5
あやしいと思ったから気をつけたけど無駄だったか、と外の日差しの明るさに目を覚ました瞬間に頭によぎった。少し頭を動かした時から痛みがあった。そして関節の痛み、身体の熱さを感じる。それを察知したところでこのまま寝てしまっては無断欠勤である。せめて勤め先である貸しブル屋に顔を出さなければと唸りたくなる気持ちを堪えつつ身体を動かした。
昨日は盛大に水を被り、多少の寒さを感じつつも水路を移動しなければならなかった理由がある。濡れたTシャツを着替えようとも下着やパンツは濡れていた訳であり、すっかり冷えてしまったらしい。夕食も温かいスープで、とか気を遣ったつもりが焼け石に水であったようだ。
今日の天気も晴れ、やや南寄りの風が吹く中ヤガラブルに乗り通勤である。フラつきそうになる中も、乗っていれば職場に着くとかありがたい話ね、と感謝をしつつ到着した店。私の蒼白らしい顔を見るや否や店主も青ざめるように心配してくれた。思いの外心配してくれる様子に今までちょっと金にがめついと思っていてごめんなさいと心の中で謝った。
「一人で大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。ちょっと休ませてもらいます」
頭を下げるのすら響くくらいなので、軽い会釈になってしまった私を良いから帰りなと背中を押してくれた。帰ると言ってもヤガラブルだ、ヤガラによろしくと伝えれば風に吹かれつつ泳ぎ出す。今の私には当たる風は涼しくて気持ちいいことは気持ちいいけれど、よく分からない寒気がある。ということはやはり熱があると言う事なのだろう。
「おい」
「あ、おはよう。出勤?」
水路にかかる橋の上から呼びかけられて、ゆっくり見上げればいつもの青い作業服のパウリーがいた。今の私にはあまり顔を合わせたくない相手ではあった。優秀なヤガラであるためか会話出来る程度に少しスピードを緩めてくれる。葉巻を咥えるパウリーに挨拶をすれば、軽く手だけを挙げる姿がある。そして昨日は悪かったと再度謝ってくる姿に気にしないでと声を張り上げた。
「忘れもんか?」
「そう。あ、今日は飛び降りないでね」
「もうしねェよ」
店とは反対方向に進む姿はそう見られる可能性がある。私が意地悪く笑いながらラフに声をかければ、一瞬言葉に詰まったパウリーが困惑さを含んだ返答をする。ハイハイとばかりに手を振って家への進路方向に向き直す。ニー、と鳴き声をあげるヤガラに大丈夫だと返した。忘れ物なんて当然ない、だって帰るんだものと言わなかった言葉を心の中で繋ぐ。多分声は出ていた筈だし、いつも通りなやり取りを出来たと思う。自身のせいで私が体調崩したとか思われても嫌であるし、パウリーにそのように気を遣われるのはご遠慮したいところであった。
何となくで買って帰った飲み水が少なかった気がして、もう少し買っておけば良かったかなとギュッと目を瞑る。寝ていたわけだけれど喉の渇きで起きてしまった。寒気で家の布団やら毛布やらに包まれているわけだが、油断するとガタガタと震えそうになる。久々の発熱は、いつもの健康体のありがたさを実感するものであった。
そこに音が混じる。コンコンとドアをノックされた気がした。しかし向かい側の他の部屋だと思い身体を横向きに向き直した。何度も鳴るノックの音に苛立ちを覚えたときこの部屋であるとようやく気付いた。近くにある大判のストールを羽織りドアに近付いた。
「はい」
「その、オレだ」
ドア越しに響く低音の声に言葉が繋げられなかった。バレるようなヘマはしていない筈だと思った、後々ではヘマはしていなかったのだけれど、まさかの訪問者に頭が追いつかない。鍵のかかったドアは正直開けたくはなかった。昼食べたものを片付けてもないし、物の少ない部屋だけれど他人を入れるのはそもそもとして好きではなかった。
「えーと、大丈夫だから気にしないで」
「じゃァ開けろ」
浸水にも耐えられそうな厚いドアに向かって声を放つけれど、数時間以来に出した声は多少掠れてしまった。先回りしての言葉も不躾な言葉で遮ってくる男をどう追い返そうかと考えるが頭は働かない。開ける開けない、いや無理でしょう。こんな情けない姿など晒したくはない。どこかで私の体調不良がバレてしまった事は今何を言っても変わらないようであった。
「大丈夫だから、仕事戻って」
