これの夢主視点






―――良家に嫁いで良妻賢母となれるように、との母の訓示に習って受けた箜篌は、自分にとってはただの手習いの一つに過ぎなかった。職掌ゆえに努める、それだけ。しかしそれはある日を境に一変する。

「お前の音は聴いていて心地がいいな」

午睡誘う春の陽光を浴びながら一言。園林に面した廊に腰を据えた彼に、伶人に教わった楽を奏でてみせたところだ。音が止んで訪れた沈黙に落とされたその一言は、指揮する音に色を魅せ、鼓動の調子を狂わせた。気を張り詰めてばかりのこの人が初めて見せた気の緩んだ姿を、愛おしいと思った。同時に、この人のために奏でたい、とも。



―――宛てがわれた私室を埋めるのは、知る者が見れば感嘆するような意匠が施された調度品ばかり。華美とはいかずとも見窄らしいといった印象は与えないほどに計算され、洗練された品を凝らす物たちは、すべて今は亡き夫より贈られたものだ。妻を際限なく溺愛する不明、と謗る者も居ようが、このような進物を貰うようになったのは彼が魏王になってから。それまでは不要な出費は控え、必要なところに回していた。曰く、民を窮してまで贅を極めるつもりはない、とのこと。全く彼らしいことだと感心する。詩を好む気性と大仰な振る舞いから彼を誤って認識する人が多いが、気質は意外にも質素倹約的だ。

「太太、こちらはどうされますか?」

衣桁に掛けていた衣を、侍女が持ってくる。照る水面を想起させる淡い青の綾織を見て、道中で質屋に入れる物たちと同じ箱へ入れるよう指示する。言葉こそ是としていたが、その顔色は曇っており、動作は鈍い。目が泳ぐ様に言わんとすることを察して苦笑した。

「隠居の身でそれを持っていても仕方ないでしょう。売って、あなたたちの給金か路銀に変える方が有意義よ」

「夫君が太太にと拵えた物ですのに……」

「あの人なら笑って許すわ」

からからと笑ってみせれば、それ以上は何も言うまいと侍女は指示に従った。夫・曹孟徳が逝去して間もなく実子である曹丕が後継者になった。夫がまとめ上げていた統率が交代に際してその基盤が揺れ動き、静めるよりも先にやることがある、と言った彼は帝に禅譲を迫ってとうとう魏を建てた。おかげで城内のどよめきは波及する一方で、派閥の対立も深くなり激化していく一途。思うところが皆無というわけではないが、役目を終えた自分が横槍を入れる気もなかった。世代は変わった。漢室の根幹は取り除かれ、大きな空洞がもたらされた。大穴を埋めるがごとく、この先の時勢はいっそう乱れるだろう。前時代の私たちにできることは、次代へ継いでいけるように陰日向になって扶けること。そのための第一歩として前時代の妃は出て行かなければ。帰郷の支度を進めていくと、ふいに扉の外から声をかけられた。

「太太。夏侯大将軍がいらっしゃってます。お会いになられますか?」

守衛が張り上げた名前に、心臓が沈んで一瞬躍動を止める。夏侯将軍―――惇兄。聞くとは思わなかった名前だ。必然、来訪も予想しなかった。瞠目して立ち竦む自分を呼ぶ侍女の声に我に返り、水分がすっかりなくなって渇いた口を開き、通すよう伝え、入れたら退出を命じた。恭しく揖した彼女は扉の隙間へと体を滑り込ませ、視界から消える。はく、はく、と止まっていた分の動きを見せ始めた胸を抑え、平静を呼ぶ。たまさか吹いた寒暁の風が熱を持つ頭を冷やし、幾許か落ち着きを取り戻す。滑らせた視線は扉から漏窓へと移動し、ようやく起き始めた空を見つめ、再び扉へと戻す。それと扉が開くのは、ほぼ同時だった。―――刹那、視界は赤く染る。それがすだれであると気づくのに時間を要した。身を隠した事実に自分自身驚きながらも呼吸を繰り返す。そうしてようやく冷静になれて、帘から顔を出した。扉を背にして立つ彼は、房の脇に寄せた荷物たちを見ていた。

「少ないな」

顰めてみせた顔に図らずも笑みがこぼれ、全身のこわばりがゆるりと解ける。彼の心配性は変わらず健在だ。

「ええ。必要な物はすべて別邸に入れてありますから」

「そうか」

それでも納得したというわけではなさそうだ。しかしそれだけに留めたのは、自分が物持ち少ない方を好む気性と知っているからだろう。

「……もう発つのか」

ぽつりと落とされた呟きは、やけに湿りを帯びて響いた。彼も、別れを惜しんでくれているのだろうか。胸裡の奥底に沈めた泥土が呼応するように舞い上がり、胸が締め付けられる。しかしすぐにそんなわけないと考えを否定し、瞼を伏せた。

