紫鸞

※紫鸞の過去が大いに出ます






ゆくりなく浮上した旧友の顔はとても嬉しそうに見えた。

「私ね、ようやく仕えるべき主が見つかったの!」

胸を躍らせるという表現が正しく当てはまる様子に、自分はただ首肯してみせた。

「もう!友の門出なんだからもっと喜んでよ、紫鸞」

む、と頬を膨らませて自分の名を呼ばう。しかしすぐにぱっと表情を明るくさせ、士官する人物が如何に仁徳者であるかを滔々と語り出した。

「―――それでね。自分だってお腹空いてるのに、幼子に空腹を強いるのは忍びないって、残り少ない食料を全部あげたの!立場的にもっといいご飯食べれるしなんならもっと吸い上げることだってできるだろうに、あの人は苦しんでる民と同じものを食べて、同じ物を着て、同じ場所で寝てるんだよ!あの人こそ荒れた世を治めてくれる人だよ、絶対」

確信を目の奥に宿し、力強く拳を握る。世は荒れている。拾い物としてこの里に住まう自分は、それを幾度となく外界で目にしてきた。飢えて死に、主君の不興を買って死に、賊に殺され、はびこる暗鬱な空気によって育てられた安寧への執着は、やがて歪みを生じさせて無辜を殺すにまで至ってしまった。不徳こそが人間の本然だと声を上げた者も居た。そういう世の中に心を痛め決起する者も居る。―――眼前の彼女がそうであるように。

「ねえ紫鸞」

暗く、落ち着いた声が名を呼ぶ。つい、と視線を滑らせると彼女のそれと交差する。固い決意を宿す碧天の瞳。

「あの人は誰も泣かなくていい太平の世を築いてくれる。だからあなたはここで待ってて。その時が来たら私が必ず迎えに来るから」

その人の傍に居ないのか、と訊ねる自分に彼女はからっとした笑みを見せる。

「会わせてあげる!それでこの人こそ私の主なんだって、たっくさん自慢する!約束よ」

こちらが頷くよりも早く彼女が立ち上がる。見上げた視線を掠めたのは風になびく深紅の腰紐だった。花の赤、炎の赤、血の赤。それを腰に回す彼女は堂々胸を張って先を見据える。里の入口を。

「朱和によろしく伝えておいて」

その言を聞き、二人は和解していなかったのかと目を見張った。別れを言わなくていいのか、と訊ねるまでもなくそれを察知した彼女が罰の悪そうに苦笑した。

「朱和は私を心配してああ言ったのはわかってる。でもこれは譲れないの。―――大丈夫!今生の別れってわけじゃないんだし、いつか帰郷してちゃんと謝るよ。だからそれまで朱和のこと頼んだよ、紫鸞」

白い歯を惜しげもなく晒してくるりと翻った。赤く染った腰紐が半円を描くように舞い、同胞を示す黒い衣が風を切って駆けていく。駆けていく。何処までも、果てまでも。小さくなっていく後背は、昇る日によって視界の色ごと消えていった。



「――の、―ん――、―――紫鸞殿!」

鼓膜を劈く声に瞼を開ける。鼻先にあったのは見知った少年の顔だった。目を瞬かせる自分に元化は肩を竦める。

「薬草探すの手伝うって紫鸞殿が言い出したのに、急に立ち止まったかと思えばずっとぼーっとしてましたよ」

指摘されるほどに忘我していたというのか。内心驚く自分に、彼は心配そうに声音を変える。

「大丈夫ですか?気分が優れないなら無理しなくてもいいんですよ」

問題ない、と返して先を見る。回り込んだ少年は進めた歩を再び止めた。

「何を考えてたんです?いつもぼーっとしてる人ですけど、いつもよりなんだか……、難しそうな顔してました。いえ、難しいというより複雑、かな……。ああすみません、なんか上手く言えないんです。だってその時の紫鸞殿の顔、難しそうにも嬉しそうにも懐かしそうにも見えたので」

逡巡して、打ち明けることにした。知己を思い出したのだと言う。今や誰も居ない里にかつて住んでいた友。太平の要たる責を誇らしげに抱え、重責に応えるように常剣術を磨いていた彼女。いつも笑みを浮かべ、細やかなことに気づき、自分と比肩するほどに健啖家だった彼女。久しく忘れていた友の顔を、ふと思い出したのだ。

「その人は今、どうしてるんです?」

訊ねられ、ゆるりと首を横に振る。白鸞と名乗る同胞に会い、すべてを思い出した。伴い、彼から彼女の死を告げられた。おのが主として見定めた男の手によって理不尽に命を奪われた、と。言葉を失う自分に白鸞はこうも続けた。―――だが最期まで決して己の選んだ道を悔いたりなどしなかった、と。それを聞いて思ったことは彼女らしい、というものだった。呼応して脳裏に浮上した懐かしい顔が笑う。知らず知らずに拳を作っていた。

「紫鸞殿?」

不思議そうに名を呼ばう少年を伴って薬草探しを再開する。突き進む先には白天の陽が照っている。白く焼き付ける陽光に応えるように、自分はそれを正面から受け止める。ついぞ果たされなかった約束を守りに、今度は自分から彼女を迎えに行こう。彼の者の下で。





白天、暁天を焼き
暁天、白天を呑む


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指先