「外見ろ、もう夜だ」
「え」
言われた通りに窓の外を見やれば真っ暗であった。外が暗ければ、そりゃ部屋の中は灯りを灯していようが暗いのは当然でそれすら私は気付いていなかった。
「水とか持ってきたがどうする?」
「…それは…もらいたい」
背に腹はかえられなくて、渋々鍵を開ける。化粧もしてない、そしてこんなラフな状態を見せる事は非常に戸惑われた。そう、これは精神的にキツい、体調不良を察されるよりも辛い出来事だ。鍵だけ開けて、そそくさと隠れるようにベットに戻る私の背中には、入ってきた人の気配を感じる。
正直、少し意外であった、パウリーはあまり女性の家にホイホイ上がり込んだり、多分こんな事なんてしないと思う。けれど私がこうなった原因を思うと来ざるおえない性分なのかもしれないと納得する。もしくは私を男だと勘違いしている可能性もあるのではとくだらない事が頭によぎる。フラフラと顔も目も合わす事なく布団に入って潜ってしまう事にした。
「水…そこ置いておいて」
「分かった」
「ありがと…」
「ぁーあと、食い物と薬だ」
「…パウリー…気持ちはとても嬉しいけど…。あの多分だけどね…具合悪い時にはその肉料理は…厳しい時もあるんだよ」
「え」
目元だけ布団から出して、差し入れのような荷物を袋から出してくる姿を眺める。出されたボリュームある肉料理は昔働いていた食堂の名物だと気付いたけれど、今は無理という感想しかなかった。きっと具合悪くてもパウリーならば肉食べて元気になりそうだけれど、私の今の胃は受け入れそうもなかった。
「その、悪かった」
「うん、大丈夫だから」
「じゃねェだろうが、だからこうなっ…」
「パウリーうるさい」
耳に響く予想より大きい声にギュッと眉をよせてしまった。頭に響いてしまうのは正直言って遠慮して欲しい。うるさいとの忠告で、黙ってしまったパウリーは困ったようにしていた。
「熱あるのか」
「うん、測ってないけどあるのは分かる…。ね、その肉料理美味しいうちにパウリーが食べて」
「…分かった」
「ごめん」
「いや」
仕事終わりなのであろうパウリーは私の許可を得た料理を食べ始める。差し入れされたものを差し入れしてきた方が食べるという状況と、お腹が空いていたのかその食べていくスピードに思わず笑ってしまった。
「んだよ」
「美味しそうに食べるなぁって」
「そうかよ」
そう言えばゴーグルを外したパウリーなんてあまり見た事ないなと布団を被りつつ目線だけで眺めていたらその視線に気付かれてしまった。後ろ側に流れる明るい色の髪も髭もまぁ男前、男性的で魅力だと言えるのではないだろうか。ギャンブルは個人的にはどうかと思うけれどそのような職人気質というか我が道をいっている所はパウリーの魅力だとは思う。昨日は水路に盛大に落ちてかなり格好が悪かったけれどもだ。あまり表情は変わらないけれど、どうした?と聞いてくる姿に申し訳なさを感じてしまう。
「いや、パウリーはかっこいいね」
「はぁ!?」
オレンジ色の灯りが灯る部屋の中でも分かる程に一瞬で真っ赤になったパウリーに笑ってしまう。私の笑い方で揶揄われたんだと思い直したように頭にないゴーグルを付け直すような仕草をしてからない事に気付き、そのまま頭をかいていた。続けて薄気味悪ィ事言うなと言うパウリーに頷きで返した。そしてすぐに空になった皿を見てから、もう大丈夫だから帰って欲しいと頼んだ。
「いや」
「は?」
「あー、部屋の端にいるからよ」
「……無理…寝られない、勘弁して」
「じゃ家の外に出てっから」
理解が及ばず、耐えきれずに頭まですっぽり布団の中に隠れる。この男が何を言っているのか理解出来ない。おおよそ店主かカクか、はたまた私の友人からしっかり面倒みろよ的な発破かけられたに違いないだろう。私としては何で好き好んで、これ以上にこのような情けない姿を晒さないとならないのだろうと胸が締め付けられる。体調を崩したやるせなさ、それを察されてしまったこと、その上にこうして様々な人に気を遣ってもらい迷惑をかけてしまっている事全てが辛かった。ジワリと熱くなる目の奥の感覚に不味いと思った。こんな事で泣きたくなんてないと暗い布団の中で必死に目を押さえる。
「でもよ」
「本当…っ、こんな姿これ以上晒したくない…」
「お、おい」
「だから…、」