「家は遠いですから」

夫が用立ててくれた家は、許昌から遠く離れた場所にある。存命時に一度だけ訪れたことがある。四方を緩やかな山脈に囲まれた土地で、冬季は吹き下りる山風が少し堪えるが、それでも戦とは無縁で育ったその土地はなかなかどうして離れ難く感じさせるものがあった。母性、とでも言うだろうか。僻地でも住む人は居て、少なさゆえか内外問わず寛容的な人柄だった。夫はそこを安穏の地と定め、もし自分が先んじて世を離れることがあれば彼の地で暮らせ、と生前私に言っていた。ほんとうはすべての事が終わった後に二人で移り住む予定だったが、よもや一人で行くことになろうとは。再会するまでの月日を彼の地の風光明媚で慰めようか。あの場所で奏でる箜篌の音色は、きっと何処までも果てなく届くだろうから。

「それをわかっていてこの数か。いや、お前にしては多いのかもしれんが」

呆れたように首をゆるりと振る彼に否定してみせる。

「自分のと、連れ立つ侍女たちの分も含めての数です。路銀に替えられるようこれでも絞った方なんですけどね。残った分は彼女たちの給金として宛てがうつもりです」

いよいよ言葉を失った風情でたっぷりと沈黙が流れる。それを裂いたのは彼の深い嘆息だった。やれやれ、と額に指を当てる。

「世話好きが高じるとこうなるのか」

「許昌では散々世話になりましたからね。自分にできうる精一杯の謝意ですよ」

「それで自分の荷を減らしては世話ないな」

「あなたほどでは」

「不必要に手を埋まらせないだけだ」

突き放したような音は、怒られてへそを曲げた子供のそれにしか聴こえず、笑みがこぼれる。出征する際も彼の私室にも、彼の物への無頓着ぶりが遺憾無く発揮されている。過日の戦も例に漏れず少し多めの食糧だけを自分の私物とし、発とうとした。せめて軟膏だけでもと説き伏せたことは記憶に新しい。軍医は伴うし前線で指揮する以上不必要な物品は却って邪魔だ、と素気無く切り捨てられても尚粘った甲斐があり、最終的には受け入れてもらえた。これ以上身を損なわないでほしい本意に代わって、夫が成そうとした大事を息子が受け継いだのだからあなたが見届けないでどうするのです、と放った言が効いたのかもしれない。この人はほんとうに何処までもあの人のために生きるひとだ。

「せめて護衛の数は増やしたらどうだ。身分を隠すとはいえ、すべてを隠し通せるとは限らない。嗅ぎつける奴は嗅ぎつけるだろう。孟徳の妻など、そういう連中の香餌となるぞ」

固い語調で放たれた言葉に、すっと唇を引き締める。己の立場はよくよく理解しているつもりだ。死に別れたといえど私はあの人の妻。そしてあの人の実子は魏帝。それは変わらぬ事実。血が繋がらずとも縁戚関係にあれば狙われるのは必定。特に彼のやり方に強い不満を持っている者からすれば、私は籠から出た雛と映るんだろう。

「故にです。私なぞに割く兵をあの方にお使いください。あの方は失われてはならない尊い方。一介の寡婦とは到底並びません」

籠から放たれた鳥が必ずしも撃ち落とされるとは限らない。羽搏いて羽搏いて、誰の手も届かぬ場所にまで飛翔するかもしれない。背負う物がない鳥は、地上に留まる理由も持たないのだから。

「けどな……」

渋る彼に、静かに一言。

「―――ではあなたが来てくれますか?惇兄」

無論、ただの戯言だ。大将軍を下賜された彼は曹魏の基となる存在。内外問わず降りかかる万難を排し、国の長として立った彼を扶けなければならない。誰に言われるまでもなく、それは彼自身が一番望んでいることでもある。幼少のみぎりより、彼はただそのためだけに武を磨いて一途にあの人を支えてきたのだから。脇目も振らず、一心に。真に受ける彼が可笑しくて、ふふと笑いを転がした。

「大将軍にもあどけないところがあるのですね」

「俺で遊ぶな」

「お可愛らしいこと」

「おい」

「言いませんよ、これ以上は。眠れる虎の尾を踏みに行くほど酔狂ではありませんもの」

口元を袂で覆い隠し、くすくすと肩を震わせる。それを見た惇兄は付き合いきれんと呆れながらも、結局は最後まで付き合ってくれる。昔からそうなのだ、彼は。夫と私のやることなすことすべてに小言を突き刺してくるくせに、いざとなれば誰よりも一番に駆けつけてくれる。夫の悪心に感化されて一緒に余人の邸へ忍び込んだ挙句見つかって追い回された時、山賊に大切な物取られたと泣く女童の無念を晴らすため単身乗り込んだ時、売られた喧嘩を買ってあわや乱闘騒ぎにまで発展しそうになった時。思い返せば当時の自分は、今とは比べられようもないほどに外を駆け回って傷をいくつもこさえていた。母の訓示も大切だったけれど、夫と惇兄の方が輪をかけて大切だったのだ。―――もうあの頃のように駆け回ることも彼の手を煩わすこともないけれど。

