24

 机の上に置いたコーヒーは先週のものとは違う豆に変えたのだけれど気付かないのだろう。私好みの豆であるけれどどうだろうかと訝し気に文書に目を通している姿を見つめる。口元の髭がなぜか一本だけ伸びてそうなのを気付いたり、手首のカフスボタンが擦れるせいか糸が緩んできいる事に気付いたり、作業着に着替える時には縫い直しておこうかなと予定をたてたりする。窓からは穏やかな南風が吹き込んできていた。

「今日はこれから、リグリア広場にてアイスバーグさんが出席される式典がありまして、副社長にもという話です」
「あ?行かなくて良いって聞いたと思うが」
「先日、もう一度別枠に打診がきまして」
「…そうか」

 流れるように午後のスケジュールの変更を副社長であるパウリーに告げる。午前は私は倉庫で雑務をしていたし、パウリー副社長は現場に意気揚々と出向いていた。途中騒ぎになったのは、外に出たパウリーが借金取りと追いかけっこしていたくらいで、まぁ日常茶飯事であった。ちなみに私が払ったパウリー宅の数ヶ月分の家賃、ご本人さまから返ってきた額は全額の半分にも満たない。まったくもって予想通りな男である。
 自身の机の上に届いている書類と郵便物。懐かしい字面に引き寄せられるように開封した。そんな机の上を整理してから、もうそろそろ広場に行きますか?と声をかければ今楽しんでいるのであろう一服が終わってからと言うマイペースな副社長はある意味でアイスバーグさんに似てるところはある。窓の外に向かって煙を穏やかに吐いていく背中を横目でみつつ、持参する資料の選別をした。再度確認のような形だけれど念には念をだ。
 
「…もうそろそろ行きますよ」
「おー…」

 疲労の色も時折見える背中。しかし私は特段何を声をかけるわけでもない。そう、引いたボーダラインを越える気は私はさらさらないのだ。振り返ったパウリーは短くなった葉巻を机の上の灰皿に押し付けていた。

「副社長、」
「わかんねェ」
「はぁ…、もう」

 一応公共の場に行くわけだからと、ネクタイをしっかり締めてくれという意味で首元を指先で指摘すると呆れる一言をいう男。副社長としてどうなのよと思うも仕方なしに、その派手なネクタイに手を伸ばした。指先で布地を引っ張りつつキレイに整えられた事に満足した私。それに満足したらしく、よし行くかと外向け仕事のモードに入ったパウリーが扉を開ける。苦笑しつつ、資料を持って後を追った。

 大勢の市民が集まる広場に市長として高らかと挨拶をするアイスバーグさんに拍手を送った。小さい秘書さんもご満足そうである。つつがなく進行される式典について、一歩前にいるパウリーに裏事情などを伝えていく。先程までは伝えきれなかった部分があり知っておいた方がいい情報だ。黙っているという事は聞いていると判断している。副社長としての顔出し業務である小一時間の式典は無事に終わり、本社に戻るためにヤガラブルに乗り込んだ。
 その日の空気を知っていた。朝から気圧の変化を感じ取っていた。明確には分からないけれど、南風が吹いてきていてもしかして今日は多少の高潮になるかもしれないと思っていた。水路を泳ぐヤガラちゃんがニーニー楽しげに鳴いている。市内には予想通りに高潮注意報が発表されていた。アクアラグナであるとそんな注意報ものではすまない。だから今回の高潮は高くても一階くらいの床上浸水があるかないかなくらいの潮位の変化だろうと過去からも予測される。一応荷物はまとめてあるけれど、本社に泊まるかどうかで迷っていた。
 
「お疲れ様でした」
「ああ」
「あと一応明日は、夜に△△社との会食がありますので。くれぐれも二日酔いにはしないでくださいね」
「分かってらァ」

 一応、明日の最重要な話だけは伝える。細かいものは明日で良いやと腕時計に目を落とした。私としてはもうそろそろ一度家に帰りたい時間である。書類を整えるように机の上でトントンと端を合わせていた。

