッパを脱ぎ広いベッドに両膝を乗せる。ぎしりと軋む音さえも大きく聞こえるような、そんな静寂だ。膝を抱えたまま私を睨み続ける千紘。似合わない薄青の病衣を着たその背中に触れようと、手を伸ばしたときだった。手首を掴まれる。掴む、なんて生易しいものじゃない、明らかに痛めつける意図を持った強さの加減で、千紘は私の手首を握った。思わず、表情が歪む。即座に仲裁に入ろうとした漣たちを祐月が静かに引き止めるという光景を、痛覚に眩みながらも横目に見ていた。
「……っ、ヒナリ、」
「……。なあに」
できるだけ、やさしい声を出そうとしたのだけれど、どうやらそれが気に障ったらしい。千紘は急に顔を上げ膝で立つと、私の肩を押し倒した。硬いベッドで打った頭が痛くてチカチカする。制止を破って彼方と漣が動こうとしていたりするのをぼんやりと見ていると、何だか千紘と出会ったときと同じだなあ、と場違いなことを思った。部屋の明かりを逆光にして見る、千紘の整った顔かたち。綺麗な顔そのものは何も変わっていないのに、それを彩る表情は、随分と変わったように思えた。だって、はじめはもっと獣みたいで、ぼーっとしてて仏頂面で、悩んだり迷ったりすることなんて、何もないようだったのに。今じゃこんなにも苦しそうに葛藤する表情を出来るようになった。
千紘、おおきくなったね。骨を砕かれそうな手首の激痛は止まないけれど、自然と口元は微笑んでいた。
「ヒナリ、なんで、な、んで、」
「うん」
「なんで、死なせてくれなかったの」
微笑んでいた口元に、雫が落ちる。やがて唇に触れるそれはしょっぱくて、ああ、涙かあ、と思った。自由なもう片方の手で彼の目元を拭うけれど、もう私の指先では拭いきれないほどの大粒を流すものだから、シーツにはぼたぼたと染みが出来ていく。やがて拘束の力も緩んできたらしい、私の胸に顔を埋め泣き始めた千紘の頭を、私はそっと両手で撫でてやった。指の間にくるりと引っかかる、可愛い髪に指を通す。静かにこぼれ落ちるように、千紘はしとしとと泣き声をあげていた。
死なせてほしかった、かあ。覚悟は、していた。けれど、本当に音になってそう言われると、やはり心臓を直接掴まれるような感覚がする。
「俺、もう、死ななきゃいけないのに、誰にも怒られない代わりに、死ななきゃ、いけないのに、ヒナリ、なんで、どうして、彼方も漣も、祐月も理央もなんで、…なんで、死なせてくれないの、」
私の選択は、正しかった?咄嗟に助けなきゃって思ったことは、間違いだった?…そうかもしれない。千紘にとって、生きることが過ちだとするならば。本当に、本当の意味で、自らの死によって全てを贖おうとしているのならば。
でもね、千紘。もう少し、私に「でも」を言わせて、ワガママを言わせて。髪を撫でていた手を頬へと滑らせ、そっと持ち上げる。八の字になった眉を震わせて、訳がわかっていないような表情だ。下まつげに乗っかった雫の粒に指を伸ばすと、反射的に目を閉じたらしい、ぱちりという瞬きと同時に頬を伝って輪郭をなぞっていくのが、とても綺麗だった。そのまま上体を起こして、ふたり、向かい合ってぺたんと座る。未だ小首を傾げて、何が起こるのか分かっていない千紘が、なぜかどうしようもなく愛おしい。そんな愛を込めて、私は彼の名を呼ぶ。やわらかに、おだやかに。
「千紘」
「……?」
「千紘、私を見ててね、千紘」
そう言うと、言われるがままに私の目をじっと見てくれるから、千紘は素直だ。虎のようだった瞳はすっかりか弱くなって子猫のよう。儚いまでの金色は、その反射面に私の姿をちらちらと映している。そこにはちゃんと、できる限りの優しい微笑みをしている私がいたから、大丈夫。すー、はー、俯いて深呼吸をして、そしてもう一度彼を見上げる。千紘がまたあどけなく小首を捻った瞬間、私は思い切り右手を横へ振って。
…ばしん!
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