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「シルヴィア、行こう」
「え!?見つかっちゃったの?私達…」
「…残念ながら」

雪の様に真っ白な髪と肌を持つ少女はあまりにも色素が薄く、今にも消えてしまいそうな儚さを帯びている。只でさえ長旅で体力が底をついているだろうに、もう少し休ませてやりたかったがそうもいかなくなってしまった。
何者かが急速にこちらに向かっている。それも人間のものではない、脅威のスピードでだ。

「怖いよぉ…」
「大丈夫、いつもの様に逃げよう」

対照的に闇をそのまま被った様な真っ黒な髪に、全身黒で統一された衣服を纏う人物は、怯える少女の手を取る。小刻みに震えるそれをしっかり握り、頭を撫でてやった。

「さぁ、

逃げなさい」

「…え?」

少女は耳を疑った。てっきり自分の手を包み込むその腕が、いつもの様に己を引っ張ってくれると信じていたのに。動揺して見上げた瞳に映った相手の表情は、決して冗談を言うようなものでは無かった。

「や、やだよ…一緒に…」
「今すぐ一人で行きなさい」
「無理だよ!お願い、一人にしないで!」
「行きなさい!!」

いきなり怒号をあげた顔は今まで見たこともない程険しく、思わずびくりと身体を震わせた。少女の目尻にはみるみる涙が溜まり、今にも零れそうになっている。しかしそれを優しく拭ってやった手は、先程声を荒げた人物とはかけ離れた、信じられないほど優しいものだった。

「必ず追いつくから、行きなさい」
「…!」

慈愛に満ちた瞳を真っ直ぐ向けられた少女、シルヴィアは、今度は零れてしまった涙を自分で乱暴に拭って大きく頷いた。
その細い足に目一杯の勇気と力を込めて立ち上がった。が、


「おいおい、どこ行くんだよ?」


朱。
視界が、全て、朱い。
今込めたばかりの力はどこへ行ってしまったのだろうか。すくんだ足は膝が笑い、何かカチカチ音がすると思ったら、それは己の震えた歯がぶつかり合う音だった。

「何怯えてんだ?せっかくこんなにイカした王子が来てやったのによ」

暗い空間でもわかるほど鮮やかな銀髪から覗いた碧眼が、剥かれた牙のようだ。眼前にそびえる朱い男は、まるで我が身を食い尽くす、凶悪な悪魔に見える。
本能が警鐘をかき鳴らしているのに、彼女は少しも動けない。ただ、ゆっくりと迫り来る手を呆然と眺めるだけだった。


「シルヴィア!!」


二度目の怒号が耳を打ったのと、冷たい雪が頬に触れたのは同時だった。引き戻された意識は足に伝わって、咄嗟に後方に飛び退く。無理に動いたせいで尻餅をついてしまったがシルヴィアの意識はそこではなく、たった今逃れた男を凝視するところにあった。
そいつと言えば空を切った手をひらひら揺らし「あー逃げられちまった」などと抜かしているかぎり、その腕は到底我が身を捕らえようとしたようには見えない。

「シルヴィア、行くの!」

これが何度目だろうか。尚も叫ぶ声を鼓膜に震わせ、少女はハッとした。
いよいよ降り出した雪のベールの向こうから、再び朱い男が迫ってくる。
押し寄せる危機と、その後ろから注がれる後押しの視線によって、シルヴィアは力の限り駆けだした。

「おい、逃げんなよお嬢ちゃん!」

姫は振り返る素振りすら見せず、白い闇の中に消えていった。

「勘弁してくれよな…心まで寒くなっちまう」

呟いた瞬間ダンテは勢い良く地を蹴り、数メートル程飛び退いた。それはただの勘であるが、これほど正しい判断もなかったであろう。
コンマ数秒前に立っていた地面には、鋭利な傷跡が深々と刻まれていたからだ。
ダンテは感心したように口笛を一吹き、普段通りのニヒルな笑みを浮かべて眼前の人物を見た。

「なかなかやるな、アンタ。危うくスライスされちまうとこだったぜ」

相手は答えない。ただ、白銀の世界にインクをそこだけにこぼしてしまったようにぽつりと、しかしそこから光る瞳はしっかりとダンテを見据え、微動だにしない。

ダンテには現在気にくわないことが二つあった。
一つは、とても寒いこと。

もう一つは、

「ちょっとな…アンタと話がしたいんだ」

軽い口調で投げかける。
相変わらず相手は答えないが、それでも続けた。

「俺に仕事を依頼したビールっ腹のイタリア人がいるだけどな、そいつには悪魔に誘拐された悲劇のお姫様を救いに行け、って言われてんだ」

ダンテは近付いていく。
敷き詰められた白を、ゆっくりと踏みしめて、一歩。また一歩。

「それがどうしたもんか…」

遂に目の前にした相手は思ったよりずっと小柄だ。
散切り頭の黒髪にそっと手を伸ばし、髪を梳いた。意外なことに抵抗がない。そのまま隠れていた顔を伺うようにかき上げればじっとこちらを見上げてくる瞳は、澄んだ鳶色。
少しばかり幼さが残る表情にいたずらっぽく顔を寄せ、ダンテは不満を口にした。



「どういうことだ。悪魔はアンタじゃねえ。姫様の方じゃねえか、レディ?」




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