「…オイ」
「なんでしょうか?」
「イヤ、なんだ」

 どこか歯切れの悪い副社長の次の言葉をまった。何か落としている事があるのだろうかと色々思い浮かべるが、特にありそうもない。何しろ有能な小さな秘書さんは完璧なのだ。そしていつの間にかネクタイを緩めてしまっているパウリー、さっきまでしっかりしていたはずだったのに一瞬である。

「…今日高潮注意報出てんだろ」
「はい」
「その…、今夜高潮になるみてェだけどよ、ウチくるか…?」

 後頭部をガシガシとかきながら、まさか言い淀んでいた事がそれとは思わなかった。そして私の方としてはしっかりとパウリーの家の合鍵を持っているくせにその案はすっぽ抜けていた。なぜなら、あの時と今はまた関係が違うのだ。一線を超えてしまった夜があるかないかの違いである。だからこそ私はその案はなしと当たり前に思っていたのだ。まさかの誘いにどうしようと迷いつつ、一応この確認はと口を開く。

「何もしないです?」
「……する」
「っふ…、」
「いや。…でもしねェ自信はねェなと…」
「ふふ…、もうそれ言っちゃダメじゃないですか」

 整えた書類で思わずに吹き出すように笑ってしまった口元を隠す。何を素直に言い出すのかと思うともうダメであった。パウリーも表情に言っちまったとばかりの気まずさを滲ませている。けれどその少し間抜けな姿含めてツボに入ってしまった。いつかの日のように、口先だけでも何もしねェからとか言ってくれるのかと思っていた。
 所謂そういう行為をしてしまったのは、とある一晩と朝、そうその問題な朝までだ。個人的にはもう一生分抱かれ尽くされた気分である。次の日というか当日は喉が軽く枯れたまま仕事をして、アイスバーグさんには風邪か?と聞かれ、事情をよくご存知のパウリーの方が吹き出していた。そんなジッと私の言葉をどこか期待している雰囲気もあるパウリーに、どう返事をしようかどうかで苦笑いだ。素直になれたらどれだけ楽でしょうか。

「もう…、私生理なんだけど」
「それでも良いからよ」

 真っ直ぐにこちらを見てくる姿が目の前にある。てっきり真っ赤になったり、躊躇ったりするのかと思いきや、間髪入れずの直球の返答にちょっと揺らいでしまう。あぁもう、こういう時は堂々とそして平然としているズルい男だ。

「…何でも良いからあんたと一緒にいてェ」
「…そ、」
「ダメか?」

 男らしく言い切ったはずなのに、途中から行き場のなくなった手を顎あたりの髭をかいている。ダメかと聞かれるとダメじゃないから困るんでしょう、と後で整理しないとならない資料で口元だけでなく顔全体を隠す。なんでこの男は何も言わないのに抱こうとするのだろうか、いや分かってはいるのだけれどもだ。私の方としては、身体に染みついた煙の香りはそのままでいて欲しいとかそういう下らない気持ちとかはずっと秘めていたいのだ。私の希望ならば、穏やかで安心さがある生活を過ごさせてくれる人であるからだ。伝えていいものかどうかとか含めて、今更にどうしたら良いのか分からなくなる。
 歪さ含めて、この前から刺さっているナイフは抜けていない。刺さるのは純情なのか欲情か。心を縛り上げているような感情を持て余す私の方に一歩二歩と近くなる距離に気付きつつも一歩も動けずにいる。少々狡猾な口先が重くなり、乾いていた唇を舐めた。そして俯く先に見えるのは一筋汚れたが入った革靴だ。顔を隠す資料にいつの夜かは余す所なく私を触ってきた指がかけられる。どうか、お願いだからと指に力が入ってしまう。何しろ今の顔なんて少しも見せたくないのだ。






完

(あとは気ままなafter話 時系列バラバラな話になります)