布団の中で必死に堪えたけれど、語尾はどうしようもなく掠れた声になってしまった。静かな空間には充分な声量だったらしくヤケに響いた気がした。
数刻の後にギッと軋む音がした。それは木製ベットの軋む音で、それも近くに座られた気配があった。そして布団の上から頭を押さえられた。
「ぇ」
「あー、悪かった泣くな」
「っ、パウリー嫌い。っとにデリカシーない」
「嫌いで構わねェよ」
「えっち、ハレンチ、ムッツリ…」
「分かったっつーの」
言葉と裏腹に布団の上からあやすように何度かポンポンと慰めてくるので無性に涙が溢れる。何やら悔しさもあって、所々鼻をすすりながら文句を言った気がする。熱やら何やら身体の調子が良くないって大変だ。このように情緒が不安定すぎて自分自身に嫌悪すら覚えてしまう。子供のような反論にも流してくれる余裕が向こうにはあって、私はどうしようもなく小さい人間だと思い知らされる。その上、布団の上からゆったりとしたリズムであやされて落ち着いていくとか子供以上の何者でもないだろう。
「……なァ、それでも薬だけは飲まねェか?」
「……分かった」
しばらく続いた音のない時間、とは言いつつ窓を叩く風の音や人の気配を感じる衣擦れの音が時々響く空間。それは少しだけ安心出来るものがあった。寝れないとか言ったくせに少しウトウトしてしまっていた。予想よりも穏やかな時間、そんな中タイミングを見計るように問いかけられたパウリーの言葉に、確かに解熱剤的ななものは飲んだ方が良いだろう事は私の頭でも理解出来た。けれど化粧をしていない上に泣いた後であるし、髪の毛もボサボサで見るも無惨な姿だろう。けれどそれを前もって言ってしまえば敢えてそこを見られそうなので、気にしていない雰囲気を装うと心に決める。
渋々上半身を起こして掛け布団から控えめに顔を出す。けれど早々にベットに腰掛けているパウリーと目が合って非常に気まずい。これだから嫌だと目線を外して跳ねているかもしれない髪を手櫛で撫でつけた。パウリーが渡してくれた水と薬を手に取り、そしていざ飲もうとしようとしたが、パウリーの監視するような視線に耐えられなかった。なんだろう、すごく飲みにくいと躊躇っていれば不思議に思ったらしいパウリーと目があった。
「飲まないのか?」
「あの、あまり見ないで…」
さすがに恥ずかしくて、何と言ったら良いか迷った私。頭回らずに素直に要望を言えば、勢いよく90度顔を背けるパウリーに少し安心してようやく薬が飲む事が出来た。
「…あの、首取れるよ」
「取れてもかまわねェ!わりィ」
「いや…」
横向きのパウリーに構わなくないでしょう、と続けようとしたけれど、一応パウリーなりに気を遣ってくれたのだと思いやめておいた。ガンガンと頭に響くパウリーの声も多少慣れてきた気もするが思わず出てしまうらしい大きな声には苦笑してしまう。首が取れそうな勢いで向いた方から戻らないパウリーにそれでももう飲んだので大丈夫だと伝えると視線が合うことなく、布団を頭までかけられて半分倒された形になってしまった。
「え」
「寝ろ」
「う、うん?」
「あー、オレは」
「大丈夫。ありがとう、その帰って大丈夫」
「オマエが寝たら帰る」
「……無理でしょ」
人の話聞いてるのか分からない会話をしてから譲らないとばかりに勝手に居座る宣言をする布団の向こうの男。どうしてこうなったのだろうかと考えるが今の頭では処理しきれない、もうよく思考回路がよく分からない男の事など考える余裕はなかった。
「……パウリーが風邪ひいたときには眺めに行ってやる…」
「風邪なんかひかねェよ」
「なんとかは、ですもんね」
「おい」
掛け布団の中で丸まっている私、そんな物体眺めて何が楽しいのか理解不能だ。恨めしそうに呟く私に声量は抑えてくれる低めの呆れた声が響く。来てほしくはなかったけれど、少しだけでも話相手が居た方が気が紛れている今がある。弱っているところなど見られたくはなかったという前置きは前提としながらも人が居る安心感は少しばかりの心の余裕が生まれる。
「…来てくれて、その、ありがと」
何言ったか?と聞かれたら答えないでおこうと思うくらいに小さい声量を選んだ。布団に包まりながらの言葉に対してパウリーの返事はなかった。その代わりなのか頭のあたりの布団を軽く触れられた気がした。許された気がして、そこで記憶は途絶えたのだった。