「お前がそこまで言うならこれ以上は言わん。聞くとも思えんしな」

「よくお分かりで」

「何年の付き合いだと思っている」

何年、何十年、命尽きるまで。叶うならこの人の傍にもっと居たかった。これほど強く想っても、口にしたことはついぞない。この気持ちを抱きながら嫁すことを許したあの人の優しさを裏切る行為だと思うから。自分が何の憚りもなく外を駆け回っていた頃。もっと言えば、この気持ちを自覚したて頃。彼に訊ねたことがある。惇兄はどんな女性が好きなの、と。彼は答えた。孟徳が大事を成すまで娶るつもりはない、と。痛みを覚えると同時に、なら私も二人を支えたい、と返した。武芸のぶの字もない私が一体どうやって、と彼は呆れただろうに、彼はただ一言、そうか、とだけ。頭を撫でてくれたのが嬉しかった。女の身で無茶を言うなと否定しなかったのが嬉しかった。すべてが終わった時、気持ちを伝えようと思った。―――だが、現実はそれを許してくれなかった。元服を終えた私は別の男性に嫁することになったのだ。父も母も良縁だ良家だと諸手を挙げて喜んでいたけれど、私の心中は穏やかじゃない。しかも嫁ぎ先は揚州ときた。嫌だ、行きたくない、と泣いて泣いて縋ったのは後にも先にもあれだけだ。当然聞き入れられるはずもなく、話は着々と進んだ。ある日、あの人に訊ねられた。揚州に嫁するのは事実なのか、と。自分を見据える視線に非難も祝福もなく、だからと言うべきか、こぼすまいと胸中に押し込んでいた万感の気持ちが決壊してしまったのだ。わんわん泣きじゃくる私に一言。―――それなら私の下に来ればいい、と。お前の心が何処にあろうと構わない、と。あまりの衝撃に滂沱と流れていた涙は刹那にして止まり、轍を黒手袋の指が優しく消す。彼に嫁げばあの人・・・と一緒に居ることができる、と脳裏を掠めた自分を酷く嫌悪した。他の男を心中に留めて嫁ぐなど、褒められるものではない。父母がこれを知れば驚愕し、失望と怒りを露わにするだろう。しかし、そのような人道に悖る行為を眼前の彼は許すと言った。であれば、と私は彼に嫁いだ。時間がかかってしまったけれど父母も彼であればと認めてくれ、最後にあの人・・・に報告した。全身の神経が張り詰めた私の耳は鮮明にその声を拾った。よかったな、と。音もなく恋心は暗闇に沈んでいった。

「ほんとうにここに残るのですか?あなたは」

湿りを帯びて響いた自身の音に誰でもない、自分自身が一番驚いた。知られまいと抱えていたのに、見せまいと隠してきたのに。軽く目を見張った彼が、その音に気づいていないとは到底思えなくて。羞恥に後頭部を殴られ消えてしまいたくなった。何故こんなことを言ってしまったのか、と喉を絞める後悔に俯く。

「―――ああ。孟徳が遺したものを見届けねばならんからな」

胸に巣食うわだかまりが消えていく。喉を絞める後悔も羞恥も伴って。わかっていただろうに。彼が生きるのは何処までもあの人のためだってこと。彼が自分を選んでくれないこと。私と生きてくれないってこと。胸中に溜まる膿を吐き出すともはや何も残らなかった。悲しさも寂しさも、もうない。

「……あなたらしいですね」

吹き降りの雨後にやってくる晴れ渡る空のごとく。笑みは自然に漏れた。瞼の裏に浮かぶのは、過ぎ去りし日の思い出たち。水面で躍る陽光の粒のようにそれらは胸の中で瞬く。

「息災でな」

「ええ。惇兄も」

会うことはもうない。けれども、この思い出たちをかいなに抱き留めて羽搏くことはできよう。高く高く、何処までも果てなく。何者をも遮ることのない天上にて奏でるのだ、在りし日の音を。瞼を開けるとそこには彼の人は居なかった。すい、と滑らせた視線が捉えるのは漏窓の近くに置かれた箜篌。ぴんと張られた弦に触れると、視界の端に冬牡丹が留まった。薄紅に染ったそれは、寒暁の朝露を滴らせて凍っている。弦を弾いて音を響かせる。微睡みながらも起きようとする空に、己に課した道を突き進む彼の人に、届くようにと願いながら。